内容紹介――ヘレナ・ローゼンブラット『リベラリズム――失われた歴史と現在』(青土社、2020年)

※本レポートは2020116日に開催されたポピュリズム国際歴史比較研究会の「ヘレナ・ローゼンブラット『リベラリズム――失われた歴史と現在』合評会」で報告した内容の一部である。

川上洋平(専修大学法学部准教授

リベラルなリベラリズムの再興の試み?
リベラルなリベラリズムの展開
リベラルでないリベラリズムの勃興
リベラルなリベラリズムそのものの問題

リベラルなリベラリズムの再興の試み?

本書が試みるのは、現代の英米系のリベラリズムにおいて失われた、リベラリズムの本来の伝統を、「リベラルなリベラリズム」――著者の表現ではない――として再興することである。

「リベラル」とはここでは古代ローマ以来の、共通善への貢献や他者との助け合いといった高貴な市民的徳のことであり、むしろそこでは今日のリベラリズム支える個人主義や利己心は敵対概念として捉えられた。

通例の思想史ではこのような古代的概念が近代において失われていくと叙述するが、著者はそれとは異なる歴史を語る。すなわち、こうしたリベラルな理想は、近代においてむしろ政治化することでますます力を得、ヨーロッパの政治思想の中心をなしていったと考えるのである。

とりわけ、このリベラルの理想の全面化として重視されるのが、フランス革命である。この革命において提示された自由への愛や公共善が、結果としてその負の要素としての恐怖政治および独裁を導いたとき、そうした負の要素を克服した真のリベラルを理論化する必要に迫られる。この課題を引き受け、リベラルをリベラリズムへと理論的に彫琢した人物として西洋政治思想史の中心に躍り出るのが、著者の専門でもあるバンジャマン・コンスタンにほかならない。

リベラルなリベラリズムの展開

このリベラリズムは、その後数々の攻撃に見舞われる。一方に反革命派からの攻撃がある。彼らは革命によって生まれたリベラリズムを反宗教的なものとして理解(誤解)し、カトリックの復興を唱える。しかしより重要なのは社会主義者からの攻撃である。すなわち、リベラルは、もともと高貴な人間性の涵養を理想とするものであって、貧困を当人の怠惰さに帰する傾向がある。だが、19世紀中葉以降に、そうもいっていられないほどに社会的貧困が問題化(「社会問題」の概念化)したとき、リベラルは社会主義に応答せざるをえなくる。そして実際、自由放任(レッセ・フェール)というリベラリズムのイメージとは対極的に、この問題にきちんと応答した介入主義的なリベラルが多くいたこと(あるいは「古典的リベラリズム」なるものはそもそも存在しないこと)を著者は繰り返し強調するのである。

とはいえ、その際注意されるべきは、リベラリズムの社会問題への介入は、その本質において道徳的ないし宗教的なものであったということである。とりわけ、ギゾー内閣率いる七月王政の金権的リベラリズムが、社会主義的な革命によって打倒されたのち、リベラルは、この失敗を克服するには、何よりも、利己主義・即物主義に染まって社会主義に惹かれる民衆を、精神的高貴さへと回帰させるべく、道徳と宗教を復興させなければならないと考えたという。そのためには、かつての敵であるカトリックとの協力も辞さない、そのような立場で生まれた言葉が「リベラル・デモクラシー」(モンタランベール)なのであった。

また、それと並行してリベラルは、このデモクラシーのリベラル化の担い手として、ナポレオン三世、リンカーン、グラッドストンといったリーダーへの期待も強くあったこと、そしてビスマルクでさえも、国家の成立していないドイツの特殊な条件においてはリベラルと必ずしも矛盾するものでなかったことが述べられている。

本書はこのあたりから、各国のリベラリズムの諸相へと分け入り、そのなかでとりわけドイツが、リベラリズムの歴史において重要であることが強調されていく。すなわち普仏戦争に勝利したドイツについては、自由放任と対比されるその国家社会主義的政策がその強さの源として認識され、各国のリベラルもそれを取り入れようとし始めるのである。著者によれば、このようなドイツの国家政策は、貧困の救済を道徳的使命とする倫理的経済学によっても支えられていた。そしてこのドイツで学んだアメリカの若き留学生たちが、母国へ戻って展開したのが、アメリカのニュー・リベラリズムであった。

しばしばいわれるところでは、アメリカのニューディール的リベラルは、いわゆるヨーロッパ的リベラルとまったく異なるものである。しかし著者の見立てによれば、むしろこのアメリカ的リベラルないしニューリベラルは、こうしたドイツ的国家主義やそれを受け入れた各国のリベラルに共通しているし、よりいっそう遡るなら、リベラルの本来の理想である公共善の他者との助け合いの精神を体現しているとみることができるのである。 

リベラルでないリベラリズムの勃興

さて、それでは20世紀前半まで受け継がれたこのリベラルなリベラリズムはなぜ「失われた」のであろうか。著者によれば、それはリベラルが、第二次世界大戦およびその後のソ連の「全体主義」との差別化をはかるために、みずからその本来の道徳的中核を放棄したことによる。

リベラルはもともと、共通善を志向し、他者に対して寛容かつ慈愛に富む、非個人主義的な概念であった。こうした概念に基づいて、リベラルは、その本来の道徳的高貴さとは必ずしも両立しない社会主義さえも包摂した。しかしこうして社会主義化したリベラルは、冷戦構造においてはおのずと「共産主義」「全体主義」という評価を招かざるを得ない。

そこでリベラルは、みずからが全体主義ではないことを示すために、共通善へのコミットメントを放棄した。これが著者の理解である。この文脈においてはバーリンやロールズのリベラリズムは真にリベラルとはいいがたい個人主義的ないし権利論的リベラリズムとして否定的な評価を得ることになる。そしてこの評価は、「完成可能性」という道徳的要素を無視したかたちで個人主義的に評価される前世紀のコンスタン解釈にまで及ぶことになる。 

リベラルなリベラリズムそのものの問題

このように著者は「リベラル」という道徳的価値を中核とする真のリベラリズムを再生させることを読者に訴える。ただし、そこにおいてこのリベラルなリベラリズム自体の問題が指摘されないわけではない。むしろ、それがまさに高貴な道徳的理想を伴うからこそ、おのずとさまざまな「排除」を伴ってきたことが繰り返し強調されていく。とくに女性の排除と植民地支配の問題はそれぞれが本書の中心テーマを為しているといえる。

川上 洋平

  • 専修大学法学部准教授