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アメリカNOW第28号  シカゴ政治におけるリベラル派復権の胎動とオバマ上院への道(渡辺将人)

October 31, 2008

民主党リベラル派が動き出した2000年代前半

2004年選挙サイクルでの上院選を前にして、シカゴ政治は新展開をみせようとしていた。遡ること2002年8月、ミシガン湖畔の避暑地で、後にシカゴでオバマ陣営を支えるリベラル派の関係者と過ごした筆者は、シカゴ政治の展開にある「異変」を痛感させられた。議題になったのは、イリノイ州の二つの上院議席をめぐる動きと、その底流にあったリベラル派復権への胎動である。睨んでいたのは2004年だった。同時多発テロからちょうど一年を迎えようというときであった。すでにシカゴ政治の首脳陣と民主党のリベラル派は、長期的な対共和党W・ブッシュ政権のビジョンを構築しようとして動き出していた。

第一目標は議会内でのリベラル派の結束。第二目標はグラスルーツを重視した選挙運動の育成。これらを総合的に推進してリベラル派の復権をはかる。これが当時の中期計画だった。成果は2004年のディーン支持ではあと一歩で花開かず、本格的成果は2008年のオバマ現象へと持ち越された。ちなみにこの時期、クリントン派とリベラル派のあいだに、2008年の予備選で顕在化したような溝はまだ生まれていなかった。

オバマ上院議員の前任者、フィッツジェラルド共和党上院議員

周知のように、アメリカの上院議員の議席は、人口に比例した選挙区割りになっている下院と異なり、一律各州に二つ割り当てられる。一票の重さの差は甚大であるが、各州平等の原則である。イリノイ州民主党上院議員はディック・ダービン。タバコ規制などで辣腕をふるって党内で頭角を現した。もう一議席は共和党のピーター・フィッツジェラルド上院議員だった。フィッツジェラルドはイリノイ政治の世界では様々な意味で「伝説」を残して一期6年だけで姿を消し、オバマに議席をバトンタッチした人物である。

フィッツジェラルドは、長期間民主党に牛耳られてきたイリノイ州の上院議席を、共和党としてまさに20年ぶり奪還した。1998年、現職の民主党を破った唯一の共和党上院候補だった。現職のキャロル・モズリー・ブラウンが、スキャンダルで弱体化していたとはいえ、これはイリノイ州で守勢に回っていた共和党を歓喜させた。ところがこのカトリックで社会保守的派の共和党員は、マケインにも負けない「マーベリック」だった。その独自路線は度を超えており、共和党執行部と度々衝突した。今でも話題になるのが、同時多発テロで財政的に赤字状態に陥った航空各社への補填問題である。超党派で全議員が賛成しているのに、フィッツジェラルドだけ納税者の血税は使わないと最後までたった一人反対の立場を貫いた。

その姿勢は共和党の愛国精神に反する過剰なまでの反政府的姿勢であり、国をあげての非常事態にも信念を変えようとしない頑固ぶりは、民主党のみならず身内の共和党内でもまったく理解されなかった。一期目にして党内での孤立傾向が著しく、州内の共和党基盤も育たず、フィッツジェラルドの二期目は危ういと目されるようになった。フィッツジェラルド上院議員は、当選一年目の新人議員ということもあり、事務所内の専門分野には偏りがあり、外交分野が手薄だった。議員本人も独立色の強い変わり者。事務所内はその影響で、30過ぎの「ベテラン」のインターンやフェローが、正規の立法補佐官の代わりに立法を務めるという部門もあった。

上院イリノイ州の民主党二席目は「マイノリティ」議席

民主党イリノイ州としては、2004年はこのフィッツジェラルドから議席を奪還する千載一遇のチャンスだった。確実に勝てる候補でなければいけなかった。シナリオはいくつかあった。前提として忘れてはいけないのは、イリノイ州の議席のうち民主党が二席目も確保するときは、二席目は「マイノリティ」席として認識されていたことだ。多様なエスニック集団で溢れるシカゴを抱えるイリノイ州としては、一席目が白人男性のダービン上院議員であれば、もう一人も白人男性上院議員では具合が悪い。この単純な事情がまずあった。

