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【読書案内】 John Bolton, Surrender Is Not an Option: Defending America at the United Nations and Abroad (ジョン・ボルトン著『降参という選択はない:国連および海外でアメリカを擁護すること』)

January 23, 2008

蓮生郁代 (大阪大学大学院客員准教授)

本書を取り上げるねらい

ノンフィクション全盛の時代である。国連外交実務経験者によるノンフィクションの出版もあとをたたない。その中で昨年11月に発行された本書は、発売されるやいなや、賛否両論を呼ぶこととなった善くも悪くも話題の本である。本書は、その一部記述の信憑性をめぐり、昨年11月、日本の高須幸雄国連首席大使は、共同通信とのインタビューで疑義を表明せざるをえなかったし、昨年12月発行の英エコノミスト誌(385巻8559号)にいたっては、本書の内容的乏しさ以上に目立ったのは、ボルトンの精神的不安(insecurity)だったとまで酷評するにいたった。そのような中であえて今回本書を取り上げんとするのは、本書の争点となった部分の記述の詳細を本誌読者に紹介するだけが目的ではなく、それを通して、「国連事務総長を選出する」ということの意義やその重さについて、今もう一度見つめ直す必要があるのではないかと考えるからである。

本書の目次

本書の目次は、以下の通りである。

1 幼少期(Early Days)
2 レーガン改革とパパ・ブッシュの熱月(The Reagan Revolution and the Bush 41 Thermidor)
3 ガリバーを自由にする:アメリカの主権をよい取引と悪い取引から守る(Cutting Gulliver Loose: Protecting American Sovereignty in Good Deals and Bad)
4 北朝鮮への黄色のケーキの道を辿って(Following the Yellow Cake Road on North Korea)
5 欧州連合へと向かうのを止めて:イラン問題では交渉最優先(Leaving the Driving to the EU: Negotiations Uber Alles with Iran)
6 なぜ自分はこの仕事が欲しいのか(Why Do I Want This Job?)
7 国連に到着:ニューヨークにおける恐れと憎悪(Arriving the UN: Fear and Loathing in New York)
8 ぼんやりした意識下のシシュファス:壊れた組織を修繕する、あるいは修繕しようとする(Sisyphus in the Twilight Zone: Fixing the Broken Institution, or Trying To)
9 できるだけよく:安全保障理事会(As Good as It Gets: The Security Council)
10 新事務総長の選挙:パンギムンが街にやってくる(Electing the New Secretary General: Ban Ki-moon Is Coming to town)
11 北朝鮮に関する安全保障理事会の成功(Security Council Successes on North Korea)
12 安全保障理事会におけるイラン:EU3カ国の発見した新しい屈服方法(Iran in the Security Council: The EU-3 Find New Ways to Give In)
13 ダルフールとアフリカにおける国連平和維持の脆弱性(Darfur and the Weakness of UN Peacekeeping in Africa)
14 イスラエルとレバノン:降伏は国連での高潔な原則(Israel and Lebanon: Surrender as a Matter of High Principle at the UN)
15 退出(Recessional)
16 ついに自由に:非難の的に(Free at Last: Back to the Firing Line)
索引(Index)

本書の構成と内容

本書は、ボルトンが米国国連首席大使となるまでの経緯や、さらに遡って生い立ちや政府におけるキャリアなどを記述した第1章から第6章までの前半部分と、国連首席大使へ任命されてからの自身の活動などについて描かれた第7章以降の後半部分という、大別して二つのパートから構成されていると言えよう。

前半部分においては、バルティモアの消防士の息子として生まれ、家族の中で大学に行った最初の者になったという家庭環境を含めたボルトンの出自が語られる。奨学金を得て、イェール大学および同ロースクールに行き、ロバート・ボーク(Robert Bork)やラルフ・ウィンター(Ralph Winter)などのような保守系の学者の下で学んだ。その後、エドウィン・ミーズ(Edwin Meese)の下の司法省に入省し、レーガン改革をじかに経験することとなった。ボルトンの外交手腕の基礎を形作ったのは主にこの時期だった。父ブッシュ政権下、ジェームズ・ベーカー(James Baker)国務長官とともに働いた経験と、ブッシュ・ジュニア政権で、武器管理と国際安全保障担当の国務次官として働いた経験の二つが核となっている。そして、ボルトンが国連首席大使に任命されるまでの人事上の経緯が語られている。

