アメリカNOW第126号 NBC Nightly Newsアンカー降板問題:米テレビ・ジャーナリズムにおける含意:後編(渡辺将人) | 研究プログラム | 東京財団政策研究所

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アメリカNOW第126号 NBC Nightly Newsアンカー降板問題:米テレビ・ジャーナリズムにおける含意:後編(渡辺将人)

April 8, 2015

ネットワークのアンカーのジレンマ

アメリカのネットワークのアンカーマンに昔から固有の ジレンマがある。それは、厳格に経験豊富な記者だけを就任条件にしてきた割には、アンカーマンの画面上の仕事は「量的」には必ずしも多くないことだ。無論、「質的」には編集長として番組の構成を統括するという重大な影響を及ぼしている。ニュースというのは往々にして、何が報道されたかより、何を報道しなかったかの判断に価値が滲む。その判断に影響を与えられる「権限」は大きい。しかし、画面での出番としては、他人のリポートをつないで紹介するだけの仕事だ。視聴者は画面に映るものでしか「活躍」を判断しない(言うまでもなく、画面に映らない多くの人たちでテレビは成り立っているのだが)。

アメリカのテレビニュースでは、黎明期から取材記者が顔出しをして現場からリポートする方式が定着した。そのため、スタジオの総合司会者の仕事も、記者が書いた原稿をスタジオで代読することではなく、「ホワイトハウスから誰々記者がお伝えします」「誰々記者がロンドンからお伝えしました」と記者リポートを紹介する作業に徹する。様々なリポートを次から次へとリレーでつないでいく「アンカー」役ということで「アンカーマン」という名称になった(前号脚注で記したように、アメリカではアナウンサーというのは「ナレーション」の専門家あり、オープニングの番組名を読み上げる声の主である。顔は出さないし、日本のようにニュース番組で原稿を読み上げる仕事はしない)。

ネットワークの夕方ニュースは30分番組であり、CMと記者リポートを差し引くと、アンカーが顔を出している時間は実に少ない。意見を差し挟まないルールなので、淡々とリポートを紹介するだけである。「ネットワークの夕方ニュースのアンカーは、ジャーナリストとしての競争を勝ち抜いた優秀な記者のはず」というルールがアメリカの視聴者には浸透しているから権威が保てているが、仕事は実に単調で少ない。読みのプロフェッショナルである日本式のアナウンサーが務めたほうがいいのではないかと思う人もいるかもしれない [i]

そのため、アメリカのアンカーマンは、アンカーマンが記者でなければ務まらないことを適宜証明したがる傾向がある。スタジオに座っているだけでは忘れられてしまいがちな「自分が本当は記者である、ジャーナリストである」ことを誇示したいという欲求も自然と生じる。たまに取材現場に行ける機会があれば、危険な現場であったこと、現場の最前線で凄まじいものを自分が見聞きしたということをアピールする欲求にかられるのである。

アメリカのテレビニュースの視聴率競争をアンカーに焦点を絞って描いた本にロバート・ゴールドバーグとジェラルド・ジェイ・ゴールドバーグ著による Anchors:Brokaw, Jennings, Rather and the Evening News (1990)がある。元NHKの平野次郎氏の訳出で邦訳版(『トップキャスターたちの闘い』NTT出版)も出ている。その中に以下のような一節がある。平野氏の名訳で邦訳版からそのまま引用してみよう(日本の読者に分かりやすくアンカーをキャスターと訳す配慮がされている)。

「キャスターになるために必要だった能力が、キャスターになったあとは必要ではなくなる。現場では優秀な、そして第一級の取材記者であった人間が、いまではキャスターの机に縛りつけられてしまっている。ジェニングスやラザーやブロコーは、トレンチコートを着て現場の取材に行けないのは、ちょっぴりではあるが残念だと、暇さえあれば口にする」(458頁)

