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インタビューシリーズ「障害者の自立を考える」:高山亨太さん <前編>

April 4, 2013

高山亨太さん(東京都立中央ろう学校スクールカウンセラー)インタビュー概要

日時: 2013年1月29日
インタビュアー : 三原岳 (東京財団研究員・政策プロデューサー)
石井靖乃(日本財団国際協力グループ長兼公益ボランティア支援グループ長)

「障害者の自立を考える」インタビュー企画の第2回は東京都立中央ろう学校や日本社会事業大学などで、聴覚障害者・児や難聴者・児に対するカウンセリングに当たっている高山亨太さんに話を聞きました。高山さんは幼少の頃に聴力を失いましたが、ろう・難聴者を受け入れている米国の「ギャローデット大学」に留学したほか、精神保健福祉士の資格も取得し、ろう・難聴者に対する心理面からの支援に当たっています。高山さんは聴覚障害に関わる専門職のレベル・意識の低さや、研究職に障害者が少ないことに危機感を抱いており、将来は「ろう者や難聴者に関わるソーシャルワーカーや臨床心理士、手話通訳者を養成していきたい」という夢を持っています。高山さんに生い立ちや大学進学・留学に至った動機、障害者の社会参加に必要な方策などを聞きました。

口話法による授業に遅れ

幼稚園はろう学校(=現在の聴覚特別支援学校)に通っていたが、「たくさん友達が欲しい」という高山さんの意向で地域の小学校に通学し始めた。人間関係などで悩む機会は少なかったというが、聴覚口話法(=補聴器を活用し、口の動きで会話を読み取り、音声言語を活用して会話する方法)では抽象的な概念を理解するのには限界があり、掛け算や割り算、分数の学習に時間が掛かったという。

出身は神奈川県平塚市です。1981年9月21日に、聞こえる両親の下に生まれました。耳が聞こえないことが分かったのは3歳の頃。両親が共働きなので保育所に通っていたのですが、保育士が「音に対する反応がない。呼び掛けても反応がない」との心配を母親に伝え、病院に行って聴覚障害が分かりました。その少し前から聴力が落ち始めていたのかもしれませんが、いつから聞こえなくなったか分かりませんし、原因も分かりません。聞こえていた記憶もありませんし、聞こえないのが当たり前ですので、原因を知りたいとも思いませんが。その後、当時、聴覚口話法で有名だった平塚ろう学校の乳幼部に短期間通った後、幼稚部に入りました。時期は覚えていませんが、地域の小学校に入るための準備で週の半分か、3日間ぐらい地域の幼稚園に通い、それ以外はろう学校幼稚部で補聴器の活用方法と口話法を勉強しました。恐らく小学校段階でインテグレ―ション教育(=健常児と障害児が同じ場所で教育を受けること)を選択肢の一つとして母親が考えており、その準備だったと思います。当時は服の上にかけるための補聴器専用のポケットを母親に作ってもらい、箱型の補聴器を2つ入れていたので、まるで人造人間みたいな感じでした(笑)。結局、小学校はろう学校ではなく、地域の学校に通いました。ろう学校は実家から近かったし、地域の学校も近かったので、母は「ろう学校と普通校とどっちがいいの?」と私に聞いたところ、全く記憶にはありませんが、私が「たくさん友達が欲しいんだ」と答えたようです。そこで、生徒の数が多いということで、地域の小学校でインテグレーション教育を選択したようです。ただ、「インテグレーション教育が良い」と意味も分からずに言っていたと思いますし、とにかく友達がたくさん欲しかった。もし普通学校に入った後、私が「ろう学校に戻りたい」と言ったら、「いつでもろう学校に戻す心の準備はしていた」と後になって母から聞きました。でも、僕はろう学校の方に戻ると言わなかったし、結局戻らなかった。