国連首席大使就任後の活動について語られる後半部分においては、北朝鮮の核実験の問題や、イランの核開発疑惑、ダルフールの虐殺、結果的に憎悪をもたらすだけだったイスラエルとヒズボラの交渉その他が語られる。それらの根底にある考え方は、大量破壊兵器の拡散を試みる者や、テロリスト、そして北朝鮮やイランのような「ならず者国家」に対する一貫した強硬姿勢である。さらに、イスラエルとアメリカに関する国連の姿勢に関しては、それは既にバイアスがかかっているとし、激しく非難する。ひるがえって、国内の問題に関しては、アメリカの国務省の官僚の姿勢は、大統領の政策を侵食するものとし、これも痛烈に批判する。

本書の争点

本書の記述のうち、日本の読者にとってとりわけ興味をひかれるのは、マスメディアでもすでに昨年より話題となったように、2006年の国連事務総長選挙をめぐり、日本が韓国の潘基文(パン・ギムン)候補に最後まで反対したという本書の記述(第10章)の信憑性であろう。

事務総長の選出というのは、国連憲章上では、97条により、「事務総長は、安保理の推薦に基づき、総会が指名する」となっているが、事実上、事務総長選出の決定権を握るのは安保理であり、言うまでもなく拒否権を持つ5常任理事国の意向が強く左右する。2007年1月から任期を開始したパン・ギムンの選出は、その前年の2006年の夏から秋にかけて安全保障理事会の内外を舞台に行われた。しかし、なにぶん密室での水面下の交渉で物事がすすむ慣例のため、外部の者には真相が非常にわかりづらい。本書の興味深いのは、これまでもしばしば囁かれてきたように、事務総長選出過程にはアメリカ大統領および米国務長官の意向が、直接的に深く影響していたことがかなり明らかにされたことである。そして、さらに興味深いのは、米国務省の国際機構局の指示と米国務長官の意向がときには異なっていたということである。たとえば、2006年7月の安保理メンバーによる第1回目のストロー・ポール(straw poll、予備投票とも呼ばれる)では、ボルトンは、米国務省国際機構局からの指示を無視し、ライス米国務長官の意中の候補、すなわちパン・ギムンに投票していたことが明らかにされている。

2006年の選挙では、かなり早い時期から「次はアジアの番」という主張がアジア・グループからなされていた。しかし、アメリカは、「職務に最適の人材を選ぶべきで、地域的選出にはこだわらない」として、アジア・グループの主張にはむしろ冷淡な姿勢を示し続けていたことは周知の事実である。本書によれば、具体的には、ブッシュ現大統領は、当初ポーランドのクワシニエフスキ大統領(当時)を事務総長にポストに据えることを望んでいたが、常任理事国のロシアが旧勢力圏たる東欧圏から、自身に匹敵する地位ともいえなくもない事務総長が擁立されることには難色を示したため成らなかったという(275-276頁)。

その後、好ましい候補者の選定のために、ボルトンは水面下で精力的に動き回るわけだが、その時、候補者選定の条件として彼の念頭にあったのは、「行政職員の長(chief administrative officer)」としての役割を担うことができ、「真の」国連改革を推進することのできる人物を選ぶということであったという(276頁)。ここで読者に思い返して頂きたいのは、国連事務総長には、そもそも国連憲章により二つの異なった役割が期待されているという事実である。一つの役割が憲章97条の期待するところの行政職員の長としての役割であり、もう一つの役割が同憲章99条の期待するところの政治的な役割である。それにもかかわらず、ボルトンは新事務総長には行政の長としての役割のみを強調したわけであるが、これはどのような含意をもっていたのか。