CBSのダン・ラザーについて、ラザーの元同僚が語る以下のコメントはさらに興味深い。

「ダンが気の毒だ。彼は現場では素晴らしい記者だったし、いま西側世界で最も重要な人物の一人だ。あれだけ稼いでいるのに彼は満足を感じていない。スタジオに来て、テレプロンプターに映し出された原稿を読み、深刻な表情を作る。彼は自分が手に入れたポストの奴隷なのだ。残念なことだ。なぜならダンは銃声を聞いただけで飛び出して行き、取材するような人間なのだから。指揮官として座っているのかもしれないが、私には彼が満足のいく仕事をしているようには思えない」(458-459頁)

百戦錬磨の放送記者であることが就任条件なのに、やっていることは記者リポートへの振りの原稿(リード)が映し出されたプロンプターを読み上げるだけの単純作業という、アメリカのアンカーマンの役割をめぐる根本的矛盾。ゴールドバーグらが25年前に提起していたこの問題が、今回のウィリアムズの事件で再考されている。アメリカではアンカーマンは「アンドロイド」と揶揄されることも多く、映画やドラマのパロディでもディープボイスで角張った動きをする人物がアンカーマン役で登場するが、ごく限られた決まった発言と動きしかしないロボットのような予定調和の印象が視聴者に根付いているからだ。ネットワークはアンカーの「予定調和」感を、「安心」「信頼」の代名詞として誇りにしてきた。

しかし、ウィリアムズの事件を契機に、その予定調和の「作業」が批判にさらされている。例えばトム・トゥーゲントは「ジューイッシュ・ウイーク」で、「ネットワークのTVアンカーの本当の罪」という衝撃的な見出しの記事をウィリアムズの写真付きで発表している。アンカーは30分からCMを10分引いた放送の中で、記者のいる場所とニュースの内容をリポートの前に伝え、取材に対して感謝を述べることしかない、と辛辣だ。しかも、アンカーには決まり文句があり、ウィリアムズのそれは「thank you as always」であり、ABCのデイビッド・ミューアは「As you told me before the broadcast」を頻繁に使い、CBSのスコット・ペリーはvery にアクセントを置いた「thank you VERY much」しか言わないと指摘している [ii] 。なるほど、わずかな登場の秒数中の台詞まで完全な決まり文句となれば、編集権は行使していても、画面上の「メッセンジャー」としてはジャーナリストである必要があるのか、という疑義も生まれよう。だからこそ、余計にアンカーは自分がジャーナリストであることを証明するために、シンボリックなニュースでは何かと外から自分で中継したがるし、大物インタビューなどもやりたがる。そのサイクルが繰り返されてきた。

米テレビ報道をとりまく環境の激変(1):CNNの出現

上記のようなアンカーマンのジレンマに別の意味で拍車をかけたのが、1980年代以降のネットワークのアンカーマンをとりまく環境変化だった。それは規制緩和と市場構造、技術革新などによってもたらされた。まず1980年代初頭レーガン政権下で、客観報道と不偏不党を旨とするフェアネスドクトリンが廃止される。そして1996年のテレコミニュケーション法により、メディア企業の合併による巨大メディアコングロマリットが生まれた。さらに技術革新がケーブルテレビの浸透をもたらした。1980年にはCNNが放送開始しているが、この24時間ニュースが、思いがけない地上波ニュースの脅威として成長していった。なぜCNNは脅威になり得たのか。

第1に、CNNは(一度オンエアしたものを再放送する)ニュースのリサイクルを始めた。日本のテレビ報道でも深夜ニュースで使用した原稿を朝ニュースでタイトルのCGだけ変えて別のナレーターやアナウンサーに読ませる「返し」(かえし)という行為をしているが、CNNはそれを毎時のニュースでやり始めた。そうすると夕方ニュースのオンエアで初めて報道されるニュースの価値が消滅してしまい、ネットワークの夕方ニュースの視聴者が見るニュースは、いずれも「さっき午後3時や4時のCNNで見た」という現象が生じるようになった。

第2に、CNNには余る程の尺すなわち放送時間があった。そのためインタビューも長尺で聞かせることができたし、ニュースのリサイクルにより、コストをあまりかけずに量的には多くのコンテンツを放送できた。放送枠の量的な多さがネットワークとの競争では有利だった。