実際、小学校は楽しかったです。体を使った遊びもやったし、友達関係で言えば困ったことは特になかった。確かに自分がいじめの対象になりやすかったと思うし、からかいや喧嘩は多かったのですが、元々が負けず嫌いな性格で、いじめられたら殴り返すような子どもだったので、いじめが長く続くことはありませんでした。しかし、他の弱そうな子ども達をいじめたことがあります。自分よりも弱そうな子を見つけて、うっぷん晴らしですかね。コミュニケーションできないから、グループから仲間外れにしたり。本当は仲良くなればいいのに。自分が仲間外れにされたくないので、マイノリティよりはマジョリティグループ側にいたかった気持ちがあったかもしれません。クラス全体でいじめの状況があり、自分もそれに加担していた。今から思えば悪かったと反省していますし、やはりいじめは許せませんね。それと、小学校の時は1週間に1回、難聴学級が設置されている別の小学校まで「通級指導教室」という形で通っていました。おしゃべりや発音の訓練、学校で遅れている勉強、特に国語や算数の遅れを補助してもらったり、補聴器を調整してもらったりしていました。主に通うのは難聴児で、聴覚口話法を使うので、手話に出会うことはありませんでした。しかし、バスに乗って30分もかけて通い、半日も使うのは面倒臭かったし、「何で自分だけあそこに行かなければいけないのか」と思っていたので、通う意味が分からなかったため、休むことも多かったのも事実です。しかも、難聴児の友達が通級している時間がバラバラなので、いつでも交流できるわけではなかった。自分の通っていた普通校に他の難聴児もいませんでしたし、通級では友達も余りいなかった。

しかし、今から考えると勉強という面では遅れていたのでしょうね。音読の時には先生や友人が該当部分を指でなぞってくれたり、先生も黒板に内容を書いてくれたりしたのですが、口話では授業の内容を理解できた記憶はほとんど残っていません。特段に配慮はありませんでしたし、求める手段も知らなかったし、情報保障という概念も普及していない時代だったので、親も先生も知らなかったと思います。このため、小中学校で習うべき、理解するべき内容の20%ほどしか分からなかったんじゃないでしょうか。それでも平仮名や漢字の勉強は見て分かりますので、見よう見まねで何とか理解できますし、週1の通級学級での個別指導で多少は救われた部分はあります。しかし、大学に入った時に小学校5~6年生ぐらいの自分の作文を改めて見たところ、やっぱり言葉の使い方に間違いが多かったり、普通の子と比べると内容的に幼稚だったり、「てにをは」の間違いがあったり。国語は好きでしたが、日本語という面では遅れていたと思います。それと、割り算やかけ算、分数の理解など抽象的な概念はなかなか理解できませんでした。足し算、引き算は簡単ですけど、小学校3年生の時に割り算の意味を理解できず、みんなの前で黒板に書かれた割り算の問題を答えられず、授業の中身を理解できていないことに気付きました。15分ぐらい黒板の前に立ち、最後は泣いてしまったことを今でも鮮明に覚えています。ある意味では、トラウマのような体験かもしれません。掛け算、割り算の意味が分かったのは小4~5ぐらいだったと思います。多分、学力の基礎となる国語の力の問題と、先生の教え方の問題が影響していたのではないかと思います。算数、数学が楽しいと思えなかったのですよね。もし教え方の上手な先生だったら、今頃もっと数学を好きになっていたかもしれないですけど。

逆に得意なのは英語でした。国語や算数、音楽は遅れていましたが、英語だけはみんなと一緒にゼロからのスタートなので、「自分が勝てる部分かもしれない」と思って楽しかった。自分も分からないけど、みんなも分からない状況でしたので。とにかくそこだけは負けたくないという気持ちがあって勉強したことを覚えています。しかし、難聴学級の方では小学校5年ぐらいに既に教えてもらっていました。先生が将来を見据えて、先に教えてくれていたのかなと思うんです。小学校5年生ぐらいで聞こえないことを深刻に悩むようになりました。それは恋をしたからでしょうか。その頃から頻繁に補聴器を外し、聞こえるように振る舞っていたことを覚えています。周囲に「バイオリンを弾ける」と吹聴したこともありました。聞こえるのが当たり前の友達の中で、ひとりだけ聞こえない自分に自信を持てなかったのでしょうか。

手話、ろう文化との出会い

将来の大学進学を希望していた高山さんはろう学校高等部ではなく、地域の高校に通うことにした。その時、聴覚障害の友人とのコミュニケーションに苦労し、手話の重要性を感じるようになる。

