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戦後70年を考える:日中関係はなぜ悪化したのか──日本政治からの考察

July 29, 2015

東京財団 政治外交検証研究会は、戦後70年を機に、「日米安保体制」、「沖縄基地問題」、「日中関係」をテーマに取り上げ、新進気鋭の外交史や国際政治史の研究者が歴史を手がかりに、それぞれの課題と方途を探る公開研究会を行った。

◆2015年6月22日 政治外交検証公開研究会

  • 発表者:井上 正也(政治外交検証研究会メンバー/成蹊大学法学部准教授)
  • モデレーター兼コメンテーター:五百旗頭 薫(政治外交検証研究会サブリーダー/東京大学大学院法学政治学研究科教授)

本報告では日中関係がなぜ悪化したのかについて、日本の国内政治の観点から考察を行った。1970年末から1990年代前半までの日中関係は、歴史問題など様々な対立をはらみながらも安定的に推移した。文化大革命後の中国指導部は、経済建設を加速すべく対外経済関係の拡大を目指しており、とりわけ、日本からの外資導入を重視していた。一方日本側も中国の要請に応える形で、1979年から2005年まで25年間で総額3兆4千億円にのぼる政府開発援助(ODA)を供与した。中国大陸に新たな市場と資源エネルギー源の開拓を求める日本側と、近代化のために西側諸国に資本導入を渇望していた中国側の思惑は一致していたのである。

しかし、1990年代後半から、日中関係は徐々に政治面での対立が目立つようになり、小泉政権期には「政冷経熱」と呼ばれる事態に陥った。経済面での相互依存の進展は、必ずしも政治面での対立を抑制することにはつながらなかった。日中関係の変化の理由として、中国の「大国化」による国際システムの変化、両国での排外的なナショナリズムの勃興などがしばしば指摘される。だが、一方で日本の中国政策の前提となる国内政治的要因はこれまで十分に考察されてこなかった。そこで本報告では日中関係におけるバッファー・システムとして自民党の親中国派の果たした役割に着目し、派閥政治の変遷が日中関係にいかなる影響を及ぼしたのかを分析した。

自民党の親中国派の歴史的起源は1950年代までさかのぼるが、日本政界に実質的な影響力をもたらす親中国派が登場したのは、田中角栄と大平正芳の台頭後である。1970年代を通じて田中派と宏池会が日中関係に大きな影響力を行使するようになる背景には二つの要因があった。

第一は親台湾派の影響力の縮小である。1972年以後も自民党内では中国政策をめぐる論争が続いていた。とりわけ、国交正常化を強行した田中政権への党内の反発は根強く、1973年より本格化した日中航空協定交渉は、日華議員懇談会や青嵐会といった親台湾派議員の反発によって難航を余儀なくされた。だが、自民党内の親台湾派の活動は、福田派を中心とする反田中運動と連動していた。それゆえ、田中が金脈問題で退陣すると、親台湾派も徐々に推進力を失った。さらに日中平和友好条約交渉では、親台湾派を自派に多く抱える福田赳夫首相が、条約締結反対派を自ら説得することで党内調整を進めた。1978年8月に日中平和友好条約が福田首相の手で調印されたことによって、中国政策が自民党内の政争から切り離されたのである。

第二に、自民党政治における「田中支配」の確立である。田中角栄は1976年7月にロッキード事件によって逮捕され、政界の表舞台を退かざるを得なくなった。だが、派閥領袖が総理を辞任した後、世代交代や派閥解体に向うそれまでの慣例とは異なり、田中派は依然として鉄の団結を誇り、肥大化の一途を続けた。数を力の源泉とする田中派は、宏池会との「同盟」によって、大平正芳以後の歴代政権の成立に一貫してキャスティング・ボートを握り続け、事実上の二重権力構造を確立したのである。

こうした田中や大平らの親中国派の影響力を十全に活用したのが、廖承志とその部下(「廖班」)からなる中国の「知日派」であった。1950年代から対日工作に従事してきた彼らは、日本の政界事情に通じ、政界工作の手法も熟知していた。一方、日本政府側でも「チャイナ・スクール」と俗称される外務省の中国専門家が同様の役割を担った。外交における非公式ルートを重視する中国側の交渉スタイルを熟知した彼らは、日中両国に問題が生じる度に、中国側が主張する原則論から本音を引き出すと同時に、日中両国の紛争解決を図るために、時には水面下での政界工作も辞さなかった。

1980年代に入ると田中、大平の中国人脈は後藤田正晴、伊東正義に引き継がれる。この時期の日中関係は、中曽根・胡耀邦関係に象徴されるように、しばしば良好な時代と記憶される。だが、実際には中曽根政権の政治姿勢や、歴史問題をめぐって紛争の火種は絶えず、自民党内も対中宥和路線で一枚岩ではなかった。田中派や宏池会という党内基盤を持つ後藤田や伊東といった親中国派の存在は、日中関係を安定させる役割を果たした。

1985年2月に竹下登が田中に反旗を翻して創政会を立ち上げ、田中支配は終焉を迎えた。だが、田中派を継承した経世会竹下派も中国側とのパイプの継続を重視した。経世会支配の下で自民党政権は、中国側の切望していた天皇訪中を実現させることになる。

しかしながら、冷戦終結と政界再編のなかで中国をめぐる状況も変化を迎える。硬直的な保革対立が続いた冷戦下で、保守陣営を結びつけたのは「利益の体系」であった。だが、冷戦終結によって保革対立が融解し、経世会支配も崩れ始めるなかで、「価値の体系」をめぐる対立が政界で表面化する。1990年後半の橋本龍太郎、小渕恵三両政権は、冷戦後の新たな国際秩序への対応と、経世会の伝統的な親中路線との狭間で対応を苦慮し続けねばならなかった。

2000年代に入り、中国の経済発展と相まって、日本と中国との貿易額は拡大し、人的交流も増加の一途をたどった。だが、両国間の交流拡大は新たな摩擦を生じ、インターネットの普及も相まって現れた扇情的なナショナリズムは、両国の政府当局者への強い圧力となった。日中関係の相互依存が深まる一方で、小泉純一郎政権下では首脳レベルでの交流がほとんど途絶し、「政冷経熱」と呼ばれる状況が続いた。2005年4月に中国各地で起きた大規模な反日暴動は、小泉政権下での両国関係の悪化の頂点であった。

そもそも、日中関係に限らず、異なる歴史の記憶を持つ国民同士の「和解」は容易に実現することではない。黄金時代と呼ばれた1980年代でも、日中両国では教科書問題や靖国参拝と言った歴史問題が常にくすぶり続けた。国交正常化以来、様々な争点をめぐり根本的な「合意」を欠いた状況で、経世会や宏池会からなる自民党親中国派は、両国間で紛争が起こった際に、両国の対立が激化せぬよう政治的に処理するバッファー・システムの役割を担っていた。しかし、冷戦終結後に日中関係をとりまく国際環境は大きく変化し、1993年の経世会分裂は「利益の体系」に基づく自民党政治の終わりの始まりを意味した。そして、選挙制度の変更による派閥の弱体化は、自民党親中国派が「チャイナ・スクール」や「知日派」を通じて中国政策に影響力を行使し、日中関係の安定を図ってきた時代の終焉を意味したのである。

    • 政治外交検証研究会メンバー/成蹊大学法学部准教授
    • 井上 正也
    • 井上 正也

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