第3に、24時間ニュースなので、いつでもニュース速報が打て、特番にせずに突発ニュース(Breaking News)が伝えられる編成におけるフレキシビリティという絶対的な優位性があった。  第4に、CNNの地位を不動にしたのは国際報道の盛り上がりとのシンクロナイズだった。技術的に容易になりつつあった衛星中継の効果的な利用と時差に影響されない24時間ニュースの相性は抜群であり、1989年の天安門事件の中国からの中継、そして1991年の湾岸戦争報道がCNNの存在感を増した。湾岸報道ではピーター・アーネット、ジョン・ホリマン、バーナード・ショーらが活躍した。CBSのダン・ラザーも北京入りして天安門事件の現場から中継したが、24時間体勢で報道するCNNほど視聴率が取れなかった。なぜならネットワークのイブニング・ニュースは決まった放送時刻にわずか30分だけ放送するという量的な制約に縛られていたからだ。どんなに深い取材をして、衝撃的な映像と共に名物アンカーのラザーが北京から伝えても、大抵の映像や情報は視聴者にとってはCNNで既に見たものに過ぎなかったのだ。

このとき初めてネットワークは、これまでの横並びのぬるま湯を思い知ることになる。ネットワークは3者の激しい競争はしてきた。しかし、他方で夕方ニュースのオンエア開始時間を1局だけ前倒しにする抜け駆けすらしない「紳士協定」には守られてきた。CBS、NBC、ABCどれか1つのチャンネルを選んでもらう三つ巴の競争は意識しても、自局を選んでくれた視聴者にとっては、その日に起きた出来事はテレビニュースでは初見である前提にあまりに慣れすぎていた。「この映像も会見も、さっきCNNで見た。何か違いはないの?」と言われてしまうことを想定しないできたのだ。「初見」で勝負できないならば、「切り口」で勝負しなければいけないが、大統領の発言や大きな事故を淡々と伝えるだけの、工夫の余地がそもそもない30分の金太郎飴のフォーマットでは、急に切り口や分析で深みを増すことは難しかった。3大ネットワークはCNNを仮想敵にしたフォーマット改革にはさほど踏み切れないまま、お互いを潰し合う従来の競争を続け、縮小する一方のネットワークのパイを食い合うだけのじり貧の戦いを続けた。結果としてネットワークの夕方ニュースの視聴率は1980年代以降、急降下していく。

ネットワークのイブニング・ニュースの視聴率は、ニールセンの調査では1980年時点では3局の差はあれども平均12%から16%獲得していたが、1990年までの10年で平均10%前後から11%ほどに落ち込み、1990年代の間に平均7%から10%に激減した。そして2002年にはついにどの局も単独で二桁を取れなくなった。2010年には最下位のCBSは平均4%、首位のNBCですら平均6%という惨めな状況だ [iii] 。無論、この視聴率の下落は、インターネットの普及と軌を一にしており、テレビ視聴の習慣全体の低迷とも関係しているため、ネットワークのニュースという商品価値そのもの以外の環境要因が大きい。しかし、CNNの出現はニュース業界内では大きな脅威だった。

深刻なダメージを受けたのは国際報道である。「国際報道はCNN」というブランドが確立される中、視聴率の低下と収益の悪化によるコストカットで、ネットワークは海外支局の縮小を余儀なくされてきた。とりわけCBSの凋落は激しい。これまでに、モスクワ、パリ、バグダッド、イスラマバード、カブール、テルアビブ、アンマン、香港、ヨハネスブルクの各支局を閉鎖。2012年集計時点でのCBSの支局は、ハバナ、ロンドン、ボン、北京、東京の5局だけになってしまった [iv]

CNNに弱点がなかったわけではない。冷戦終了後のクリントン政権期、アメリカが内向きになる中で天安門事件や湾岸戦争のようなCNNの活躍の場はそうは訪れなかった。また、24時間を一般ニュースだけで埋められるほど重大なニュースは起きない一方で、一般ニュースの取材と編集には莫大なコストがかかった。そのため1990年代半ばからCNNはストレートニュースへのこだわりを弱める。このおかげでネットワークニュースの寿命は少し延びた。

