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【書評】『バルカン―「ヨーロッパの火薬庫」の歴史』マーク・マゾワー著、井上廣美訳(中公新書、2017年)

October 24, 2018

評者:小川浩之(東京大学大学院総合文化研究科准教授)

本書は、近現代ギリシャ史、20世紀ヨーロッパ史、国際関係史などを専門とするマーク・マゾワーの The Balkans , Weidenfeld & Nicolson, 2000の全訳である。マゾワーは、世界的に注目されている歴史学者であり、日本でも、『暗黒の大陸』『国際協調の先駆者たち』『国連と帝国』という3冊の翻訳書がすでに刊行されている。マゾワーにとって4冊目の邦訳書となる本書は、彼の研究者としての原点であるギリシャ史研究を基礎に、バルカン史に視野を広げたもので、ウルフソン歴史賞を受賞するなど高い国際的評価を得ている。

本書の構成

プロローグ バルカンという呼称

第1章 国土と住民

第2章 ネイション以前

第3章 東方問題

第4章 国民国家の建設

エピローグ 暴力について

東欧史の活況とバルカン史

本書の紹介と評価を行う前に、近年の近現代史研究における東欧史の活況とその中でのバルカン史の位置について考察しておきたい。英語圏での東欧史の研究者としては、ティモシー・スナイダーと本書の著者のマゾワーの活躍が顕著である。トニー・ジャットの記念碑的大作『ヨーロッパ戦後史』も、東西欧州の戦後史を包括的に描き出している点に大きな特徴がある。日本でも、黛秋津、中田瑞穂などの優れた研究書が近年刊行されている。また、ホロコースト史の関心も、ドイツを中心とする西欧諸国から、東欧やソ連に相対的に移行してきた。東欧でのジェノサイド史を詳細に解明したスナイダー『ブラッドランド』『ブラックアース』はその代表例であり、西欧諸国のユダヤ人の多くが殺害されたアウシュヴィッツ収容所に過度に集中してきたホロコースト理解も相対化されてきている。

東欧史の活況の背景には、西欧中心主義を相対化し、東西欧州の歴史を総体的に捉えるべきという問題意識があるだろう。また、東西欧州の差異を解明することへの関心も大きいと考えられる。さらに、実証的な東欧史研究の遂行に欠かせない条件として、冷戦終結後の旧ソ連や東欧諸国での史料公開の進展が挙げられる。それらの諸国の一次史料を読み解くために不可欠な研究者の多言語読解能力も重要である。

では、東欧史の中でバルカン史はどのように位置づけられるのだろうか。バルカン史には、東欧史の一部としての側面と、その一部にとどまらない側面がある。特に後者に関しては、バルカン史における、①オスマン帝国の比重の大きさ、②少数派ではあるが、まとまった数のイスラーム教徒(スラヴ人のイスラーム教徒を含む)の存在、③冷戦期に西側陣営(NATOやEC)に属し、バルカン半島の「東欧諸国」から切り離されていたギリシャの存在などが重要になる。

プロローグ バルカンという呼称

オスマン帝国支配下のバルカンは、当初、ビザンツ帝国から奪った元は「ローマ人の」土地という意味で「ルメリ」と呼ばれた。「バルカン」は、最初は山脈を指すのに用いられた名称で、1880年代以降、「バルカン」諸民族という表現が見られるようになる。しかし、「バルカン」は当初から単なる地理的概念以上のもので、暴力、野蛮、未開といった類例のないほどの否定的イメージをまとっていた。宗教戦争後のヨーロッパでは、科学と啓蒙主義が勃興し、エリート文化を統合する新たな世俗主義がもたらされた。それに対して、イスラーム教の「狂信者」、正教会の腐敗した高位聖職者を非難する西欧的な見方が生まれ、それらが現在まで生き続けている。

1914年、サライェヴォ事件(オーストリア=ハンガリーのフランツ・フェルディナント大公の暗殺)が第一次世界大戦の引き金となり、ヨーロッパの旧来の秩序を破壊した。それ以後、バルカンはヨーロッパ人の意識の中で「悪役」となる。しかし、マゾワーは、プロローグを次のように締めくくる。「私たちの語る物語は、ヨーロッパの優位性を肯定するのではなく、むしろそれを揺るがすものとなるのかもしれない。というのも、ヨーロッパは、バルカンの人々に自分たちが何者かを定義する枠組みを与えたと同時に、自らを滅ぼす凶器となりうるイデオロギーをも、主に近代的でロマン主義的なナショナリズムという形で与えたからだ。つまり、バルカンを理解するためには、ヨーロッパの自画像を描き出すような歴史だけをたどるのではなく、ヨーロッパの美点を語る過去を排除して、歴史そのものを見つめねばならない」(31頁)。