高校もろう学校ではなく、地域の学校に通いました、「大学に行きたい」という目標を明確に持っていたので、普通科で進学に向けて学習できる環境が欲しかったのです。ろう学校の授業内容については、幼稚部時代からの同級生から「当時のろう学校に普通科はほとんどなく、授業も遅れている」と聞いていたので、「大学受験に適した環境ではない」と思ったし、ろう学校の受験も全く考えませんでした。家族や担任もろう学校という選択肢は言及しませんでしたし、私も「ろう学校には戻らない」という変なプライドを持っていたのかもしれません。高校入学後は聞こえないことを自分から説明しました。英語のリスニングに関しては、先生に個別で相談し、代替問題を作ってもらいました。割と教員は理解してくれて、すぐに対応してくれたと思います。しかし、今でも付き合いのある友人を作れたかと言うと、そうでもないですね。特に配慮してくれたこともありませんでしたし…。部活動に入らなかったので、放課後はバイトに明け暮れていました。ちゃんぽん麺のチェーン店で、愛を込めてラーメンを作っていました(笑)。

手話に本格的に接したのは高校に入る前後ぐらいからです。それまでも手話やろう者とは接点がありましたし、幼稚部の時の同級生2~3人はろう学校に入っており、彼らとの付き合いは続いていました。彼らは手話も使うし、彼らとの交流を通して「ろう学校はどんな所なのか」ということも理解していました。今でも機会があれば再会しているし、Facebookで交流が続いている大事な友人です。しかし、中3か、高1ぐらいの時と思いますけれど、ろうの友達が欲しかったので、ろう学校に頻繁に遊びに行くようになりました。ろう学校には聞こえない友達もいるし、話も分かるし、「仲間に入りたい」「羨ましい」と思った時期がありました。最初は高校に入ったぐらいに指文字を覚えて、日本語に対応した手話は高校2年か3年ぐらいに覚えました。たまたま「神奈川県難聴児を持つ親の会」が難聴の子どものための一泊ぐらいのキャンプを毎年開催していましたので、そこにボランティアとして参加しました。その場で、聞こえる東海大学の学生さん達が手話を使う状況を見たのですけど、自分だけが手話をできず、その時にちょっと苦しい思いをしたというのがあって。以前から「手話をやってみたい」という気持ちもあったので、思い切って勉強しようと決めたのが高校2年です。その後、地域の手話サークルに行くようになった上、家の近くの東海大学の学生に誘ってもらって大学の手話サークルの活動に参加するようになりました。「もっと早く手話を勉強しといたら良かった」「教えてくれたら良かった」という気持ちはあります。もちろん、手話の存在やろう学校は知っていました。ただ、「自分は口話ができる」という変なプライドがあった。親からも「手話もやってみたら?」と言われなかった。なので、手話を勉強する機会が結局、高校生までなかった。それと、高校2年の時にろう学校の女の子と付き合っていたんです。しかし、1カ月ぐらいで、「手話ができない男は嫌」と振られました。それは非常に辛い思い出で、プライドはズタズタでした。しかし、手話を覚えると、心地良く快適。ろうの人達と話ができるので、非常に嬉しく思いました。米国の「ギャローデット大学」に留学した時も手話で勉強できる面で、「ろう学校や手話で学べる環境はいいな」と感じました。手話で勉強できるという意味では心理的に非常に楽ですし、質問も自由にできますから。

専門学校で社会福祉を勉強

高山さんは当初、弁護士を志して大学に入るが、六法全書に依拠するドライな感覚が肌に合わずに退学。専門学校に2年間通い、精神保健福祉士の受験勉強に取り組んだ。現場の実習を通じて、人と接点が多い社会福祉の仕事に関心を持つようになる。