CNNは、24時間のニュース枠を討論番組などで埋めることで、出演パネリストのギャラだけに制作費を抑えるコストカット路線を目指した。また、国内ニュース中心の流れの中で、1994年のOJシンプソン事件が、CNNの娯楽トークショー路線を決定的にした(グレタ・ヴァン・サステレン、ナンシー・グレイスらの法律家パンディットも誕生)。そして1996年のジョンベネ・ラムジー事件がさらにワイドショー化も促進した。黎明期に国際報道で確立されたストレートニュース中心か、「Crossfire」「Larry King Live」などのトークショー中心か、という内部の路線対立はストレート路線のテッド・ターナーらと、娯楽トーク路線を推すルー・ダブスらの対立に及んだ。こうしたCNNの内部対立と迷走もあって、ストレートニュースならまだまだCNNではなくネットワークの夕方ニュースという信頼や視聴習慣が辛うじて維持された。

米テレビ報道をとりまく環境の激変(2):24時間ニュースの多様化

しかし、なんとか生き延びたネットワークニュースに追い打ちをかけたのが、1990年代のケーブルニュースチャンネルの複数化、多様化だった。1995年にNBCとマイクロソフトの協力でMSNBCが誕生。初期のこの局はマイクロソフト色が強く、インターネットの技術的な要素をテレビニュースの演出に埋め込むことで、CNNと違うニュースケーブル局としての差異化を行うことにあった。質問を視聴者から電子メールで募集して紹介したりという、現在では当たり前に行われている演出もこの局が先駆けだった。「Internight」という番組タイトルそのものがインターネットをもじったニュース番組まで作られ、スタジオのセットも近未来的なネットベンチャーのオフィス風の演出が施された。

翌1996年にはFOX NEWS Channelが放送開始。周知のように、FOXは保守思想を視聴率ビジネスに取り入れた局だった。しかし、放送史における挑戦として興味深いのは、ジャーナリズムとしては邪道であるが、テレビ表現としては先駆的なオーディオとビジュアルの技術革新を進めたことだった。「ティッカー」という動くサイドCG、臨時ニュースのヘッドラインというベルト式の文字移動電光掲示板を画面の下位置に敷くなどのビジュアル、CM入りや明けなどにアクセトで入れるキューカットのSE(音響)のハリウッド映画並みの迫力、クレーンカメラやドリーやパーンを多用した、視聴者を飽きさせない、まるで音楽番組やスポーツ番組のようなスタジオのカメラワークは、ニュース番組の固定観念を破り、アメリカのテレビニュースにかなりの影響を与えた。日本の民放のニュースへの間接的な影響も皆無ではない。

マイクロソフトのインターネット路線で視聴率が伸びなかったMSNBCはFOXを真似して、イデオロギーを商売にする方向に舵を切り、2000年代前半にリベラルイデオロギーの言論チャンネルになっていく。これが当たり、結果として保守ならFOX、リベラルならMSNBCという棲み分けが確定し、党派的番組制作がビジネスとして儲かる風潮が蔓延した。また、CNNの「Crossfire」以降のパンディットによる討論番組が1990年代後半増殖した。政治的分極化にともなう視聴者の細分化もあったが、大きかったのは1998年のモニカスキャンダルであった。ケーブルニュース局の夜の討論番組でパンディットがモニカ事件を語った。モニカ事件が政治ニュースの娯楽化、ショー化をもたらした転換点となったことは、アメリカのメディアの現場でも概ね一致した認識である。

ネットワークは、ケーブルの24時間ニュースによる、斬新な表現手法や、ジャーナリズムとしては倫理的にギリギリの線を泳ぐ新たな番組ジャンルの雨後の筍のような増殖に直面したことで、かつての硬派路線を自ら放棄する「迷走期」に入った。CBSのダン・ラザー、NBCのトム・ブローコー、ABCのピーター・ジェニングスが、それぞれ失脚、引退、死亡により姿を消したことで、アンカーの知名度の低下にもネットワークは悩まされた。

