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【書評】ニコラス・ワプショット(久保恵美子訳)『レーガンとサッチャー 新自由主義のリーダーシップ』(新潮社、2014年)

October 14, 2014

評者:高安 健将(成蹊大学法学部教授)


1. 構成と展開

本書は、英国人にして米国でも活躍するジャーナリストの手によるロナルド・レーガン元アメリカ大統領とマーガレット・サッチャー元英国首相の評伝である。本書は、レーガンとサッチャーの各々の物語をパラレルに描き比較する前半部分と、両者の協調、衝突、友好関係などの交流の物語を描く後半部分から成る。
第1章と第2章はレーガンとサッチャーの各々の思想形成の物語であり、第3章と第4章は両者の権力獲得の物語である。ここまでがパラレルの物語となっている。そして第5章から第8章は両者の政権初期の頃の連携と対立についての出来事を扱っており、第9章から第11章は本書の、そしてレーガン、サッチャー両政権のハイライトである冷戦への対応を描いている。第12章と第13章は離任後の両者の黄昏期を扱っている。

2. なぜ、レーガンとサッチャーか?

そもそも、なぜ、いまレーガンとサッチャーなのか。
本書によれば、両者の外交上の業績は、冷戦を勝利に導き、ソ連に東欧の衛星国に対する支配を放棄させ、米国への敵対的姿勢も捨て去らせたことである。国内政治について言えば、自らの経済思想を正統派の思想にまでならしめたことが指摘される。さらには「米英両国が目的意識を失っている時期に、国を誇りに思う気持ちを国民に取り戻させた」(6頁)。冷戦、経済、ナショナリズムが彼らの舞台であり、そこに華々しい「業績」があったという。
著者は、レーガンとサッチャーの活躍した時代が「危険ではあったが、危険が予測できた世界」とし、米国の同時多発テロの発生以降の世界的混乱を受け、「冷戦時の確実性が失われる状況のなかで、米国民がレーガンやサッチャーが示したような力強いリーダーシップを切望するようになった」(7頁)と主張する。ここに本書が出版された背景があるようである。
ただ、こうした議論には矛盾も感じられる。「危険が予測された世界」では有用であった指導者が、「冷戦時の確実性が失われた状況」でもはたして依然として有用性をもち続けうるのであろうか。むしろ混沌とした時代にあって指導者のイデオロギー的な確信は頑迷さとなり、場違いの、ある意味で危険な指導者になるのではないか。なぜいま、レーガンとサッチャーなのか、本書からは必ずしも納得できる説明をみつけることはできない。
以下では、本書に取り上げられた興味深いテーマをいくつか紹介してみたい。

3. 大きな物語(1):思想の形成期

本書でまず興味深いのは、レーガンとサッチャーが特に強固な保守主義の体現者として出発したわけではなかったという指摘である。第2章によれば、レーガンは、父親の影響から労働者に本能的な共感を覚えて民主党を支持しており、共和党にたいしてはむしろ特権階級の政党というイメージをもっていた。サッチャーも保守党支持ではあったが、伝統的な保守主義者すなわち政治をイデオロギー的には捉えない保守党員であった。両者とも青年期には明確な保守主義思想を表明していたわけではなかった。本書は両者がいかにして保守主義思想(より正確に言えば、経済的自由主義の思想)に確信を抱くようになったのかを描いている。
また、本書の第1章によれば、両者の家庭体験とくに父親との関係は対照的であるが、レーガンとサッチャーは、主流ではないキリスト教のグループのなかで育ち、「『家で子供を育てている既婚の夫婦』の力」に基づく家族をこそ「社会の主要な構成単位」であるという共通の価値観を形成したという。ただし、こうした価値観が政策選好にストレートに反映されたわけではない。第4章によれば、たとえば、サッチャーは人工妊娠中絶の容認には賛成であり、離婚の法的制限の緩和にも賛成であった。レーガンも、「共和党の社会的保守派を激励することはほとんどなかった」という。このことは、宗教教育が両者の政治的立場に影響していなかったことを物語っている。興味深いのは、レーガンが再婚をしており、サッチャーも再婚者と結婚しているとの本書の指摘である。結局、このエピソードが示唆するのは、両者が理解可能な範囲内の個人的な困難には「寛容さ」を示していたということであろうか。

