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その他
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2014/8/8

【書評】長谷川和年『首相秘書官が語る中曽根外交の舞台裏 米・中・韓との相互信頼はいかに構築されたか』(朝日新聞出版、2014年) 

評者:佐藤 晋(二松学舎大学国際政治経済学部教授)



 

はじめに


   ここで取り上げる『首相秘書官が語る中曽根外交の舞台裏 米・中・韓との相互信頼はいかに構築されたか』で扱われている主要テーマは、著者で元外交官の長谷川和年氏が首相秘書官を勤めた中曽根康弘内閣期の日本外交である。副題にもあるように、この時期の日本外交は、アメリカ、中国、韓国との信頼関係を同時実現していたように見える。それは、現在の安倍晋三内閣が、集団的自衛権行使容認を核にして、アメリカとの信頼関係構築を追い求める一方で、中国、韓国との信頼関係は望むべくもない状況と好対照である。ただし、過去に繰り広げられた外交、その結果結ばれた条約すらも、その当時の戦略環境において展開され、その拘束を受けていたものと理解しなければならない。
   例えば日中共同声明は、一見、日中友好の証、日本側から見れば「戦後処理」の完結、または戦争責任の清算を意味するかもしれないが、中国から見れば、また当時の戦略環境から客観的に俯瞰すれば、その「一条線」戦略の中の挿話にすぎないのかもしれない。このように、1980年代にせよ現在にせよ、それぞれその時代特有の安全保障環境があり、関係国はその環境のもとで独自の戦略を展開させているという点を見逃してはならない。よって本書によって新たに知ることが出来る諸事実がいかなる国際環境のもとで展開されたのかを考察しておくことは、現在の戦略環境のもとでの日本外交の選択可能性を知る上で有用であろう。

韓国との関係改善


   長谷川氏が補佐官を勤めた中曽根内閣は「官邸主導外交」を特徴としていた。したがって長谷川氏は、外務省を離れたことでむしろ外交政策の主要部分に関わったとも言える。長谷川氏によると、中曽根内閣成立時には、中ソ関係に改善の兆しが見え、米中関係も必ずしも悪いものではなかった。日本としては、韓国との懸案処理が第一の課題で、その次が対米関係であり、中国は特段の懸案もなかったためそれほど重要視されてなかったという。その中で中曽根外交のスタートは訪韓であった。
   そもそも外交官として長谷川氏が重視していたのは日韓関係の強化であった。長谷川氏は、国連などにおける米加関係を見て、「日本が手を挙げたら、必ず賛同してくれる国、それがあるとすれば韓国しかないと実感」していたという。外務省としても、北朝鮮・ソ連からの安全保障を考え韓国の重要性を認識していたとし、とりわけアジア局は日韓協力の推進に重要な役割を果たしたという。韓国の経済が安定することを手伝うことが、日本の国益にかなうというのが政府の政策であった。また、日本の鉄鋼業界も浦項をはじめとする韓国の製鉄産業育成に、「日本がやらなくてもイギリスやアメリカが資金協力するだろうから」と考え、反対の気持ちを抑えて協力したのではないかと言う。また、カーター政権期の在韓米軍撤退問題については反対するというのが日本の立場であった。
   長谷川氏自身が尽力したのが鈴木政権時に紛糾した対韓経済協力問題であった。この問題は、韓国が日本の安全保障に貢献しているということを理由に、60億ドルもの援助を要求したことが紛糾の発端となった。一般には中曽根政権になって瀬島龍三が対韓40億ドル経済援助で決着させたことになっている。しかし、長谷川氏は鈴木内閣時代に、既に事務レベルで40億ドルの合意が、長谷川氏と金東輝外務部次官の間で成立していたと証言する。その上で中曽根内閣が成立した後に瀬島氏が重用されたという流れで、そのあとの日韓関係には瀬島氏の働きも見られたという。また、鈴木内閣の時の金大中死刑判決は、状況次第では自民党が割れるかもしれない事件だったという。このとき、減刑を働きかける上で瀬島が活躍してくれたという。一方、全斗煥来日の際の昭和天皇の「お言葉」は、中曽根首相が自ら手を入れて外務省事務当局の原案をほぼ書き改めたものであったという。
   本書では、北朝鮮への働きかけなど朝鮮半島問題への水面下での働きかけについての言及が多く見られ、これはこの回想録のもととなったインタヴューの質問項目に北朝鮮関連のものが多かった影響かとも思われるが、長谷川氏の説明する対韓政策の基本は、まずは韓国の意向に従うことが第一で、次にアメリカの意向も考慮しなければならず、その結果日本が独自に動ける範囲は狭かったという。今日でも拉致問題をはじめ直接北朝鮮との交渉が望まれる場面もあるが、核・ミサイルなど朝鮮半島問題は広範な問題を抱えており、独自の制裁解除などの融和策に出づらいなど、当時との連続性が認められる。