元々、初の黒人女性上院議員キャロル・モズリー・ブラウンを生みだした選挙区である。このイリノイ州の上院議員「ジュニア議席」をマイノリティ席にしようとする、シカゴのマイノリティ集団の圧力は大きかった。州の党幹部は、マイノリティの候補で地盤のある人物にあたりをつけて担ぐ方針だった。

まず「女性」が検討された。第9選挙区のシャコウスキー下院議員はシカゴの大物支援者たちに、上院議員の席を打診されていたが、専門分野に集中できる上に地元とのつながりも深い下院は「アドボカシー色」の強い自由な政治活動には魅力だった。下院議員に当たりが定まらないなか、そこにいた「新星」がオバマ州議会議員だった。ラッシュに敗退したオバマは、下院再出馬は絶望的だった。デイリー家体制のシカゴでは市長も難しい。州議会の先を目指すとすれば、連邦下院をバイパスして連邦上院に打って出るしかなかったオバマと、州の民主党幹部の利害は一致した。

シカゴ民主党のオバマへの「基礎票」供給

票田と資金の双方で、オバマはシカゴの各所から支援を受けた。前出のシャコウスキーは州議会の後輩であるオバマの潜在力を評価し、みずからの上院のチャンスをオバマに譲り、全面支援する姿勢を見せた。さらに、シカゴ黒人社会のキーパーソンであるジェシー・ジャクソン師の息子、ジャクソン二世がオバマ支持にまわった。資金目ではシカゴの資産家ペニー・プリッツカーズによる資金提供が実現した。プリッツカーズは、面会でのオバマの印象を「経験はないが自分に自信がある人物だ」と評価している。

シカゴ北部のリベラル票をとりまとめるシャコウスキーと、シカゴ南部で黒人票をとりまとめるジャクソンが支持に回ったことで、オバマはシカゴ民主党政治の二つのコアな票田であるリベラルと黒人をなかば自動的に手中におさめた。オバマはこのことで後々まで両者に感謝することとなる。二人の支援がなければ、シカゴのベースボート(基礎票)の地盤は一朝一夕には固まらなかった。折しも、ラッシュとの争いで黒人社会のなかで孤立していた不遇の時代である。

シカゴ北部は郊外のエヴァンストン、スコーキーを中心に、ユダヤ系やアイルランド系の「新郊外」層が基盤である。中産階級であるが、エスニック的には非ワスプも多く、文化的伝統からして民主党に投票するリベラル層である。また、シカゴの黒人は約75%が民主党支持であり、黒人抜きでの予備選勝利は絶望的である。オバマはそれまでの二度の失敗から、黒人政治への関わり方を学んだ。ジャクソンの支援は、それを認められたというサインだった。

黒人アウトリーチへの目覚め

上院選を意識してから、オバマは黒人だけの聴衆に語りかけるとき、黒人以外の聴衆に語りかけるときとは違う、黒人仕様のメッセージ加工するようになった。オバマは黒人に対しては、常にキリスト教信仰を語り、みずからがシカゴ南部のトリニティ教会に属していることを強調した。肌の色が黒いだけでは自動的に仲間として認めてもらえない。黒人のアメリカでの苦悩の歴史と文化を尊重した「黒人アウトリーチ」が選挙には必要であることを学んだのである。黒人候補者が行う黒人票対策である。

また、黒人政治家として成長したもう一つの背景に夫人のミシェルがいる。「シカゴ南部の黒人女性を妻に選んだオバマをシカゴの黒人として認めたいと考えるようになった」と述べるコミュニティの関係者は少なくない。オバマはコミュニティの黒人との距離感を、ミシェルと二人三脚で縮めた。ミシェルは地元シカゴのテレビに出演しては「バラクは黒人の男性です」と叫んでまわった。