1 国土と住民

バルカン半島の山脈は、外敵の侵入を阻む障壁とはならないが、その一方で、山脈の不規則な配置が半島内のコミュニケーションを妨げ、商取引の費用を押し上げ、政治的統一のプロセスを複雑にした。山脈のせいで鉄道の建設も困難だった。20世紀に入る頃までは、山賊や海賊が商人や旅行者を悩ませる状況も続いた。

バルカン半島では、17世紀から20世紀初めまでが遊牧経済の黄金時代で、大きな定期市が商業の原動力だった。スルタンのバヤズィト二世が、15世紀末期にスペイン、ポルトガル、南イタリアから追放されたスファラディムのユダヤ教徒を、都市発展のために受け入れたので、オスマン帝国の都市にはスファラディムのコミュニティができた。オスマン帝国支配下のバルカン半島では、都市住民にはイスラーム教徒が多く、農村部の住民の大部分はキリスト教徒のままだった。1600年には、イスタンブールの人口は低く見積もっても25万人で、ヨーロッパ最大の都市であった。

19世紀、オスマン帝国でも貨幣経済と近代国家が到来し、旧来の社会関係が混乱に陥った。「こうした経済的・社会的混乱に照らして見てこそ、19世紀バルカンの大衆ナショナリズムの出現を理解することができる」(74頁)。また、農業が貨幣化され、農民が税を現金で支払う義務が生じたことで、農村部で支配層と農民の間の緊張が激化した。

2 ネイション以前

オスマン帝国のキリスト教徒は、正教会という宗教によって定められた共同体への所属意識を持ち、ナショナリスト(民族主義者)の分類には無関心であった。近代的なエスニック・ポリティクス(民族という区別に基づいた政治)の概念を伝えようとするナショナリストは、農村部に入り、ネイション以前の世界に遭遇した。個人が政府内で出世するにはイスラーム教への改宗が必要条件だったが、庶民の大規模なイスラーム化が明確に見られたのはバルカンのごく一部の地域だけで、トルコ語以外の言葉を話すキリスト教徒が圧倒的に多い状況が続いた。だが、しだいに、農民がギリシャ語を話さない場所では、「ギリシャ人の」教会に搾取されているという意識が高まり、バルカンのナショナリズムへの道が開かれた。

バルカンの少数の知的エリート(啓蒙主義の知識人たち)が、「ヨーロッパ周縁の忘れられたネイションをヨーロッパ大陸共通の歴史的運命に」統合することを目指し、近代のナショナリズムへの道を開いた。また、フランス革命やナポレオンによるオスマン帝国領エジプトへの侵攻が、バルカンのキリスト教徒知識人の政治思想を急進化させた。農民の言葉の文化的価値を強調するロマン主義的なナショナリズムがバルカンに広がるにつれて、ギリシャ語こそが学問への道であるという旧来の考え方が徐々に疑問視され、19世紀初頭には、ブルガリア、セルビア、ルーマニアの知識人が、文化的共同体という観点で自分たちを捉え始める。1830年代以降、バルカンに国民国家が出現すると、コンスタンティノープル総主教座(かつてはバルカンとアナトリアのすべての正教徒が信徒)の権力がさらに削がれ、国民国家ごとに教会が独立していった。

3 東方問題

フランス革命(1789年)からオスマン帝国の崩壊(1923年)までの「長い19世紀」に、近現代のバルカンの政治地図が現れた。そうした中で、オスマン帝国の衰退と民族の反乱という先の見えない一連の展開に対する国際社会の対応が、「東方問題」と呼ばれるようになる。バルカン(セルビア、ギリシャ、ルーマニアなど)での国民国家の形成には19世紀全体を要したが、それでも情勢は安定しなかった。領土拡張主義やイレデンティズム(未回収地回復主義)の力が強く、バルカンの新しい状況が根本的に不安定な理由となった。