4. 大きな物語(2):経済政策

本書の副題は、「新自由主義」のリーダーシップである。その新自由主義は本書のなかでどのように語られているのであろうか。
第5章は、両者の選挙(大統領選挙と総選挙)での勝利の様子を描いている。本書の指摘は、まさにレーガン政権とサッチャー政権の登場の仕方を的確に示している。本書の理解では、レーガンとサッチャーの政策が有権者に受け入れられたわけではなかった。ただ、ライバルたちが自滅したのであった。むしろ、レーガンとサッチャーは各々党内で「奇妙で実行不可能な考えをもっている非現実的な過激派」とみなされていたという。
経済政策に関連して注目されるのは、レーガンとサッチャーがイデオロギー的には近しかった一方で、サッチャー政権が初期の経済運営に不安定性をみせていた頃、レーガン政権がサッチャー政権の諸政策を「みな失敗」と評価し、当初は、距離を取っていたことである。
本書はこのように、1980年代初頭の経済政策と英米両国の関係について重要な指摘をしている。だが、残念なことに、このあとの時代の経済政策の内容や評価については本書に出てこない。本書の邦語の副題とは裏腹に、両政権の経済政策に関する議論は少ない*1。著者が『ケインズかハイエクか―資本主義を動かした世紀の対決』(新潮社、2012年)と題する著書を出版していることを考えれば、経済政策に関してもう少し読者に親切な説明があってもよかったように思われる。
*1:労組対決は例外で第10章に描かれているのだが、これも経済政策的な含意はあまりなく、頑強で急進的な労組を打ち負かしたという政治闘争として描写されている。

5. 大きな物語(3):フォークランドとグレナダ

本書には、レーガンとサッチャーが外交政策で対立したイシューが複数取り上げられている。首脳間の関係としては間違いなく「特別な関係」にあった両者ではあるが、外交上の「国益」に関しては激しく対立もしていた。フォークランド紛争やグレナダ侵攻、あるいは対ソ経済制裁はその代表例である。両者の利益や見解が対立するとき、本書にはサッチャーの凄まじい怒りに晒されるレーガンの姿がほとんど痛々しいほどに生き生きと描かれている。
同時に、レーガンは、これらの事件に際して、アメリカの利益とならなさそうな場合には、たとえサッチャーに対してでさえも、情報をぎりぎりまで明かすことはなかった。英国の利益を侵害しかねない政策判断もレーガンは行っている。両者は新自由主義の布教や冷戦の全体的文脈では呼吸を合わせているが、個々の政策では激烈な対立をみせていたことが本書からははっきりと読み取れる。
ただ、本書の語りには物足りなさもある。たとえば、フォークランド紛争に際して、アメリカも英国も一枚岩だったわけではない。アメリカについて言えば、大統領、国務長官、国防長官で政策的方向性に違いがあったようであり、英国でも首相と外相の見解にずれがあったことは本書のなかにも言及されている。だが、こうした政府内における両首脳の立場が他の政府内アクターや議会などの諸機関との関係で描写されることはほとんどない。リーダーシップは、これを受け入れるフォロワーがいて初めて成立するが、本書の議論はフォロワーがほとんど登場しないリーダーシップ論となっている。
さらに言えば、敗北後のアルゼンチンの状況に由来する南米の冷戦構造への影響も記載はない。本書のなかでフォークランド紛争は、レーガンとサッチャーの個人的な関係の問題として落着するのみである。本書からは、政策決定(あるいはリーダーシップ)にせよ、国際関係にせよ、構造的な問題に対する関心を読み取ることはほとんどできない。

