漁業制度改革に必要な基本認識の共有について ―「海」と「魚」は誰のものか?― (水産資源管理における社会経済的な公平性と生態系影響要因評価研究 プロジェクトメンバー 有薗眞琴)

 

   我が国の漁業生産量は、ピーク時(1984年)の1,282万トンから436万トン(2016年)まで激減し、止まるところを知らない。それは遠洋・沖合漁業のみならず、沿岸漁業及び養殖業を含めた全ての部門で起きている。こうした事態を打開しようと、国(水産庁)は、『水産基本法』(2001年)に基づき策定する「水産基本計画」を5年毎に見直しており、現在は4次計画(2017年4月以降)に入っている。しかし、各種施策の効果は一向に現れて来ない。その根本原因は、一体どこにあるのか。 

   私は、その最も大きな原因は、漁業権をはじめとする日本独特の制度・システムにあり、特に「海」と「魚」に対する我が国の法体系が、最早、科学を基礎とする現実社会とは相容れないものになっている(「制度疲労」を起こしている)ためだと捉えている。

 そこで、本稿では「海と魚は誰のものか?」という国民が抱く最もベーシックな疑問の一つについて出来るだけ解りやすく説明し、その基本認識の共有を通じて漁業制度改革の必要性を漁業関係者をはじめ広く国民に訴えたい。

 

「海」は誰のものか?

   私たちは、しばしば海に出かけ、海水浴・潮干狩り・釣り・サーフィンなどさまざまなマリンレジャーを楽しんでいるが、その際、「そこでアサリを採ってはいけない」と漁業者に叱られ、「海は誰のものか?」と、大いなる疑問と義憤を感じた経験をお持ちの方も多いのではないかと思う。

   その問いに単刀直入に答えるならば、海は国の所有物(国有)であるというのが、戦前から現在に至るまでの学説・判例の一致した見解である。その根拠は、『公有水面埋立法』(大正10年)の第1条に、「公有水面ト称スルハ河、海、湖、沼其ノ他ノ公共ノ用ニ供スル水流又ハ水面ニシテ国ノ所有ニ属スルモノ」と規定されていることによる。

   これに関連して、最高裁判所は、「海は、古来より自然の状態のままで一般大衆の共同使用に供されてきたところのいわゆる公共用物であって、国の直接の公法的支配管理に服し、特定人による排他的支配の許されないものである」(最判昭和61年12月16日、愛知県田原湾干潟訴訟)として、国家による直接的支配管理権という観念で、海の所有権を説明している。

   海が国の所有物であるのなら、「なぜ、漁業者から文句を言われなければならないのか?」ということになるが、海岸線に沿った海には、たいてい何処でも、『漁業法』(昭和24年)に基づく「漁業権」が設定されており、その「漁業権」は物権とみなされて(第23条)、法的に強く保護されていることによる。たとえば、アサリを「漁業権」の対象としている海域では、免許を受けた漁業者に対してアサリを排他的独占的に採る権利が与えられているため、一般市民が無断で採れば、漁業権を侵害したとして告訴され(親告罪の適用)、罰金刑に処せられることになる(第143条)。

   それでは、漁業者以外の私たち市民は、海を自由に利用できないのかと言えば、決してそうではない。自然の状態の海は、公共の用に供されるところの「自然公物」と定義されるものであり、それらには、「他の多数の人々による同一の利用と共存できる内容をもって、かつ共存できる方法で、各個人が特定の環境を利用することができる権利」(「自然公物利用権」)が存在するとされている。

   したがって、私たち市民は、誰もがそれら「自然公物」を利用できるのであるが、これまでの通説・判例では、マリンレジャーなどによる海の自由使用、一般使用での公物利用者の利益は、反射的なものに過ぎないとされている。つまり、国が管理している海を付近の住民が海水浴等で利用できるのは、国がその利用を許していること(禁止しないこと)によって間接的にもたらされる利益であって、付近住民等が海水浴をする権利を有しているのではないということなのである。

    このように、我が国においては、私たち市民が有している「自然公物利用権」は、「物権」として排他的独占が許されている「漁業権」に比べると、その法的保護は非常に弱いものであるというのが現実である。したがって、漁業者の中には、「海は自分たちのものだ」と誤解する者が出てくるのは、むしろ当然のことと言えるのかも知れない。