そもそもCNNには「スターアンカーは要らない」と言うテッド・ターナーのもと、「反大物アンカー」主義があった。アンカーは「読み」が安定していれば無名でいいという、日本の伝統的な「アナ読み」ニュースに近いような考え方で、これはCNNヘッドラインニュースに反映された。24時間ニュースチャンネルでアンカーの数が増え、元FOX Newsディレクターのジョー・ムトーが言うように、FOX Newsの出演者はオーライリーやハニティなど一部の有名人以外は、スタジオを一歩出てニューヨークの街を歩けばアンカーと認知される人は少ない(女性はバービー人形のような金髪女性であることなどFOX独自の基準はあるのだが、似通っていて区別はつきにくい)。アンカーの権威と希少性は、皮肉にもニュース専門チャンネルのせいで低下してしまった。

ピューリサーチセンターの調査では、1985年の調査でダン・ラザーの写真を見て、それが「ダン・ラザー」であると回答できた人は47%だった(別の名前を答えた誤答が8%、分からないが45%)。しかし、2013年の調査ではブライアン・ウィリアムズの写真を見せて、アメリカ人で名前が答えられた人は、「ブライアン」か「ウィリアムズ」と、名字か名前の片方しか答えられなかった人を加えても27%しかいなかった。「アンカーの人、記者の人」と答えた人が3%、誤答が18%、分からないが過半数の53%だった [v] 。無名化するアンカーは自ら率先して「話題作り」を提供するプレッシャーを受けている。金太郎飴のようにフォーマットが同一のネットワークの夕方ニュースでは、アンカーの人物的な魅力や話題で引きつけるしかない。知的な層や若年層はますますネットワークの夕方ニュースから離れ、伝統的なお得意様の高齢者や専業主婦を引きつけることが求められる中での試行錯誤が行われた。ウィリアムズは他局のCBSのコメディ番組にまで出演することで、せっせと知名度を高めようとした。見方によっては健気な努力である。NBC Nightly Newsの番宣効果を考えれば、ウィリアムズの行為をやり過ぎだとして制止するインセンティブはNBC経営陣にはなかった。

記者経験は乏しいが視聴者人気は高い人物をアンカーにする「仰天人事」も生まれた。2006年、ネットワークの夕方ニュース史上初の女性ソロアンカーとして、「CBS Evening News」にケイティ・コリックが抜擢されたりした(2人体制のコーアンカーとしては同じく「CBS Evening News」のコニー・チャンが初)。コリックはNBCの総合情報番組「TODAY」の司会で人気者だったが、記者経験が浅く、伝統あるCBSのクロンカイトとラザーの後釜としては、ジャーナリストとしてあまりに軽量級過ぎた。女性視聴者にアピールする話題作りにはなったものの、視聴率は足踏みを始め、同番組はアンカーの権威とスポンサーの期待を両方失った。結果としてコリックは2011年に降板する。そのような他局の混乱を尻目に、NBCのブライアン・ウィリアムズは、久しぶりに登場した硬派の記者と見られており、黄金時代のアンカーの権威を復活できる人物と経営陣に期待されていた。読みの技術やルックス、ジェンダーによるアファーマティブ・アクションによる話題作りばかりが先行していた最近のネットワークのアンカーの中で、ジャーナリストとして自らを差異化できるという自信がウィリアムズにあって不思議はなかった。

しかし、ウィリアムズの「自分はジャーナリストである」という自己証明、「現役取材記者、戦場や災害被災地にあり」の「自己顕示」は、誤った方向に走って行った。結果として、ただでさえ視聴率低下の一途をたどっているネットワークの夕方ニュースの信頼性を損ねる「虚言」事件を巻き起こしたのである。ネットワークはウィリアムズ個人が謝罪するまで、当初はこの問題を積極的に扱わなかった。アンカーの信頼が最大の商品であり、ウィリアムズを失うNBCだけでなく、同じ「スターアンカー」のビジネスモデルでニュース番組を商品にしているCBSやABCも、なるべくなら深刻な問題にならないことを祈っていたからだ。しかし、ソーシャルメディアが騒ぎだす中、ネットワークと利害が一致しない、ケーブルのCNNやFOX NEWSが積極的に報道し、ウィリアムズは逃げ場を失った。