ここで留意すべきは、ボルトンの考える行政職員の長としての能力というのは、一般に国連実務専門家が想定するような行政能力とはかなり異なると思われるということである。もしも額面通りに行政職員の長としての能力といった場合、一般には、国際機構における高級ポストでの行政実務の経験や資質、その手腕に対する国際的評価などが、まずは挙げられるべきである。ところがボルトンは、イラクの石油食料交換計画に起因する腐敗疑惑などでアナン事務総長を繰り返し批判し、事務総長には行政職員の長としての能力が必要だと強調する一方で、本書からうかがえる限りでは、ボルトンが候補者選定に際し、それらの純粋に行政的な能力の不備の是非に関し、さして配慮を払った形跡がない。というのも、ボルトンの暗に含意する行政職員の長としての役割の強調というのは、むしろ政治行政二元論に基づくものであり、単なる行政による政治への介入の阻止という意味あいが強いからである。その背景にあったのは、国連において政治のことを決定しリーダーシップをとるのは、あくまで加盟国であり、事務総長ではないこと、さらに言えば、拒否権をもつ5常任理事国の中でもリーダー格であるアメリカにほかならないという論理であろう。それを裏付けるかのように、ボルトンは、イラク問題に関し、アナン元事務総長がアメリカに再三非協力的であったと繰り返し批判している(274頁)。そしてそれはつまるところ、2006年4月、ライス米国務長官がパン候補に絞る際にボルトンに言ったとされる「私たちが強力な事務総長をほしいと思っているのかどうか、私にはわからないわ(I’m not sure we want a strong secretary general)」という決めゼリフに凝縮されていると言えよう。

次に、日本がパン候補に最後まで反対したとボルトンが主張するくだんの記述をみてみよう。

事務総長選びは、前述したように、安保理理事国による密室の協議で行われる。まず、5常任理事国が会合し、候補者選びのおおまかな道程表を決定する。そして、ストロー・ポールとよばれる安保理のメンバー全員による秘密投票を安保理外で何回か重ねることにより候補者を絞っていき、候補者選定に関するある程度のめどがついた時点で、安保理に正式に発議する。そして、候補者が一人に絞られた時点で、同候補者を総会に発議し、総会が儀礼的に指名する。ところで、ストロー・ポールにおける投票の仕方には、「支持」、「不支持」、「意見表明なし」の3つのカテゴリーがある。投票方法には、拒否権をもつ常任理事国と非常任理事国の票の色を変えて行う方法と、両者の色を同じにして区別できないようにする方法の二つがある。後者の方法が一般的であり、今回の選挙でも、後者の区別なしの方法から、ストロー・ポールは始まった。

2006年9月14日、安保理理事国は、同年7月の第1回ストロー・ポールに続き、第2回目のストロー・ポールを実施した。第1回目の投票結果では、アナン事務総長の側近たるインドのシャシ・タルール候補がパン候補と同票につけており両者が同格1位だったが、第2回目の投票で、パン候補は、他の候補者たちを大きく引き離すこととなった。第1位のパンは支持票を14票獲得し、不支持票はたったの1票だったのに対し、第2位につけたタルール候補の支持票は10票、3位のタイのスラキアート候補は9票、4位のヨルダンのザイド候補は6票、5位のスリスランカのダナパラ候補は3票だった。これでパンの優勢は明らかになったが、この時、この不支持票の1票を投じたのが誰だったのかということが問題となった。パン自身は、この不支持票は、アナン事務総長の側近たるタルール候補を暗に支持するためにアナンの出身国たるガーナが投じたのではないかと憶測していた(285頁)。しかし、ボルトンは、この不支持票は日本ではなかったかと「個人的に(personally)」憶測し、ワング(Wang)中国国連大使とパンにもその旨を伝えた。それに対し、パンは「既に大島(注:当時の日本の国連首席大使)と話しており、彼は断固として否定していた」と答えている(同頁)。ボルトンは、当時の日韓外交の緊張関係が日本の不支持の原因ではないかと憶測し、大島大使に会い、東京からの指示を変更してもらうよう説得したと記述している(本書285頁)。

2006年9月28日に実施された第3回目のストロー・ポールでは、パン候補は支持票13票、不支持票1票、意見表明なし1票となり、その勢いにストップがかかったかのようにみえた。翌29日、ボルトンは再び大島大使と会い、日本の不支持票を再考するよう促し、それに対し大島大使は「否定をしなかった(・・・・,which he did not deny to me.)」とされている(本書287頁)。翌週明けの10月2日、午後の第4回目のストロー・ポール(今回の選挙で初めて常任と非常任の色を区別)を控えた朝、大島大使は、「新首相の安倍総理の訪中、訪韓の予定があるため、安保理の正式な投票を総理訪問の後にして欲しい」とボルトンに依頼したとされている。ボルトンは、この大島大使の依頼を「日本はまだ『支持』とは投票できないが、少なくとも『意見表明』なしには移行できる」という含意と受け取った。そして、当日午後のストロー・ポールでは、不支持票が消え、支持票14票(5常任理事国含む)、意見表明なし1票という予想通りの結果となった。