地域の高校を卒業した後、首都圏の私立大学を1週間で辞めました。最初は弁護士になるつもりで受験したのですが、入学後すぐに「法律がドライで肌に合わない」と思ったのです。実は、第1希望の大学があったけど、そこを落ちた。しかし、第2希望の大学でも、「とりあえず法律を学ぶのだったらいいか」と思って入ったんです。大学入試センター試験の時、特別措置(=リスニングを免除する代わりに、別の問題を出すなどの配慮)を申請しましたが、一般入試の時の特別措置は特にありませんでした。あったかもしれませんけど知らなかったし、私の方から言わなかった。その後、福祉系の専門学校に2年間通って、精神保健福祉士と社会福祉士の受験勉強をやりました。元々、人の生活や心といった本質的な問題に関わりたいと思っていたので、六法全書が全てのルールとなる法律は何かとドライで、その雰囲気が私には合わなかったのでしょうね。それと、大学に通わなくても、司法試験は受けられますので、人と関わる仕事を学んでみようと思って恐る恐る担任の先生に相談すると、「とりあえず、専門学校に入ってみなさい。福祉の専門学校いいんじゃない」と言われました。しかし、相談員やカウンセラーという仕事があることを知りませんでしたし、「肉体的労働の側面も大きい介護とか全くやりたい」と思っていなかったので、「福祉なんて…」と考えました。今から考えると恥ずかしいのですが、その時は「福祉=介護」という程度の認識だったので、「とにかく入ってみようか」と考えたのです。それと、専門学校を選択したのは「もし合わなかったら夏の間に辞めて、大学を探して試験を受ければいい」と安易に思っていた部分もあり、初めは仕方なく入った感があります。でも、実習に行くようになり、人と関わる仕事に対する興味が増しました。専門学校の1年目に1週間ですが、現場を体験する実習がありました。その時が凄く楽しくて、国家資格を取ることとか、自分の仕事や将来像を少しずつ考え始めるようになりました。専門学校の授業は余り苦労しませんでした。大学と違って基本的にテキストを読んで内容を理解する授業ですし、クラス制で座る場所まで決まっているので友達も2年間同じメンバーですし、教科書の何処を開いているかは隣でテキストを見れば分かりますので、同級生に教えてもらいながら学習していました。あとは板書を丁寧にしてくれる先生が多かったのです。恐らく担任が私のことを理解もしてくれていたし、他の講師にも「私が出席している場合、なるべく板書を」と頼んでくれていたようです。それよりも友人や先生と議論することの方が楽しかったですね。専門学校時代、特に精神保健(メンタルヘルス)について一緒に学んだ友人や先生とは今でも連絡を取り合っています。専門学校時代の友人が現在、精神障害者のための支援センターの施設長になり、良い刺激も受けています。

福祉系の専門学校を2年で卒業した後は老人ホームで事務系の仕事と相談員を1年やりました。本当は「専門学校を卒業してすぐ大学に行きたい」という気持ちがありましたが、一年延ばしたんです。馬鹿な話ですけれども、編入のための試験がもう終わっていたのです。専門学校2年生の10月か、11月ぐらいかな、大学の編入試験って大体そのぐらいですけど、気が付いた時には申し込みの期間が終わっていた。本当は夏ぐらいに決断すれば良かったのですけど。手を打つのが遅かった。「いい機会なので仕事をやってみよう」と切り替えたけど、なかなか仕事は決まらず。老人ホームへの就職が決まったのも三月末ぐらいで、本当にギリギリでした。

「ロールモデル」との出会い

1年間の社会人経験を経て、高山さんは東海大学に進学する。大学進学を選んだ理由は幾つかあったが、東京都の公務員として福祉の仕事を40年間携わった聴覚障害者の助言が大きく影響したという。

その後、東海大学に進学しました。東海大を選んだ理由はいくつかあります。まず、高校の時、「手話を身に付けたい」「聴覚障害者の仲間を持ちたい」と思うようになり、通うようになった手話サークルが秦野市にある「秦の会手話サークル」と、東海大学伊勢原校舎の手話サークルでした。つまり、入学前から大学と繋がりがあったことは大きな安心感を得ました。もう1つは自宅から一番近い大学であったことと、ろう者の仲間が東海大学を中心に繋がりつつあったことも選択した理由です。当時は専門学校から編入学試験を実施している大学が他にもあったので少し迷いましたが、専門学校時代の先生と、東海大学でろう・難聴児の療育を研究されている北野庸子先生の存在が背中を押してくれました。試験の配慮は要請したのですが、結果的にはありませんでした。後から聞いた話では、筆記試験や小論文の試験結果は良かったようですが、面接試験の結果は悪かったようです。内容が良くなかったのか、コミュニケーションできなかったのか分かりませんけど。

