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アメリカ大統領選挙UPDATE 8:「有権者ID法は選挙結果に影響を与えるか?」(西川 賢)

October 30, 2012

「チャド」(Chad)という言葉を覚えているだろうか。

「チャド」とは2000年の大統領選挙で話題になった、「投票用紙にパンチ式投票機で穴を開けたときに出る紙くず」のことである。本来であれば誰もが知ることもなかったであろうこの英単語、ゴアとブッシュの間で歴史的接戦となった2000年の大統領選挙において期せずして世界中の人がこの「チャド」という言葉の意味を知ることになった。というのも、このパンチ式投票機を採用しているフロリダ州で投票用紙の表面が凹んでいるだけでチャドが抜け切らず、穴のあいていない票などが多く存在しており、これが大統領選挙の結果を左右する可能性が出てきたためである。

たった一つの州の動向が選挙全体の結果をも左右してしまいかねない――2000年選挙においてフロリダ州の投票方法というローカルな話題に全世界が注目したのも無理からぬことである。今回の選挙でも、ひょっとすると一つの州の選挙結果が全体の結果を左右するような状況が生じないとは限らない。ここで筆者が特に注目しているのは「不正投票」(Voting Fraud)に関連する、ある州法の存在である。

過去、アメリカの大統領選挙においてはほぼ例外なく不正投票が問題とされてきた。今回の選挙では、ここまであまりこの点は注目を浴びていないように思われるが、これも大統領選挙の結果に影響を与える重要な要因の一つである。2008年の大統領選挙においても、ACORNというコミュニティ・オーガニゼーションがオバマのグラスルーツ・レベルでの支持調達を支える政治的インフラストラクチャーとして重要な役割を果たした(そして、しばしば不正な形での有権者登録誘導・集票活動に従事したという疑惑も持たれた)ことは記憶に新しい *1

20世紀初期のアメリカでは実に様々な投票上の不正が行われていた。一例を挙げると、1920年代のペンシルヴェニア州では架空の人物や死人、或いは転居者・意識不明の病人が投票している、一人の有権者が複数回投票している、選挙当日に投票所に行っていないはずの有権者、その選挙区に住んでいないはずの有権者が投票しているなどの不正投票が横行していた *2 。19世紀の末以降、南部諸州で採用されていた人頭税納入や識字試験のよる黒人投票権の実質的剥奪も広義の選挙不正の一種であり、まさに20世紀前半までのアメリカの選挙史は不正の歴史といっても過言ではない。

2012年の大統領選挙で注目を浴びているのは「有権者ID法」(Voter ID Law)と呼ばれる州法の存在である *3 。有権者ID法とは二重投票や第三者によるなりすまし投票、いわば如上の不正投票を防ぐために、投票の際に身分証明書の提示による有権者への本人確認を求めることを要求する州法の総称である。2001年から全米46州で1000を超える有権者ID法が提案され、その後2003年から2012年までの間に全米23州で同法が制定ないし強化されている。

特にカンザス、インディアナ、ジョージア、テネシーの各州では公的機関発行の写真付き身分証明書、所謂「厳格な写真付きIDの提示」(Strict Photo ID)を義務付けている。これらの州では選挙当日に写真付きIDを提示できない有権者の票は暫定票として扱われ、所定の期日内にIDを提示できなければ正規票としてカウントされることがなくなり、無効票化してしまう。これに対して、ニュー・ハンプシャー、フロリダ、ルイジアナ、ミシガン、サウス・ダコタ、アイダホといった州では写真付きIDの提示が求められているが、写真付きIDがない場合でも有権者は供述書(Affidavit)に署名するなどの方法で正規投票も可能である(Non-Strict Photo ID)。

しかし、ここで有効なIDを所持していない有権者が各州に少なからず存在しているらしいことが問題視されている。例えば、ニューヨーク大学ロースクールにあるブレナン・センター・フォー・ジャスティスの調査によれば、有権者の11%近くは有効なIDを持っておらず、特に高齢者や有色人種(黒人有権者の25%は有効なIDを持っていないともいわれる)、身体障害者、低所得者層、若年層(テキサスやサウス・カロライナなどでは学生証が有効なIDとみなされない)でID所持率が低いという結果がでている。これらの人々がIDを持っていない理由は様々であるが、IDを取るのに別種の証明書(出生証明など)が必要である、あるいはID取得に必要な経費が払えないなどの理由が大きいようである *4