NBC Nightly News事件が示唆する含意

ノースカロライナ大学准教授(メディア研究)のジェフリー・ベイムは、かつてエド・マローが築き、クロンカイトによって磨きをかけられた、テレビ報道を「ハイモダン・ジャーナリズム」と定義する。それは3大ネットワークの夕方ニュースによって継承されてきた。ウォーターゲート事件の頃、アメリカのテレビ報道では、テレビ記者が個人的な意見を差し挟むことは禁じられており、アンカーと記者の「会話」も存在しなかった。記者やアンカーがファーストネームによる「呼び捨て」で会話することもなく、個人としての意見を述べることは稀だった。

しかし、この伝統的な「ハイモダン」の米ジャーナリズムにも変容が生じた。1990年代末のモニカスキャンダルをめぐる報道では、ネットワークは編集方法、映像の使い方、記者の中継による掛け合いの多用でタブロイドショーと境目をなくしていった。3人の著名アンカーの交代、とりわけダン・ラザーの失脚に象徴されるCBSの衰退は時代変化を決定付けた。メディア環境の変化の中で、放送ジャーナリズムは批判精神を失い、2000年の大統領選の当確で過ちをおかし、9/11以降はブッシュ政権下の愛国ムードに巻き込まれてイラク戦争に加担する報道をしたとベイムは厳しく批判している。

さて、ではウィリアムズの事件の含意はどの辺りにあるのだろうか。第1の含意は、ネット時代、とりわけソーシャルメディアによる可視化の力だ。CBSのラザー引退の引き金になったブッシュ大統領の軍歴に関する報道でも、今回のウィリアムズの件でも、ネットから「異論」が飛び出し、それが広がっていくというパターンを繰り返している。ソーシャルメディア時代には現場に居合わせたり目撃した人が世の中に発信できる。取材を受けた対象が何をどう書くか分からない。その場では一蓮托生のつもりで口裏を合わせていたカメラマンやスタッフだって数年後、10年後に気が変わって、真実を書き込むかもしれない。「現場」は以前に比べれば、ある意味ではガラス張りになってきている。実際、ウィリアムズと似たようなケースはこれまでに多々あったはずだが、ソーシャルメディアがなかった時代には表沙汰になりようがなかった。クロンカイトの時代は、権威の神話を築きやすかっただけなのかもしれない。クロンカイトがアンカーとしてスタジオで読む原稿を、ほとんど自分で書いていなかったことを知るアメリカ人は少ない。過去のアンカーだって、ウィリアムズと似たり寄ったりか、それより酷い「やらせ」や「虚言」を「演出」として行ってきたかもしれないが、ばれようがなかっただけかもしれない。ソーシャルメディアによるガラス張り化の浸透は短期的には一定のメディアリテラシーの向上に資するだろう。しかし、長期的には単にシニシズムを増幅するだけに終わるリスクもある。