中国との信頼構築


   中曽根自身の証言(『中曽根康弘の語る戦後日本外交』など)によると、ソ連の脅威に対抗する上で重要と考えられていたのが、中国との協調関係であった。
長谷川氏は、中曽根首相が中国に向けて発したものの中で重要なこととして、「歴代総理としては初めて、過去の日中関係は侵略行為だ」と述べたことを指摘する。この点については外務省からの抗議を受けたという。
   一方、中曽根は、共産主義国家中国の特徴に鑑み、政府を代表する趙紫陽国務院総理とともに党を代表する胡耀邦共産党書記との関係を重視していたという。その胡耀邦は中曽根首相との良好な関係が一つの原因となって失脚したと言うが、本書で長谷川氏は親日が失脚の主要な原因ではないとも述べている。つまり、胡耀邦が党内のロートルを祭り上げ、?小平の反発をかっていたことを指摘している。ただし、当時の政権は、胡耀邦の親日姿勢を失脚の原因と考えていたようである。
   中曽根が、1986年に靖国神社参拝を取りやめたのも「胡耀邦の立場が苦しくなるから」であったと言う。アジア諸国に事前に説明していたにもかかわらず85年終戦記念日の公式参拝が反発を引き起こしたのはA級戦犯の合祀であったと言う。86年7月に訪中した稲山嘉寛から、?小平・胡耀邦らの反対せざるを得ない理由を伝えられた。おそらくこの後、長谷川氏は分祀にむけて動いたものの、靖国神社の宮司の反対で実現しなかった。胡耀邦は、中国国内の日本に批判的な勢力を抑え、ソ連の日本軍国主義批判に中国の若者が同調するような事態を防ごうと、日中友好を推進してくれているとの認識が日本側に強かったようである。ようするに胡耀邦を守る、それ以上に日中関係全般を考慮したことが参拝断念の理由であった。しかし、87年はじめに胡耀邦は失脚してしまうが、その事前情報は日本側に届いておらず、突然の予想外の事件であり、中曽根自身はひどく失望した様子であったと言う。ただし、長谷川氏はこれにより改革開放路線が修正されるとの恐れは持たなかったといい、中曽根首相もそうであったろうと述べる。したがって、中曽根政権の胡耀邦支持は、その親日姿勢に期待をかけたためということになろう。
   当時の「親日的」な胡耀邦との間の日中友好関係は、いわば表面的なその場限りのものであった。そもそも賠償を放棄した日中共同声明、対ソ「覇権」条項を含む日中平和友好条約ですら、その当時の国際環境において現実化したものであった。一方、何の情報も発言権もなく、検討の機会も与えられなかった中国人一般にとって、こうした条約が両国間の問題の処理を完成させたものと言えたかどうかは分からない。その実、中曽根は、対中円借款をあたかも賠償の代わりということを伝えつつ供与していたのであり(鹿取大使発本省あて「総理訪中(コヨウホウ総書記との会談)」1984年3月25日)、日本側にも同様の認識があったことがうかがえる。ただし対中円借款の増額は、そもそも政府が1981年の経済協力新中期目標で1985年までに二倍以上の214億ドル以上にすることを掲げていたことをから考えると、それほど特別なことではなかった。また、ソ連の脅威についても、中曽根が感じていたような切迫感を、中国側が抱いていたかどうかも疑わしい。要するに、中曽根内閣期の日中信頼関係も、表面的で一時的なものにとどまっていたと言えよう。