ハーヴァード・ロースクール卒、シカゴ大学講師のオバマと、コミュニティ・オルガナイザーのオバマのあいだに、複雑な葛藤があったのも事実だ。「怒りやフラストレーションは、黒人社会のなかで生きることの問題でもある。プリンストンやハーヴァードというのは人を変えるし、英語も変える」とミシェルは述べている。それは「自分のコミュニティで生きて行くために、知性を覆い隠さねばならないフラストレーション」でもあった。オバマの知性とアメリカの黒人街での居住経験の薄さがけっして恥ずべきものではなく、むしろ黒人社会に貢献するリーダーの資質であることをオバマもミシェルも知っていた。黒人社会の末端と同じ目線で付き合うことにつきまとう誤解や苦悩をミシェルがいちばん理解し、対外的に代弁してまわった。

2004年ボストン民主党大会

オバマにとって、緒戦の難問はキャロル・モズリー・ブラウン元上院議員だった。1999年にスキャンダルで失脚したブラウンは2004年に照準をあわせて上院再出馬を考えていた。シカゴ黒人政治界ですでに失態をおかしているオバマにとって、シカゴ黒人社会で上院議員にまでのぼりつめたブラウンを相手に戦うことは、二度目のラッシュ事件に直面する可能性をはらんでいた。

オバマ陣営の選挙ストラテジストであるデイヴィッド・アクセルロッドは「オバマがブラウンのテリトリーに入り込んでしまったのは間違いない。ブラウンはオバマの上院選出馬をあきらかに好ましいと思っていなかった」と述べている。結果としてブラウンは、同年に行われた大統領選挙に目移りした。オバマとアクセルロードは胸を撫で下ろした。しかし、ブラウンが気まぐれをおこし、もし上院再出馬にこだわっていたら、あるいはオバマが狙っていた上院選が大統領選挙と同年でなかったら、ブラウンとの直接対決は避けられなかった。そうなれば、オバマ上院議員の誕生は実現していない。黒人票が確実に割れ、他の候補を利したからだ。

オバマは予備選で無事に、シカゴの政治リーダーたちから分け与えられた基礎票を守り抜いた。オバマはシカゴ政治のなかでの偶然と幸運に恵まれ、こんにちの地位を手にしたといえる。上院選本選を前に、2004年夏のボストンでの民主党大会に向け、民主党シカゴ政治のコアメンバーはこの新しい若い政治家を「シカゴのオバマ」から「民主党のオバマ」に脱皮させる秘策に着眼する。党大会での基調演説での売り込みだ。オバマのスピーチ能力はすでに実証済みだった。党幹部もオバマのスピーチが、民主党とジョン・ケリーの鼓舞に役立つと考えた。

ダービン上院議員に付き添われ、紹介を受けた一介のイリノイ州議会議員は、アメリカ全土を魅了するスピーチを見せつけた。関係者はそれを「オーバーナイト・セレブリティ」と呼んだ。アフリカ研究書としてひっそりと売られていた『マイ・ドリーム』は、8万5千部が即時に増刷され、あっというまにベストセラーになった。

政治家としての「公のオバマ」は、ハワイともインドネシアとも無関係である。まさにシカゴから生み出された存在であり、シカゴの同僚議員や地元のコミュニティの実力者に、現在の地位のほとんどすべてを負っている。オバマはボストンでのスピーチのあとに州関係者にこう述べている。「スピーチはどうにか成功しましたが、ボストンで話せたのは皆さんのお陰です。イリノイ州の票があったからです。皆さんは、違う街から来たことも、肌の色のことも気にしませんでした」。

オバマはイリノイ州に受け入れてもらえたことに感謝したのだ。その意味では、オバマは2004年の党大会で「民主党のオバマ」になったと同時に、実は、はれて「真のシカゴのオバマ」になったともいえる。下院選落選や黒人社会との不和の連続で、オバマのさらなる政治的挑戦に否定的にもなっていたミシェルは、実は上院選出馬に当初は反対していた。しかし、オバマにとって「これで最後」と決めたギャンブルは大当たりを出した。