6. 大きな物語(4):ゴルバチョフ

本書によれば、ゴルバチョフが英米両国にとって重要となったのには、レーガンとサッチャーのスタイルが関係していたという。この背景には、ゴルバチョフ書記長の登場する直前、ソ連の最高指導者が次々と死去し、頻繁に交代していたという事情がある。レーガンとサッチャーは「国際情勢を個人的な接触によって変化させるみずからの能力をきわめて重視してきた」とし、それゆえにソ連国内の状況に対し「接触する相手がひっきりなしに変わることに苛立ち」を覚えていたという。それゆえに、ゴルバチョフの登場は願ってもない機会であった。
本書のハイライトは、レーガンによる戦略防衛構想(SDI)の推進と米ソ間の核兵器削減・廃絶交渉である。レーガンはSDIが核を不要にし、ソ連とこれを共有することで、両国間で核弾道ミサイルを放棄できると訴えていた。本書はレーガンとゴルバチョフの間で行われた緊迫の交渉を描写している。結局、ゴルバチョフは米国によるソ連へのSDIの技術供与を信用できず、レーガンもゴルバチョフが抱いていたSDIに対する強い警戒感を払拭できなかったことから交渉は決裂する。
この間、サッチャーは交渉には直接関与できず、蚊帳の外であった。しかし、サッチャーはレーガンの「夢」に強い懸念をもち、レーガンにもこの懸念を伝えていた。ここでもサッチャーは、レーガンに激しい言葉を浴びせはするが、アメリカの外交政策に影響を与えることはできなかった。
残念なことに、本書では、レイキャビック首脳会談後のゴルバチョフについては議論が端折られている。レーガンとサッチャーに関する著書なので当然ではあるが、このことは言い換えれば、レイキャビックからマルタそしてソ連解体に向かう流れのなかで、レーガンが果たした役割が何であったのかが明示的には議論されていないことを意味する。本書は、パーソナリティの激突の物語としてはおもしろいが、著者の説明で歴史が動いていると感じることは難しい。

7. 「物語」から何を読み取るか

本書は徹底してパーソナリティからの物語を展開している。このような議論の仕方は、エピソード的には大変におもしろい。
たとえば、レーガンとサッチャーの「特別な関係」のなかで、サッチャーがレーガン夫人のナンシーの「機嫌をとる」ことに腐心する様子は愉快でさえある。だが、この問題にしても、レーガンがサッチャーの夫のデニスの「機嫌をとる」場面は登場しない。このことは何を意味するのであろうか。それは女性のサッチャーがレーガンの妻に配慮する、というところにこのエピソードの重要性があるのではなく、英国の首相が米国の大統領夫人に配慮しているというところにこそ意味があるのではないか。
第12章には、レーガンが大統領を、サッチャーが首相を退任したあとの両者の関係が述べられている。本書によれば、「その後も彼らはときどき顔を合わせたが、雑談をしないサッチャー、会話を円滑にするために逸話や古いジョークをますます多用するようになったレーガンが、真の意味で意見を交換することは二度となかった」(366頁)。確かにレーガンとサッチャーの関係は個人的な関係ではなく「政治的結婚」であった。本書は、この政治的な夫婦について、ある種のパロディーとしておもしろく読むことはできる。だが、原典の副題である「政治的結婚」の本当の意味は、本書のなかで十分に掘り下げられているとは言いがたい。それゆえに、首脳間の密接な関係が国の政策(決定)にいかなる影響をもたらすのかという本書にとって決定的に重要な問題に関して多くを学ぶことはできない。
本書は多数の興味深いエピソードの連続から成り立っている。しかし、読者は無数のエピソードから何を学ぶことができるであろうか。エピソードのひとつひとつの奥にある構図なり構造を読み解く道標を本書から読み解くことは難しい。であるからこそ、読者は各々、自らの思いをエピソードに読み込む。しかし、それは真にテキストから何かを学んだことを意味するのであろうか。ただ読者自身の先入観や思い入れを強化するためにテキストを使っているだけなのではないか。本書を読むにあたって読者は、多くを読み込む力ではなく、むしろ禁欲をこそ求められているのかもしれない。
    • 政治外交検証研究会メンバー/成蹊大学法学部教授
    • 高安 健将
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