2007年、本書が発行されるや否や、これらの記述の真偽を巡り、大きな波紋が起こることとなった。同年11月7日、高須幸雄国連首席大使は、共同通信とのインタビューの中で、「ボルトン氏が自叙伝に書いた内容は全く事実ではない」とし、「彼の考え方は一方にかたよっている」と述べた。また、「自叙伝の内容は推量であるのみならず、間違いも多い」と重ねて強調した後「しかし、日本が事務総長選出投票でどんな選択をしたか明らかにすることはできない。これを公開することは不文律に反する」として、日本のとった選択に関する公式な開示は避けた。

では、ことの真相はいったいどうだったのだろうか。日本は本当にボルトンの言うように、パン擁立に最後まで反対したのだろうか。では、もしも日本がパン候補を推挙していなかったとしたら、どの候補を擁立しようとしていたのか。果たしてそのような可能性はあったのだろうか。

パン以外の候補といった場合、今回の選挙に立候補していた7人の候補者の中でパン以外の他の候補者を推すか、それとは別に日本国籍の独自候補を擁立するか、大別して二つのケースが想定される。

まず、パン以外の他候補を押すというケースだが、今回の選挙に立候補した7人の中で、日本がパン候補以外に押す可能性があった候補者は果たしていたのだろうか。まず、選挙戦の最中常に二番手につけていたインドのタルール候補であるが、タルール候補は、アナン事務総長(当時)の側近として、その若さにもかかわらず広報担当の国連事務次長にまで内部出身者として上り詰めた人物である。アナン自身が石油食料交換計画でその評判を大いに傷つけられていたこと、そして、その理由の一つが内部出身者であるがゆえに身内に甘かったからということが噂されていた最中で、行財政改革を優先課題に掲げる日本が、タルール候補を積極的に押す理由はまったくなかったと思われる。

次に、第3番手につけていたタイのスラキアートであるが、同候補は当時タイの副首相で元外相だった。同候補は、彼の後ろ盾であるタイのタクシン首相(当時)が、選挙戦の最中のクーデターで首相の職を追われたことから、その煽りでスラキアート候補も事務総長選から自動的に脱落することとなった。

この上位3名が実質的に事務総長選を戦った候補者であるが、その他の有力候補としては、スリランカのダナパラ候補や、ヨルダンの王子のザイド候補などを挙げることができるだろう。スリランカの元軍縮担当次官ダナパラ候補に関しては、2005年の成果文書採択に向け、安保理改革を目指してインドとともにG4というチームを組んだ日本が、インドと政治的に微妙な関係にあるスリランカの候補を国連の場で積極的に押すとは考えられない。ヨルダンのザイド王子は、2006年の8月も半ばという、事務総長選の後半に差し掛かったところで突然立候補し、周囲を驚かせた。しかし、アラブ地域からの候補者に関しては、エジプト出身のブトロス・ブトロス・ガリ事務総長の在職がたったの10年前であったことからも(ガリは国連の分類ではアフリカ地域と分類されていた)、日本にとって、「アジアの番」といった場合、厳密には、非アラブのアジア地域からの候補者の擁立が優先されていたと考えるのは当然だろう。これらのことからたとえ消去法的にみても、当時の日本にとって、パン候補以外の他の立候補者を押す可能性があったとは考えにくい。

ただ一つの可能性としてあったかもしれないのが―それは現実とはならなかったが―、日本が「大国からは事務総長をださない」という国連の不文律を破り、独自候補を擁立しようとしていたらどうだったのか、という後者のケースであろう。しかし、この選択肢に関しては、2005年夏、首脳サミットに向けたG4による安保理改革への試みが頓挫した1年後の2006年夏においても、日本の国連外交におけるプライオリティーは、あくまで常任理事国入りの方法の模索だったということを想起する必要があるだろう。たとえマスメディアの関心のほうは引き潮が引くように薄れたとしても、日本の外務省の立場は一貫して不変だった。したがって、たとえどんなに優れた候補者が潜在的に存在したとしても、常任理事国入りを優先させたい日本にとって、日本が独自候補を立てるという選択肢は、外交戦略として事実上なかったはずである。