ちなみに、10月11日付で公表されたピュー・リサーチ・センターの調査によれば、77%の有権者は有権者ID法を支持している。この数値だけを見ると、有権者ID法は不正投票を防止するための方途として肯定的に受け止められているように思われる。ただし、このうち共和党員の同法支持者が95%(不支持5%)、民主党員で61%(34%)と支持・不支持の差が党派の軸に沿って二分されていることは注目に値しよう *5

それもそのはずで、同法を制定・強化した23州のうち17州までが共和党知事・共和党議会多数の州なのである。ペンシルヴェニア州で有権者ID法が議会を通過した際にペンシルヴァニア州下院議員で共和党の院内リーダーでもあるマイク・ターザイが「これでロムニーがペンシルヴェニアで11月に勝利することは確実になった」という発言をしたことは、同法の党派性を象徴する出来事ともいえる *6 。実際、草の根レベルで同法の制定・強化を唱導してきたのは共和党系の団体である。代表的な団体として、例えば「有権者の真実」(True the Vote)という投票不正監視団体の活動が知られている。同団体はテキサス州ヒューストンのティー・パーティー系草の根団体である「キング・ストリート・パトリオッツ」(King Street Patriots)の創設者キャサリン・エンゲルブレクト(Catherine Engelbrecht)が代表を務めており、ID法の制定・強化を非常に熱心に主張している *7

これに対して、民主党は有権者ID法が潜在的な民主党支持層、特に人種マイノリティや若年層の選挙参加を実質的に制限するためのものだとして反発を強めてきた。例えば、2011年の8月にはジョン・ルイス下院議員(D-GA)がニューヨーク・タイムズのOP-ED欄に寄稿した「新たなる人頭税」("A Poll Tax by Another Name”)は注目を集めたし、キース・エリソン下院議員は投票の際に身分証明書の提示を求めることを要求することを禁じる法案を提案した。2012年に入ってからも、エリック・ホルダー司法長官がNAACPの集会で同法を「人頭税だ」と避難する発言をしたことは象徴的である *8

1964年投票権法の規定により、かつて公民権を不当に剥奪した歴史を有する州は選挙法改正に際して司法省から認可を得なければならないことが定められている(事前認可;Preclearance)。この規定に従って、2012年8月には連邦司法省はヴァージニア州の新ID法を審査し、問題なしとの判断を下した *9 。同様に、連邦司法省は9月4日にニュー・ハンプシャーの新ID法にも事前認可を与えている *10 。これにより、両州のID法は2012年の大統領選挙においても運用される運びになった。これに対して、ペンシルヴェニア州では州最高裁の判断により、2012年選挙での新ID法の実施は見送られることが決定した *11

ヴァージニア、ニュー・ハンプシャー、そしてペンシルヴェニアはいずれもオバマとロムニーの勢力が拮抗している州に数えられているが、仮に2000年選挙のような大接戦になった場合、これらの州での新ID法実施の有無が選挙結果に作用する可能性があるかもしれない。大統領選挙を分析するにあたっては、どうしても支持率や雇用統計など数値の変化に目を奪われがちであるが、こうした数値に出ない要素にも目を配っておきたいものである。



*1 :西川賢「政治的インフラストラクチャーとしてのコミュニティ・オーガニゼーション‐ACORNを事例として」久保文明編『アメリカ政治を支えるもの-政治的インフラストラクチャーの研究』(財団法人日本国際問題研究所、2010年)、203‐223頁.
*2 :西川賢『ニューディール期民主党の変容‐政党組織・集票構造・利益誘導‐』(慶應義塾大学出版会、2008年)を参照。
*3 : http://www.ncsl.org/legislatures-elections/elections/voter-id.aspx
*4 : http://www.brennancenter.org/content/section/category/voter_id/
*5 : http://www.people-press.org/2012/10/11/broad-support-for-photo-id-voting-requirements/
*6 : http://www.politico.com/news/stories/0612/77811.html
*7 : http://www.truethevote.org/news/new-hampshire-shows-how-easy-vote-fraud-can-be
*8 :http://abcnews.go.com/blogs/politics/2012/07/eric-holder-dubs-texas-voter-id-law-a-poll-taxes
*9 : http://www.huffingtonpost.com/2012/08/21/virginia-voter-id-approved_n_1818916.html
*10 : http://www.politico.com/blogs/burns-haberman/2012/09/justice-dept-clears-new-hampshire-voter-id-law-134499.html
*11 : http://www.nytimes.com/2012/10/03/us/pennsylvania-judge-delays-implementation-of-voter-id-law.html

    • 津田塾大学学芸学部教授
    • 西川 賢
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