対米関係の懸案処理


   一方、経済問題の悪化で険悪となっていた対米関係を改善するために中曽根首相が推進したのが、対米武器技術供与と防衛費の増額であった。前者については中曽根首相自らが通産省を、後者については大蔵省主計局を後藤田正晴官房長官とともに抑えて実現させた。その他、チョコレートやタバコなどの市場開放についても官邸主導で実現していった。また、有名な日の出山荘での中曽根・レーガン会談の提案は、長谷川氏が行ったものだと言う。この天心亭の会談で話された内容は、ただ一人同席を許された長谷川氏が首相に提案しておいた米海軍の空母艦載機の夜間離発着訓練問題であったという。
   次にSDI研究参加問題についても、重要な事実が明らかになっている。まず、長谷川氏によると、SDIについて中曽根首相は、ソ連に与える心理的効果を考えており、その実現には疑問であったと記している。一方、外務省は当初から賛成であって、1984年6月に作製した「SDIに関する基本方針」のなかで、SDI構想に込められた、防衛の基礎をMADに求めるのではない「防衛は防衛的手段でという考えを画期的だと評価し、さらに付け加えて米ソの競争になるなら米が先行すべし、との意見を表明していたという。ただし、1985年3月のボン・サミット時の日米首脳会談では、SDI五原則(抑止力の均衡重視=「ソ連への一方的優位を求めない」、ABM制限条約に違反しない、ソ連との交渉が先行すべき等)を条件につけたという。また、日本側は研究参加を通じて遅れていた日本の先端技術の向上につなげようとの考えを持っており、そのためには経済界の参加が必須であった。そこで、1986年4月の官民合同調査団報告書の提出を受けて、その9月に参加が決定したという。おおむね、中曽根は日本のハイテクに期待するレーガン政権の希望に応えるべく、対米協力の一環として研究計画への参加を決めたようである。
   86年7月に外相に就任した倉成正に対して中曽根自らが指示を出しているが、対米関係については「対米MOSS協議、構造対話、前川報告の実施これら全てに積極的に取り組んでいくこと。これが日本の生きる途である。前川報告については、自分が推進本部長となり、全力を挙げてやっていく」と述べている。中曽根内閣がプラザ合意に踏み切ったのも、アメリカからの貿易不均衡是正要求に応えるためであったとされる。このようにアメリカからの経済的要求に最大限応えていくことが、厳しい安全保障環境におかれた日本の「生きる途」と考えていたようである。
   ところで、中曽根内閣期には「環太平洋連帯構想」は出てこないし、対アジア外交では中国、韓国など北東アジアに力点があったという。ソ連に対する「アジアの壁」構築という観点からすると当然であろう。ただし、東南アジアでASEANは重視されたが、この点で「環太平洋連帯構想」に外務省は批判的とならざるを得なかった。それは、この構想にASEANが反発するからであった。かわりに中曽根が言及していたのは「太平洋共同体」であり、この趣旨は日本が、アメリカ、中国、韓国、ASEANとの関係を強化し終わったら、次には太平洋諸国に協力の力点を移そうというものであったという。やはり、中曽根外交の優先度は、アメリカ、中国、韓国の順であった。
   要するに中曽根内閣期は、二国間関係の改善という観点から見れば、ソ連の脅威を背負い、かつ経済建設が死活的課題であった中国とが最も容易で、同じく北朝鮮の脅威と経済発展を最大目標とした韓国との関係がそれに続き、ある意味で貿易摩擦・経済摩擦の連続で緊張した日米関係のマネージメントが最も困難であったと言えるかもしれない。

日本外交の様々な試み


   その他、本書では、これまで知られていなかった新事実が長谷川氏によって多く語られている。例えば、イラン革命の際の日本による試みである。当時、テヘランに参事官として赴任していた長谷川氏は、イラン革命は国民の抱く経済格差・不満への早期対応によっては防げたと述べ、さらにイラン革命はイスラム教徒だけが起こしたのではないと考えていたという。つまり、シャーの政権への広範な不満が原因であったという。この不満の中には拙速な「改革(西欧化)」も含まれている。したがって、こうした経済的不満に対処していたホメイニの新政権の存続可能性を高く評価していたという。とはいえ、アメリカの影響力が払拭された後にソ連が、世界有数の産油国のイランに進出してくることは悪夢であった。そこで、長谷川氏は半ば個人プレーとして、イラン新政権とアメリカとの妥協の可能性を探ったという。つまり、イラン新政権内のリベラル・親米派と結びつける形でアメリカを復帰させるとの試みであった。しかし、これはテヘランのアメリカ大使館占拠事件で挫折してしまったという。
   また、1974年に東南アジアを歴訪した田中角栄首相は反日暴動にあったが、その際のインドネシアにおける暴動(マラリ事件)についての言及も興味深い。長谷川氏によると、インドネシア側の調査報告書が1974年8月以降公表されており、その中で事件の背景にスジョノ対ムルトポという大統領側近同士の対立があったことが判明していたという。この経験をもとに鈴木善幸首相のジャカルタ訪問時には、治安の維持を要請したところインドネシア側がデモへの「発砲命令」を出していたために、同じような暴動には遭わなかったという。