これらのことなどから、当時の日本にとっての現実的な選択肢は、客観的に言ってパン候補の推挙しかなかったはずである。国連の事務総長選出には、拒否権をもつ5常任理事国の支持、とりわけアメリカの支持が必要であることは言うまでもない。さらには、本書がいみじくも明らかにしたように、候補者の選択は、米国務省の官僚レベルの判断で行われるのではなく、米大統領あるいは米国務長官という高度の政治的判断のレベルで行われる。ブッシュ現大統領とイラク問題を巡り対立したアナンとて、もともとはクリントン政権の意を受けて擁立された事務総長だった。したがって、リアリストならば、日本にとっての合理的な選択とは、アメリカの支持を得た候補者を、選挙戦の最初から推挙し選挙の流れに乗ろうとすることであると判断するに違いないだろう。

そして、はからずも日本は本書の出版までは、アメリカとの協力関係の下に、2006年の事務総長選をともに演出してきたと思っていたはずだとも思う。たとえば、決選投票ともなった第4回目のストロー・ポールが行われた2006年10月、安保理の議長国は日本だったことを想起されたい。しかし、それにもかかわらず、日本は前米国連首席大使であるボルトンにこのようなかたちで、彼の単なる「個人的な」推測をあたかも事実であるかのように書かれ、疑いの目を向けられることとなってしまった。ボルトンと大島大使との会話で、このような意思の不疎通が起きてしまったのは大変残念なことであるが、高須大使の反論インタビュー後も、日本のスタンスに対する疑念はおさまっていないようにみられるのが気にかかる。

というのも、国連事務局に対する影響力という観点からみた場合、他の主要国と比較して、日本の地位に陰りがみえはしないかという懸念が拭えないからである。たとえば、アメリカがどのようにして事務総長就任前からパンに対して影響力を駆使してきたのかについて、少し具体的にみてみよう。ボルトンは、2006年10月9日、パンが安保理の正式投票にて次期事務総長に選ばれるやいなや、その直後の13日に、パンと二人きりで昼食をし、平和維持活動局あるいは政治局のどちらかの長のポストが欲しいこと、また、政治局と平和維持活動局を合併させ、それらを地域ごとに再編すべきと考えていることなどを含む、いくつかの具体的要請をしたことを明かす。その後、ボルトンの要請どおり、政治局の事務次長にはアメリカ人が就任することとなったし、政治局の地域的再編の問題もまさに現在棚に上がっている重要議題である。このように、アメリカはパンに対する影響力を強く駆使し、事務局の再編という事務総長に与えられた専管事項にまで深く侵食していていくことにうまく成功した。

その一方で日本のほうは、パン政権下となって日本の主張や価値観が事務局運営に適正に反映されるようになったと言えるのだろうか。たとえば、日本が唯一の被爆国として従来から最重視してきた軍縮問題に関しても、就任直後の昨年2月、パンは軍縮局の事実上の格下げを決定したことから、日本は事務次長のポストを手放したという経緯があった。このように、事務局に対する政治的影響力の駆使や価値観の反映や実現という点において日本が苦心する中、本書が発行されたことにより、さらに日本に疑いの目が向けられることになってしまったことの意味は、重い。

このような中、日本政府に是非求めたいのは、「なぜパン・ギムンに投票したのか」に関する説明責任を私たちに対して果たしてもらいたいということだ。国連の事務総長選挙というのは、5年に1回しか行われない。また、ほとんどの事務総長が再選を目指すことから、実質的な候補者選定というプロセスが行われるのは、通常10年に1回のみである。しかも、その選挙プロセスに実質的に参加することができるのは、全国連加盟国のうち、安保理のメンバー15カ国だけである。2006年、日本は非常任理事国として、10年に一度となったかもしれない稀な機会に、貴重な一票をパン・ギムンに投じた。

ライス米国務長官がパン・ギムンを選んだ理由は、「強力な事務総長とはならないだろうから」ということだったという衝撃的な事実が暴露された今、私たちは聞きたい。国連事務総長とは、アナン元事務総長のイラク問題をめぐるアメリカとの深刻な対立でも明らかになったように、時には、国際社会の利益のためには、アメリカと徹底的に政治的に対峙することも余儀なくされ、容赦ない個人攻撃にも耐えねばならないポストである。事務総長の任期は長く、その間、常に多国間主義に友好的な政権や議会がワシントンを牛耳るとは限らない。では、ひるがえって日本は、国連事務総長にどのような資質を求め、何を期待し、その貴重な一票をパンに投じたのか。平和維持活動局の再編の問題も含め、日本が事務局の決定の本流から取り残されている感も見受けられなくはない中、日本政府には、是非その貴重な一票の意味を私たちに説明してもらいたい。

