タイプ
レポート
プロジェクト
日付
2012/5/30

日中政策勉強会レポート「第18回中国共産党大会の注目点について」

今年、中国では、これまで10年続いた胡錦濤・温家宝体制から、習近平・李克強体制へと指導体制が大きく代わる節目の年となる。この秋に行われる中国共産党第18回全国代表大会では、何が示されるか。胡錦濤政権の10年を振り返りつつ、党大会での注目点につき、高原明生 上席研究員からの報告をレポートする。(文責:大沼瑞穂)


1.人事

2002年の第16回党大会では、胡錦濤が総書記の座に就いたものの、江沢民が中央軍事委員会主席にとどまり、「重要事項については江沢民の指示を仰ぐ」ことが決定され、江沢民と胡錦濤が実質的なリーダーとして「二つの中央」ということが盛んに言われた。江沢民は胡錦濤に対して、これまで使われてきた「~を核心とする中央領導集団」という言い方を用いず、「胡錦濤同志を以って総書記とする党中央」という言い方をすることによって、胡錦濤の力を相対化しようとした。政治局常務委員会人事でも、共青団系は胡錦濤のみだったが、総理となった温家宝も非江沢民系の人物であった。非江沢民系には、他に呉官正と羅幹がいた。総書記と総理をとれなかった江沢民系は、しかし政治局常務委員会に呉邦国、賈慶林、曾慶紅、黄菊、李長春を入れた。全体に均衡人事がとられ、2003年のSARS事件でも、江沢民系、胡錦濤系の双方の首が切られた。

胡錦濤は2004年9月にようやく江沢民に引導を渡して中央軍事委員会主席の座に就いた。その後、2006年9月には、政治局委員で上海市党委員会書記であった江沢民派の陳良宇を汚職の廉で解任したところ、2007年の第17回党大会では、非胡錦濤・温家宝勢力が巻き返し、政治局常務委員会における胡錦濤系は李克強のみで、温家宝を除けば、残りは江沢民系・太子党となった(呉邦国、賈慶林、李長春、習近平、賀国強、周永康)。

今回、政治局常務委員会入りが噂されていた薄熙来が重慶市党委員会書記を解任され政治局委員の職務停止となった。第18回党大会を前に、様々な人脈がつながったり断ち切られたりして、権力闘争が繰り広げられている。

第18回党大会では、「~を核心とする」という文言は復活するのか。中央軍事委員会主席のポストに胡錦濤はとどまるのか。軍人の処遇、派閥勢力の分布、そして次、その次の指導者たちは誰か、などが注目点となる。

2.政策

2003年秋、胡錦濤は新たに「科学的発展観」を提示し、市・農村、地域間、経済・社会、人・自然、国内発展・対外開放の均衡発展の必要性を主張した。その後2004年には、「和諧社会の構築」を提唱し、マクロ・コントロールの強化を打ち出したものの、実際に地方ではコントロールが効いていない状況が続いた。外交面では、2003年末に「平和台頭」を提起したが、2004年以降、「平和発展」に言い換え、協調外交を目指し、2005年秋に和諧世界の建設を提唱した。しかし、1年間ほぼフォローされることなく、2006年8月の中央外事工作会議においてようやく認知されるに至った。

2008年以降は、様々な面で論争が激化し、それらが表面化した。例えば、政治改革については、温家宝は推進、呉邦国は否定的な姿勢を示し、普遍的価値について、胡錦濤・温家宝は、人権には普遍性があるとの立場を取ったのに対し、宣伝部や左派は普遍性などないと主張した。経済改革については、温家宝・発展改革委員会は、国有企業寡占体制の打破を掲げたのに対し、業界や左派は私有化の反対を唱えた。社会管理に関しては、胡錦濤は民意表出に寛容であり、利益調整を制度化しようという姿勢だが、政法委員会秘書長は「市民社会は西側の罠」と述べた文章を雑誌「求是」に掲載、といった具合である。共産党内でここまで意見対立が表面化することは珍しいと言える。

第18回党大会では、こうした論争の裁定がどのように行われ、胡錦濤の掲げる「科学的発展観」が党規約の中でどういった位置づけとなるか。また、習近平体制での新しい概念が提起されるのか。こうした点が注目される。

3.政治的立場の違い

中国共産党内の政治勢力は、大まかに言えば、左派、中間派、右派に分かれる。左派は改革及び開放に批判的な国粋主義者が多く、宣伝部門や学者などがその主体である。右派は、政治改革、人権の実現に前向きで老幹部、学者、弁護士、記者などに多い。胡錦濤、李克強は中間派で、均衡を重視し、人権の普遍性は認めるが暫時実現不能との考えの下、政治統制、和諧世界を掲げる。その主体は、共青団である。江沢民系や太子党は、成長を重視するが政治的には統制を掲げ、大国間協調を図りながら日々激化する総合国力競争への対応を強調する。ビジネス界や沿海地方に多い考え方だ。温家宝は均衡を重視するとともに、政治改革に対しても前向で、右派に近い中間派である。

重慶事件を振り返ると、薄熙来は、太子党で、商務相も経験しており、成長重視の政策をとってきた人物で、重慶でも外資導入に積極的に動いた。それとともに、貧者のための公営アパート建設などの政策を行い、「唱紅打黒」(革命歌を歌い、暴力団を打倒する)で住民市民の人気を博した。政治局常務委員会入りするための手段として、左派と連携したことで、権力闘争は左派との路線闘争へと発展した。また、薄氏は、地方の政策を中央に飲ませようという姿勢で、「胡錦濤同志はいずれ重慶視察に行く」と発言し、地方から中央へと影響を及ぼさんとしていた。中央と地方の対立も背景にあったと言えよう。