終わりに


   最後に、長谷川氏の証言を通じて理解された1980年代の日本外交が今日に遺したもの、つまり現在の日本外交に与えた影響はどのようなものであるのかについて議論して結びとしたい。本書を通読し、最も意識せざるを得ないのは東アジア諸国との外交関係の急速な変転である。まず、今日との好対照をなすのは中国との関係であろう。当時の友好関係が表面的であったにしても、やはり現実の二国間外交は安定し、両国の首脳に友好関係を維持・発展させようとの強い意思が見られた。また、韓国との二国間関係も今日のような敵対的なものではなかった。もっとも、当時の「信頼関係」が表面的で一時的なものであったとしたら、今日の「敵対関係」も同じようなものかもしれない。
   ただし、こうした状況変化の根底にある東アジアの安全保障環境の変化は厳しく認識すべきである。まず、中国は当時と比較できないくらい経済的に成長を遂げた。また、韓国も先進国としての地位を築いてきた。さらにソ連の脅威は消滅し、むしろロシアと中国はあたかも「共通の敵」を見いだしたかのように良好な関係を発展させつつある。例えば、こうした中露関係は一時的、表面的なものかもしれないが、中露の経済的補完性、アメリカとの紛争領域の拡大、西側のものとは異なる価値観の共有などといった要因が両国をより緊密に結びつける可能性は高い。したがって、各時代の当局者は、現在考えられる最悪の危険性に対応可能なような手段を保持しつつ外交を進めていくほかはない。
   一方、経済のグローバル化が進展し、中国やロシアも国際経済の網の目に深く組み込まれていることも事実である。ただし、こうした経済的相互依存においては相対的な依存度の違いが重要であり、中国の巨大市場やロシアの資源は、両国の指導者にとって対外的優位を示すものと受け取られている可能性がある。したがって、グローバル化や経済的相互依存の増大が戦争を不可能にしたり対外強硬政策をとりづらくしたりするものとも言い切れない。
   また、一般的に条約や広く国際法は、当事国に結ぶ利益、守る利益がある限りは有効である。裏を返せば、既に不利益となった条約や国際ルールは、早晩捨て去られる運命にある。もっとも、それを破棄した国に対して生じる信頼性の低下などのデメリットは、より長期的な影響を与えるため、簡単には破棄されない。ただし、戦略環境が決定的に変化した場合は、メリットがデメリットを上まわると判断される蓋然性が高まる。独ソ不可侵協定や日ソ中立条約は言うまでもなく、日米安保条約ですら、東アジアのパワーバランスなどの戦略環境の変動、それによる当事国の利害判断の変化いかんによっては、本質的にはいつ破棄されても不思議はないものである。それは、経済的な国際ルールが情勢に応じて変容していったことと、あたかも同様である。固定相場を各国が維持したブレトンウッズ体制は1960年代までの貿易拡大を通じた世界経済の成長には適合的であった。しかし、その体制が各国の資本移動を厳しく規制するものであったため、1970年代の資本移動の増大に対しては不適格であった。そこで、国際経済システムに大きなダメージが生じないように、対外直接・間接投資の活発化をコントロールしつつ経済成長に寄与させる仕組みが必要となっていったのである。
   確かに、表面的な二国間外交の状態をもって、単純に安倍外交が稚拙で、中曽根外交が成熟の極みであったとは言えない。ただし、結果は事実として受け止めなければならない。つまり、より対応困難な戦略環境には、より巧妙な外交的手法を駆使しなければいけないのである。とりわけ中国が周辺国を一度に敵に回してくれている中、今後は東南アジア・太平洋諸国と経済文化だけではない軍事面にも及ぶ相互信頼関係の構築も考えるべきであろう。その一方で、今後も中国の強大化が続くと想定して、その圧力を緩和させるような多国間の信頼醸成システムの構築が必要であろう。もはやソ連という共通の敵の存在には頼れないのである。これは不透明なアメリカの抑止力への依存を深める場合のリスクをヘッジするためにも必要であろう。その点、中曽根内閣は、首相自身の戦略的見通しのもとで、当時の安全保障環境に適合的な外交を推進したと言え、本書は今後の日本外交の指針となり得るものであろう。