第2の含意は、ネットワークの夕方ニュースに象徴される伝統的な「スターアンカー」の衰退である。今回のウィリアムズの事件で、どこまでNBCの組織的な関与があったかをめぐる問題では、現時点ではウィリアムズ個人の軽率さが原因とされている。だが、元CNN記者でジョージワシントン大学のフランク・セスノは局の管理不行き届きを指摘している。しっかりした報道組織は、しっかりしたプロデューサー、責任者が必要だと、CNNに出演して述べたセスノは「大人による監督 adult supervision」が必要だと言う。治外法権だったアンカーマンの編集権や人事権に制限がかかるようになる可能性があるだろう。これは一見すると正しいコンプライアンスにも見えるが、ジャーナリズムにとっては重大な曲がり角だ。アメリカのメディア企業では、規制緩和後は特にそうだが、記者、プロデューサー、編集者などジャーナリスト出身者が経営を行わない。MBAを取得した経営の専門家が役員を務め、ジャーナリズムの現場と経営戦略は切り離されている。そのようなアメリカのメディア企業において、ネットワークのアンカーマンの権限は、報道現場サイドの対経営側への砦だったのだ。夕方のアンカー権編集長は象徴的な意味では「報道現場における社長」であり、現場の視点からの要求を経営陣に突き付けられる、対抗権力だった。安月給の現場スタッフでも、取材力ではアンカーを凌駕すると自負するベテラン記者でも、アンカーの高額報酬や編集権の聖域化を認めてきたのは、現場側にそうした「権力」の維持が必要だったからだ。それがコンプライアンスの名の下に経営側によって崩されるとなると、地味で単調ながら最後の「良心」でもあったネットワークの夕方ニュースまで、FOX News的なエンターテイメント化が激しく促進されることになるかもしれない。

無論、アンカーの無名化が進んでも、ネットワークの経営陣はアンカーが誰でもよいとまでは言わない。放送記者を中心にした制作現場と視聴者の2つの抵抗力がそこにはある。アメリカの放送記者は、アンカーは経験豊富な同僚であるべき、と信じている。経営側の判断で、タレント性の強いアンカーが落下傘で降りてきても、間違いなく現場では孤立する。日本でも同じだが、キャスターにとって一番辛いのは、制作スタッフに嫌われて孤独になることだ。現場の士気が数字に反映するならば、経営側も配慮せざるを得ない。そして、もう1つは視聴者だ。アメリカの視聴者には、ニュースはそのニュースを理解し、咀嚼しているはずの人に伝えてもらいたいという欲求がある。顔出しリポートを記者として一定期間やってきた馴染みのある人である必要もある。記者出身者の編集長が代表してニュースのメッセンジャーを務めるのも、そのニュースを直接取材して原稿を書いた人物ではなくても、そのニュースの含意や背景を深く理解した上で、伝えてくれている安心感を視聴者が無意識ではあるが重視する傾向があるからだ。

この辺りは、国や文化によって、ニュースのメッセンジャーにどのような「記号」を求めるかは異なる。ある国では政府や権力との遠近かもしれないし、高学歴であるかもしれないし、「親しみやすさ」かもしれないし、別の国ではジャーナリストとしての現場経験の蓄積かもしれない。アメリカではアンカーに学歴は求めない。ブローコーはサウスダコタ大学、ラザーはサム・ヒューストン州立大学。ウィリアムズも入学はコミュニティカレッジで、その後カソリック大学に編入しているものの卒業できず中退。履歴書で中退を書くことが許されない「学位主義」のアメリカでは、厳密にはウィリアムズは高校卒業である。有名アンカーにアイビーリーグなど著名大学出身者はほとんどいない [vi]

第3の含意は、ネットワークニュースの存在意義の定義をめぐる瀬戸際の到来である。ジェフリー・ベイムは、ネットワークのニュースが機能不全に陥り、ケーブルニュースが党派的な対立に陥る中で求められたのが、ジョン・スチュアートやスティーブン・コルベアらの「The Daily Show」「The Colbert Report」ような、コメディアンによる「疑似ニュース」だったと論じているが、一理ある。例えばコルベアは必ずしもMSNBCのアンカー達のようにリベラルや民主党を代弁せず、あらゆる問題をシニカルに検討する。その姿勢は、リベラルが保守を、保守がリベラルを攻撃する二項対立を超越し、必要とあれば右も左も包括的に批判してみせる点で、「ハイモダンのジャーナリズムの批判精神や哲学とポストモダン時代の振る舞いの双方を兼ねそろえている」とベイムは評価する。疑似ニュース賛美のベイムの議論には賛否両論あろう。アメリカの放送界でまともな批判精神を発揮しているジャーナリズムは、今やコメディアンの疑似ニュースショーしかない、という挑戦的な主張を認めることは、ニュースの現場にいるジャーナリストにとっては、専門の放棄であり、職業的な死を意味する。