大学に編入し直した理由としては、元々は高校を卒業する時、「大学にとにかく入らなくちゃいけない」と思っていたためです。その時は「研究者になりたい」「研究を続けたい」との思いは強くなかったのですけど、「とにかく専門学校は卒業したけど、すぐ大学に行って、そのまま卒業したい」という思いがありました。それと、自分にとって「ロールモデル」と言うべき存在の影響もありました。専門学校2年生で編入手続きが駄目になり、もし大学に進学できない場合は仕事をやらなければならなかったので、専門学校を卒業した後の自分の生き方に迷っていた時期がありました。しかし、その時に自分は福祉の資格を取って相談員やソーシャルワーカーとしてやっていくイメージが持てなかったのです。実習の場や施設に行ったとしても、周りは聞こえる人なので、ソーシャルワーカーとして働く自分のイメージが持てなかった。その時に先生から「ろうの子どもの施設があるわよ。そこに電話してみるね」と言ってくれました。しかし、恐らく「金町学園」(=聴覚障害児の施設)と思うんですが、その時は「聞こえない人は採りません」と言われてしまった。一方で、介護や生活支援、指導員といった仕事については興味を持てなかった。なので、専門学校の時、卒業しても働く場所がないし、ろう関係の施設にも断られたので、「どうすればいいんだ」「どうしたらいいんだろう」と悩みました。その時に丁度、専門学校の先生がインターネットで色々と調べてくれて、「東京都の公務員として福祉の仕事を40年間ずっと続けて来られた方で、野澤克哉先生というろう者がいるみたいだよ。会ってみようか」と言ってくれました。当時、私は20歳。正確な時期は覚えていませんが、渋谷の「東京聴覚障害者自立支援センター」という施設の会議室で先生と一緒に、野澤先生と会う機会を持ちました。野澤先生との出会いがなかったら、今、福祉や心理関係の仕事をしていなかったんじゃないか、その道には進まなかったんじゃないかと思います。私にとって、野澤先生が初めての聞こえないソーシャルワーカー、つまり野澤先生がロールモデルでした。私が会った時、彼は定年を迎えられていたけど、「こういう人がいるんだ」「僕が生まれる前から働いていたろうの人がいるんだ」と初めて知った。しかも、その時に野澤先生に言われたことが幾つかあるんです。覚えている範囲では「とにかく大学に行ったほうがいい」「手話をもっと磨いて身に付けろ」「ろうの仲間ともっと付き合ったほうがいい」と言われました。その時に「そうか、やっぱり大学に行ったほうがいいんだな」と、改めて思ったわけです。

しかし、大学に入るとテキストに沿わない授業が増えるし、ゼミもあります。演習や実習、ゼミとか、全くお手上げの状態。補聴器や口話では全く分からないことを実感しました。でも、同じ学科で学ぶ聴覚障害学生2人と相談し、一緒に情報保障を学科内に定着させるための活動を一緒にできたので、自然と情報保障が必要と思えるようになりました。もちろん、ノートテイク(=授業の内容をノートに記録することで伝える方法)を初めて活用した時には抵抗感がありました。聞こえていない自分を認められない葛藤も少しありましたし、地域の要約筆記の女性が隣に座っていることもありましたので、お目付役を付けられているみたいで嫌だった時期はあります。でも、「こんなに情報がたくさん出ているんだ」「今まで聞こえていなかったのだ」と目から鱗でした。当時の東海大学の場合、大学として情報保障という措置を実施していないので、学部にお任せという姿勢。私が入った時、学部としてさえも方針がなかったし、大学事務の理解もありませんでした。そこで、聴覚障害学生と、学生ボランティア、指導教員だった北野先生の努力に依る所が大きかったと思います。何とか資金を集めて要約筆記の講師を呼んで、学生ボランティアや地域の人も集めて、初めて要約筆記の講座を開いたんです。そのままボランティアになってもらうようにお願いすると、「やまびこ」という地域の要約筆記サークルが立ち上がり、そこと連携して情報保障の支援活動を進めていました。東海大学の社会福祉学科は今も「やまびこ」から支援を受けており、今では大学のシステムを変える所まで来ています。

    • 元東京財団研究員
    • 三原 岳
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