本書全体に対する評価

本書全体に関するコメントとしては、現在のアメリカでは、なにがアメリカの「国益」かという、その概念自体が揺らいでいるという観点から述べたい。本書のサブ・タイトルにもみられるように、ボルトンは国連においてアメリカの利益を防御するということに最大の関心をもっているのは自明である。ここで彼のとらえるアメリカの国益とは、いわゆるネオコンの系譜に属するものであり、まず反共から始まり、反イスラム原理主義、親イスラエル、親サウジアラビアであり、イラク開戦の熱烈な支持などであった。しかし、現在のアメリカにおいては、政治的にも、学術的にも、このようなアメリカの国益の捉え方に対する疑念や再考の機運が急速に盛り上がっている。

まず、政治的局面を鑑みれば、2006年秋の中間選挙における共和党の敗北により、これまでブッシュ・ジュニア政権がすすめてきた単独行動主義的な国益の追求のあり方に、ストップがかかることとなった。それは、イラクへの関与のあり方や気候変動への取り組みにも大きな変化をもたらすこととなった。現在進行中の米大統領予備選の党員選挙においても、イラクへの関与のあり方に対する姿勢は、国内問題とならび、大きな争点となっている。民主党の党員選挙においてとくに顕著だが、そこで求められているのは、「変化(Change)」というキー・ワードに象徴される過去との決別であり、現政権下の7年間で2極分化と分裂が進んだアメリカ社会からの脱皮と統合の希求である。したがって、そこで模索されているアメリカの国益の概念とは、ブッシュ・ジュニア時代の単独行動主義の先鋭化がもたらした負の遺産をどう処理し、今後対処していくのかという視点を含むことが余儀なくされることになるだろう。ただし、世界がアメリカに対して望むように、アメリカが多国間主義的な解決の中でリーダーシップを模索する傾向へと本当に回帰していくのかどうかに関しては、まだ確かな方向性がみえない。もしも大統領選挙の結果、そのような方向への移行が目指されるということにでもなれば、アメリカの国益の概念も大きく変わることを余儀なくされるだろう。もしもそうだとしたら、そこで求められることになるのは、国際益(他国との共通利益)と調和するような「開かれた国益」(注:小原 雅博が近著『国益と外交』の中で展開していた概念。日本経済新聞社、2007年)のような国益の概念となるだろうが、まだそのような判断をするにはあまりにも時期早々である。

このように国民の間で厭戦感が高まり、ネオコンに対する政治的支持が失墜しつつある中、学術的局面においても、リアリストの系譜に属する学者たちにより、ネオコンの足元を揺らすような一大論争が巻き起こっている。その一つに、「アメリカの親イスラエル政策が真にアメリカの国益に資してきたのか」という視点からの問題提起が挙げられる。たとえば、ジョン・J・ミアシャイマー(John J. Mearsheimer)とスティーブン・M・ウォルト(Stephen M. Walt)によるThe Israel Lobby and U.S. Foreign Policy (Farrar, Straus and Giroux; 2007) (『イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策 ?・?』講談社、2007年)は、昨年8月に出版されるやいなや米国内で一大論争を巻き起こした。そこにおいては、アメリカの外交政策は―特に現ブッシュ政権のそれは―、イスラエル・ロビーに過度に振り回されており、それがアメリカの国益に資していないという主張がなされていた。その根底には、国家間の利害に永遠の一致はありえなく、偶然の一致しかないというリアリズムの考え方があり、それに基づき、ネオコン主導の過度のイスラエル支援の合理性に挑戦状をたたきつけたものであった。

ボルトンによる著書は、そのようなネオコンに対する政治的および学術的な逆風の中で出版されたものであったにもかかわらず、ネオコンの擁護しようとする国益の概念が、本当にアメリカに資してきたのか、あるいは資していくのかという、今最も切望されている根本的な問いになんら有効な答えを用意してはいない。その意味で、明らかに時機を逸して出版された書とも言えよう。

(本書評は、評者個人の意見であって、東京財団国連研究会の議論を経たものではないことを付け加えておく)

(以上)

    • 大阪大学大学院客員准教授
    • 蓮生 郁代
    • 蓮生 郁代

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