20世紀に入り、セルビアやボスニアでは、ハプスブルク家の支配に抵抗する秘密結社が次々と作られた。そして、フランツ・フェルディナントの暗殺を経て、オーストリアはセルビアとの開戦に向かって進み始め、ロシアも(オーストリア=ハンガリーのボスニア併合に帰結した1908年のボスニア危機の時とは異なり)今回は手を引くことはできないと考えたため、第二のボスニア危機が第一次世界大戦に進展した。

1918年に第一次世界大戦が終わった後も、南東ヨーロッパではしばらく戦闘が続いたが、1923年には「東方問題」が終息した。戦争に明け暮れた10年間が、バルカンや東欧の大部分を何百年間も支配してきた諸帝国をついに滅ぼしたのである。だが、その後もイレデンティズムは残り、「争う余地のない国境などバルカンにはほとんどなかった」(198頁)。

4 国民国家の建設

ヨーロッパに残ったオスマン帝国領を民族の原則に従って清算しようとした結果が、強制的な改宗、集団処刑、大量の難民の流出であった。1923年には、ギリシャとトルコが二国間の強制的な住民交換に合意した。第一次世界大戦後、バルカン諸国は、列強の圧力の下で「少数派の民族の権利条約」に署名し、国際連盟の監視を受けることになる。しかし、実際には、バルカン諸国は国内の少数派の民族をかなり思い通りに扱うことができた。他方で、少数派の民族は、新たな支配者が疑っていたように、多くが修正主義的な感情を抱いていた。

1941年以降、バルカンでは、ナチの占領によって一触即発の状態だった民族間の緊張が表面化した。ナチはそれを故意に利用もしたが、そのことは、一部の少数派の民族には、戦間期の支配者に対する形勢逆転のチャンスとなった。ナチによる占領は、バルカン諸国で民族間の内戦が拡大する引き金にもなる。20世紀前半を費やした総力戦、民族浄化、大量の難民の移動の結果、バルカン諸国では民族的に同質化が進んだが、依然として少数派も残った。冷戦期には、東欧でのソ連の覇権の下で、少数派の民族の問題やイレデンティズムは抑制されたが、共産主義が崩壊すると、緊張が再び表面化した。

エピローグ 暴力について

民族浄化は、バルカンで1912~13年、アナトリアで1921~22年、旧ユーゴスラヴィアで1991~95年に見られたが、いずれの場合も、昔からの本能的な憎悪がおのずと募って爆発したわけではなく、民族主義者の民兵や軍が民間人に対して意図的に組織的暴力を行使したものだった。また、民族浄化はバルカンだけで起きた現象ではなく、第二次世界大戦中と直後には、中欧や東欧の各地で見られた。「この残忍さの根源は、バルカンのメンタリティにあるのではなく、近現代の技術を動員して行う内戦の性質にある」「内戦は、社会に潜在する緊張や相違点を際立たせ、社会制度や統治制度が完全に崩壊したなかで雌雄が決せられる」(260頁)のである。

本書の特長

第一に、ヨーロッパ史の一部としてバルカン史を描き出している点がある。バルカン史には、西欧と東欧、ヨーロッパとイスラームという二重の複雑で困難な関係が集約されている。本書の問題設定や結論は、1990年代のユーゴ紛争直後という原著出版時点の関心を強く反映していると思われるが、バルカン(より広くは東欧)は、ヨーロッパの一部か、それとも異質な例外かということは、歴史的にもアクチュアルにも重い問いであり、現在の状況にも示唆しうるところが多い。例えば、バルカン史において端的に見られたヨーロッパとイスラームの関係をめぐる問題は、現在では、むしろヨーロッパ全体を覆うかのような規模で、移民や難民、テロリズム、排外主義的なポピュリズムの台頭などの形で、あらためて喫緊の課題として表面化している。

第二に、バルカン史の中に、オスマン帝国の数世紀間の支配を適切に取り込んでいると考えられる点がある。筆者は、スルタンの統治下で民族や宗教が共存していたことを強調する歴史記述の傾向に対して、「オスマン帝国では、キリスト教世界のほとんどの国よりも寛容に、宗教の共存が何世紀にもわたって認められていた」(29頁)ことを認めつつも、オスマン帝国で宗教の平等という意識があったわけではなく、イスラーム教徒を頂点とする差別が厳然と存在したことも指摘する。また、オスマン帝国が緩やかに衰退する中で、19世紀以降、列強の間では「ヨーロッパの病人」たるオスマン帝国に由来する「東方問題」という意識が広がったが、本書は、バルカン史を列強の利害や影響とバルカンの内在的な要素の双方の視点から描くことで、「東方問題」を相対化している。