ネットワークのアンカーは明示的に批判もしないし、番組にコメンテーターも使わない。そのスタイルを維持していくなら、アンカーの信頼感だけがビジネスの基礎だったはずだ。ウィリアムズの事件によって、ネットワークの権威とアンカー神話は大きく傷ついた。しかし、ネットワークが蓄積してきた取材力と映像表現力を、一人のアンカーマンの「虚言」程度で犠牲にしていいのだろうか。アメリカのネットワークは、ウィリアムズを欠陥商品と認定し、トカゲの尻尾切りをすることでアンカーの「完全無欠神話」だけは、なんとか維持しようとするのかもしれない。あるいは、部分的に従来型のアンカー神話を捨て、アンカー依存を見直す契機とするかもしれない。保守とリベラルのイデオロギー言論チャンネルと化しているケーブルニュースに飽き飽きした視聴者を呼び込むべく、ストレートニュースの「質」を高めることに目を向けられるのか。その「質」は何で決まるのか。半年後、ウィリアムズがアンカー席に戻れるのか、どのような形で戻るのかが、ネットワークとアメリカの視聴者が、テレビ報道とアンカーマンに何を求めるかを示唆するひとつの試金石になる。

渡辺将人 北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院准教授


[i] コメンテーター的な人物は夕方ニュースには存在しない。スタジオの出演者は例外的な構成を除きアンカー1人である。アメリカではPunditと呼ばれるコメンテーターだけが出演する討論形式のトーク番組と、ストレートニュースの番組の峻別が極めて明確であり、ストレートニュース内には論評を持ち込まない。
[ii] Tom Tugend , “The Real Sins of Network TV Anchors” Jewish Journal (Feb. 13, 2015)
http://www.jewishjournal.com/opinion/article/the_real_sins_of_network_tv_anchors
[iii] Emily Guskin, Mark Jurkowitz and Amy Mitchell, Pew Research Center's Project for Excellence in Journalism, "Network: By the Numbers".
http://www.stateofthemedia.org/2013/network-news-a-year-of-change-and-challenge-at-nbc/network-by-the-numbers/4-abc-and-nbc-tied-for-share/
[iv] ABCは2010年集計時点で13支局(ハバナ、メキシコシティ、ロンドン、モスクワ、ローマ、バグダッド、イスラマバード、カブール、エルサレム、北京、香港、東京、ナイロビ)、NBCは2012年集計時点で14支局(ハバナ、ロンドン、モスクワ、フランクフルト、バグダッド、カイロ、イスラマバード、カブール、テルアビブ、テヘラン、北京、バンコク、東京、ヨハネスブルク)をなんとか維持している。
Emily Guskin, Mark Jurkowitz and Amy Mitchell, Pew Research Center's Project for Excellence in Journalism, "Network: By the Numbers".
http://www.stateofthemedia.org/2013/network-news-a-year-of-change-and-challenge-at-nbc/network-by-the-numbers/20-foreign-bureaus/
[v] Michael Barthela, "America’s News Anchors are Less Recognizable Now, But Network News is Still Alive" Pew Research Center, "Far Fewer Americans Can Now Identify Top-Rated Network News Anchor"(Feb. 12, 2015)
http://www.pewresearch.org/fact-tank/2015/02/12/americas-news-anchors-are-less-recognizable-now-but-network-news-is-still-alive/
[vi] ただ、政治評論を行うパンディットは別である。また、コロンビア大学以外のアイビーリーグの大学、およびMIT、シカゴなどの上位校に、ジャーナリズム専攻が設置されていないことも無関係ではない(アメリカで放送のキャリアを歩む上では、ジャーナリズムかコミュニケーション専攻で卒業することが求められがちで、日本のように法学部、経済学部、文学部などを出てマスコミ就職するという、学業の専攻と就職後のキャリアを切り離す慣行とは温度差がある)。いずれにしてもアメリカでは、アンカーが有名大学卒であることは稀である。
    • 北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院准教授
    • 渡辺 将人
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