    こうした事態に対して、『規制改革推進のための3か年計画(再改定)』(平成21年3月閣議決定)は、「漁業権については、その保護の解釈が漁業者において誤って解釈され、遊漁者・ダイバーと漁業者とのトラブルが多く生じていることから、漁業権の保護に係る解釈については、改めて漁業者や漁協に止まらず、広く国民に周知徹底すべきである」とし、それを受けて水産庁がホームページ等を通じて注意喚起をしているのであるが、トラブルは一向に後を絶たない。

   それでは、そもそも「漁業権」とは何なのかであるが、「漁業権」というのは、海の支配権でも所有権でもなく、それぞれの漁業の免許の内容(漁場の位置、区域、漁業種類、漁業時期、漁法等)の範囲内で漁業を営む権利なのであって、いわば海の「利用権」、水産生物の「採捕権又は養殖権」と解釈すべきものなのである。つまり、「海」は国民のものであって、決して漁業者のものではないということである。

 

「魚」は誰のものか?

   我が国では、古来、野生の獣や海の「魚」は誰のものでもないとされ、先に獲った者の所有物になるという考え方(「無主物先占」)がある。このため、日本の漁業では「早獲り競争」が広く行われ、乱獲により水産資源の減少に歯止めがきかない状況に陥っている。

   具体的に言えば、この「無主物先占」とは、『民法』第239条第1項に基づく規定であり、通常、海に生息する魚介類は「所有者のない動産」とみなされ、所有の意思をもって占有することによって、その所有権を取得することになっている。したがって、この原理に基づくかぎりは、漁業権対象の水産生物を除いて、「魚」は誰のものでもないことから、国の管理責任は希薄になり、水産資源の管理は漁業者の自主的管理に委ねる方式(ボトムアップ・アプローチ)が妥当であるという、現在の行政姿勢につながる。ここに、我が国における水産資源の管理が科学性を欠き、資源の減少と漁業の衰退に歯止めがかからないという、根源的な問題が潜んでいるのである。

   一方、英米においては、コモン・ロー(慣習法 : common law)として、国土や自然の恵みの利用は、全ての国民が平等に有する権利であり、それら公物の管理は、もともと国民から国家・公共団体に信託されたものであるとする「公共信託主義」(Public Trust Doctrine)が存在している。したがって、海洋や水産資源の管理は、多くの場合において、その管理責任を負う国が、強制力のある公的規制をかける方式(トップダウン・アプローチ)がとられ、そうした国においては、科学的根拠に基づく規制によって、水産資源の持続的利用が図られ、漁業の成長産業化に成功しているのである。

 それでは、「我が国の制度をどう変えれば良いか?」ということだが、水産資源の所有権の帰属について、『民法』第239条第1項の「無主物先占」ではなく、同法第88条第1項の「天然果実」の原理を根拠とすべきだと考える。この「天然果実」とは、「物の用法に従い収取する産出物」とされ、例えば、果樹園で採取された果実、菜園で収穫した野菜などがそれに該当する。同様に、国の所有・管轄下にある海洋において、その持続的利用の管理の下で生産された水産資源を「天然果実」と見なすことには、十分な合理性・妥当性があろう。  

   つまり、「天然果実」の原理を採用するなら、海洋が果樹園に、漁獲物はそこで採取された果実に相当し、それらを収取する権利はもともと国民にあるが、その利用管理を国民から負託された国が、漁業者にその採取権を与えるという考え方が成り立つのであり、英米の「公共信託主義」に極めて近い法体系とすることが可能になる。

 『国連海洋法条約』(1994年発効)によって、排他的経済水域における水産資源の保存管理については、沿岸国が適当な保存措置を講ずべきことが規定されている(第61条)にも拘わらず、我が国は、依然として「無主物先占」の原理を引きずりながら、水産資源の管理を漁業者の自主的管理と「早獲り競争」に委ねる方式を続けているのであるが、こうした状況は国際規範を大きく逸脱している。

 したがって、我が国における水産資源の管理を「無主物先占」から「天然果実」の原理へと速やかに転換し、「海洋と水産資源は国民共有の財産である」という基本認識の下で、漁業関連法を抜本的に改正するとともに、国の責任において科学的根拠に基づく水産資源の管理を強力に推進すべきである。