第三に、「バルカン」という訳語について評価したい。本書では、原文の “Balkan”と “the Balkans”を、多くの場合区別せず、「バルカン(の)」と訳している。主要な英和辞典では、“the Balkans”は、“the Balkan States”と言い換え可能であるとするのが一般的であり、本書の翻訳でも、“the Balkans”は「バルカン諸国」と訳す方がよい場合もあったかもしれない(とはいえ、「バルカン諸国」という訳語もいくつかの箇所では見られる)。しかし、本書が扱う時代の大半において、バルカン半島では国民国家はまだ誕生していないか、形成途上であり、原著で繰り返し用いられる “the Balkans”が「バルカン諸国」に対応しない場合が多い。そのため、「バルカン」(Balkan)は、少なくとも英語では形容詞なのだが、翻訳書のタイトルおよび訳文の大部分において、“the Balkans”に対しても「バルカン」という訳語を用いているのは、おそらく試行錯誤の結果であろうが、結果的に適切な選択になっていると考えられる。

本書に関する疑問点

第一に、本書は、「暴力」「後進性」「ヨーロッパの火薬庫」といったバルカンにつきまとってきた否定的な言説を相対化している点は評価できる反面、ややバルカン固有の要素を軽視しすぎる面もあるように思われる。例えば、2010年代になっても、ギリシャの債務問題および内政の混乱と「ユーロ危機」への波及、「欧州難民危機」の際に多くの難民が移動した「バルカン・ルート」とそれをめぐる摩擦を通してあらためて浮き彫りになったヨーロッパと中東・イスラーム世界の境界に位置するバルカンの地政学的特徴など、バルカンのヨーロッパにおけるある種の「異質さ」や「例外性」をうかがわせる事例は少なくない。おそらく本書では、1990年代のユーゴ紛争によって強化されたバルカンに対する否定的なイメージや論調に対して反論するという問題意識が、やや強く出すぎているのではないかと考えられる。

第二に、本書は、主に「陸の」バルカン史であり、「海に対して開かれた」バルカン史という視点が希薄である。いうまでもなく、半島は海に囲まれており、バルカン半島も、アドリア海、地中海、エーゲ海、黒海などの海に三方を囲まれている。バルカンには、トリエステ(数世紀間にわたりオーストリア帝国領)、ドゥブロヴニク(ラグーサ)、サロニカ(テッサロニキ)、イスタンブールといった主要な港湾都市があり、戦時に限れば、ギリシャ=トルコ戦争中にギリシャ軍がエーゲ海沿いのイズミル(スミルナ)、第二次世界大戦中にルーマニア軍が黒海沿いのオデッサという重要な港湾都市をそれぞれ占領した。また、エーゲ海やイオニア海には多くの島々が存在し、現在ではそれらのほとんどがギリシャ領となっている。海洋史や島嶼史の視点から、著者のバルカン史を補い、その視野を広げることの意義は小さくないのではないだろうか。

第三に、ユダヤ人の存在が十分に扱われていないと思われる点がある。バルカンにおいても、例えば、ナチス・ドイツによる占領とホロコースト以前、ギリシャ第二の都市サロニカでは、ユダヤ人は、正教徒、イスラーム教徒を上回る最大の宗教共同体を形成していた。第二次世界大戦中には、ルーマニア人によってだけでも、主に戦後にソ連領となる地域で、約30万人のユダヤ人が殺害されている。そして著者は、ユダヤ人を含むサロニカの500年以上にわたる歴史を、2005年の著書 Salonica で本格的に扱い、本書でも簡潔に言及しているが、本書全体では、正教徒とイスラーム教徒の関係により多くの紙幅が割かれている。ポーランド=リトアニア共和国(ポーランド王国とリトアニア大公国からなる複合国家)、ロシア帝国、戦間期のポーランドと比べると、どの時代においてもバルカンのユダヤ人の人口は少なかったとはいえ、より積極的にユダヤ人の存在をとりあげ、特に都市部の歴史に関しては、正教徒、イスラーム教徒、ユダヤ教徒の三者の関係としてバルカン史を描いた方が、より総体的な理解につながったのではないだろうか。

    • 政治外交検証研究会メンバー/東京大学大学院総合文化研究科准教授
    • 小川 浩之
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