バラク・オバマ上院議員

上院議員オバマは、民主党の幹部たちの支援をじつに多く受けた。議会スタッフには、トム・ダッシェル元上院院内総務の落選で、職を失ったダッシェルのスタッフを多数受け入れた。ダッシェルは、W・ブッシュ大統領顧問のカール・ローブの集中的なネガティブキャンペーンを浴びてサウスダコタの議席を失った。院内総務の落選に、民主党はケリーの大統領落選以上にショックを受けた。そのショックが新人オバマ育成へのエネルギーにもなった。

ダッシェルはオバマ育成を志す。側近ピーター・ローズをオバマの上院での頭脳に送りこんだ。オバマ事務所の陣容は早期に軌道に乗る。右も左もわからない一年生議員の事務所は、スタート時点からスタッフの層だけは院内総務事務所級になった。前任者でやはり新人議員だったフィッツジェラルドの事務所とは雲泥の差であった。ダッシェルがオバマ当選と同時に落選してなければ、ダッシェルの落選で失業した優秀なダッシェル事務所の複数のスタッフの「スライド移植」という恩恵は受けられていない。皮肉にも、ここにもオバマの強運が見え隠れする。

クリントン大統領のかつての側近でイリノイ州下院議員のラム・エマニュエルの親身の助言で、オバマは家族をあえてハイドパークに残し、火曜日から木曜日まで首都ワシントンに単身赴任となった。ミシェルはシカゴ大学病院の勤務を続けた。シカゴ政治から離れ、ワシントンに一家で浸かりきってしまえば、フレッシュな存在であるオバマの真価が薄れることをエマニュエルはよく知っていた。

オバマはシカゴで手塩にかけて大切に育てられた若手である。単独でワシントンに乗り込んで新しい議会人脈だけで勢力が拡大できるような闘争派でもなければ、よく対比されるケネディのような政治家一族の毛並みが独自にあるわけでもない。故郷のハワイには政治基盤はない。シカゴとしっかりつながって政治的な支援を有形無形に受け続けることが、オバマの政治力の源泉である。

オバマは常にシカゴの有力者や支持層との密接さを大切にする議会活動を心がけたし、その姿勢は州議会議員時代と基本的に変わりないものだった。シカゴ大学を退職し地元を離れた以上、ミシェルがシカゴ地盤との生命線だった。ミシェルはシカゴ大学病院の仕事を通じて、また上院議員夫人として地域社会とパイプ役に専心した。「ミシェルは大学と地元の顔だ」とシカゴ大学関係者は語る。

反戦とオバマとシカゴ

改めて、オバマの政治家としての胎動を振返れば、「オバマ現象」を初動でつくったのはリベラル派、それもシカゴのリベラル派だった。いいかえれば、1990年代のクリントン政権を通じて、党内でもアメリカの政治シーンでも周辺的存在を余儀なくされてきた民主党リベラル派が、国をまとめる「物語つくり」に主流として参画できるチャンスであった。オバマは、イラク戦争に早期から明確に反対の姿勢を示した。トータルとしては穏健で政策判断も慎重な性格のオバマのもとに、リベラル派が結集した最大の要因だ。

2002年の10月に大規模な反戦デモがシカゴで行われた。サンフランシスコなど全国のリベラルな都市で、数千人規模で開催されていたシカゴ版だ。シカゴでは中心部のフェデラル・プラザで集会が開かれた。オバマも反戦スピーチをした。これによってオバマはシカゴのリベラル派政治家たちに「信任」を受けた。これが大統領選挙へのエンジンとなる。

当時のシカゴ・リベラル派の活動家による反戦運動は過激さを増していた。ダウンタウンの高架鉄道のループ地域周辺をデモが占拠し、ミシガン湖畔の高速道路レイクショアドライブにまで人が溢れ出し、道路を封鎖してしまうという事件にも発展した。

かつて1968年にシカゴで開催された民主党大会で、逮捕者数589人を出した暴動を小規模ながら彷彿とさせたのはいうまでもない。1968年の暴動はジョンソン政権のヴェトナム政策に反対するものだった。シカゴ人にとってこのイラク反戦デモは、かつての党大会暴動のデジャブ感をともなった。アメリカのイラク戦争反対運動は、60年代のヴェトナム反戦世代(ベビームーマー世代)と、現在の学生(ミレニアム世代)の共闘で展開され、イラク反戦が「世代間をつなぐ接着剤」の役目をはたした。

これが、2008年選挙で、クリントン時代の民主党内では亜流のようにみられたリベラル派が、党内で復権を果たしつつあった背景にある。シカゴでは、オバマがこの世代間接着の「触媒役」になった。1968年の暴動のトラウマにさいなまされていたヴェトナム世代にとっても、現在の若年層にとっても、「反戦」をキーワードに一つに束ねた功績が、ペローシら民主党執行部のリベラル派にも注目された。

州議会議員としての立場、上院議員しての立場

もちろん、オバマのイラク反戦の姿勢をめぐっては、複雑な事情も絡んでいる。イラク戦争開戦時にオバマはまだイリノイ州議会議員であり、国家安全保障に責任を持つ立場にはいなかったのは事実だ。既に上院議員としてテロ対策や安全保障に責任をもつ連邦議員だった、ヒラリーやエドワーズとはこの点でたしかに事情は違う。

当時まだ地方議員だったオバマの戦争をめぐる態度表明は同列に論じられないかもしれない。オバマのように自己の信念をそのまま自由に表明できる立場は、イラク反戦がキーワードとなる2008年の民主党候補争奪に向けて、結果として有利にはたらいたことになる。もし、オバマがイラク戦争に判断を公につけなければならないとき、既に上院議員になっていたら、同じような反戦姿勢を鮮烈に示せたかはわからないと揶揄する向きもある。

たしかに、オバマは上院議員一期目には、穏健姿勢に務め、イラク政策遂行の予算には賛同を示していたし、党内でブッシュとチェイニーの弾劾を訴えていたリベラル派ほどには、イラク政策でブッシュ批判を繰り返すような真似はしなかった。オバマは「私たちは、部分的にはブッシュの行為の帰結として、しかしより本質的には認められるべきではなかったイラク戦争によって、より危険な状態にさらされている」として、ブッシュへの個人攻撃を避けた。

また「アフガニスタンでアルカイダに対処することに力を入れられなくなった」として、対テロそのものには意欲を示している点で、武力行使絶対反対のリベラル派とも歩調にずれがある。国家安全保障に責任をもつ立場になったからである。心情的にはシカゴの反戦運動の魂は消えていないが、現実的には上院議員当選後、安全保障を視野に入れた判断をするようになった。

初動で自由な発言をする立場にいられたこと、その後は安全保障にも目配りする穏健な立場を示す上院議員になったこと、すべてのタイミングとプロセスが、2008年に大統領を狙うオバマに有利に展開した。しかし、イラク戦争に初動で態度表明をしたときに、どのような立場と責任にいたかという議論はあまりに些細かもしれない。リベラル派が反戦を媒介にオバマに「望み」を託し、大きな「現象」を選挙でつくりだそうとしたことに意義があったからだ。

リベラル派は、死刑制度、アフガニスタンへの対テロ作戦の手法などいくつかの争点でオバマとも路線を異にしている。それでも選挙直前の現在、彼らは自らのベース票に対して、自らの選挙区で、またオバマ選対とともにキャラバンで激戦州をまわり、「ネーダー路線は現実的ではなかった。しかし、幻滅してはならない。棄権してはいけない。民主党は結束しなければならない」と訴えて回っている。党内のリベラル基盤が、自らを上院に送り込む土台を育ててくれた母体である複雑な事情をシカゴに抱える「オバマ政治」。本当の勝負は無事当選してからの党内の舵取りであることを考える余裕は、当然今はまだない。

以上
■ 渡辺将人: 東京財団現代アメリカ研究プロジェクトメンバー、米ジョージワシントン大学客員研究員

    • 北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院准教授
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