タイプ
その他
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日付
2017/4/11

【書評】沈志華著・朱建栄訳『最後の「天朝」~毛沢東・金日成時代の中国と北朝鮮~』 (上下、岩波書店、2016年)

評者:川島真(東京大学大学院総合文化研究科教授)

本書刊行の意義

 本書は、これまでタブーとされてきた朝鮮戦争をはじめとする中華人民共和国、ソ連、北朝鮮間の関係史を実証的に解明した著作であり、中国で語られてきた毛沢東の対北朝鮮政策に関する政治的なスローガンやプロパガンダに対して、「歴史実証」によって新たな歴史的地平を拓こうとする。社会主義陣営の内側に関わる実証研究であることから、東アジアの冷戦史研究を大きく進めると思われる点も本書の意義だ。

 「血の同盟」といわれる中朝関係が果たして朝鮮戦争などを通じていかに描かれたのか、その実態はどのようなものだったのか。この根本的な点に迫る書籍は、当然中国での刊行が難しく、まず日本語で刊行された[1]。この点を評者は高く評価したい。また、『毛沢東の朝鮮戦争』(岩波書店、1991年)の著者である朱建栄氏がこの著作の訳者となったことも重要だ。その時代背景、事実関係についての理解力が高い訳者の存在があってこそ、本書の刊行が実現したものと思われる。その朱建栄氏は、本書の原稿を一読して、このテーマの研究について「戦意喪失」(下269頁下段)したという。それだけ、本書の内容は興味ふかいということでもある。

 

著者の背景と出版の経緯

 本書の著者である沈志華教授は中国の上海にある華東師範大学にて教鞭をとる研究者で、中国の代表的な冷戦史研究者として知られる。財界人から学者に転じ、巨額の経費でソ連の文書を購入し、それを利用しながら新たな冷戦史研究のハブを中国で形成した。アメリカのウィルソンセンターなどと共同研究をおこない、世界の冷戦史研究とも連携したことで知られる。

 これまで、沈教授は『毛澤東、斯大林與韓戰』(香港天地図書有限公司、1998年、簡体字版は『毛沢東、斯大林与朝鮮戦争』として広東人民出版社、2003年)や、『朝鮮戰爭―俄國檔案館的解密文件』(台湾中央研究院近代史研究所、2003年)などを刊行してきた。その中国社会におけるスタンスは、沈教授が『炎黄春秋』と関わりをもったことからもわかるように、改革派としての傾向を持つ。中国では、体制内から学術を変えていく動きもある。

 著者は本書執筆の動機を次のように述べる。「2009年、中国政府の関係部門の人が私を訪ねてきて、朝鮮戦争以来の中朝関係の歴史についてきちんと整理し、中国と朝鮮の間は一体どのような関係だったのかをはっきりさせてほしいと要請した。これで自分は、中朝関係の歴史の真相究明は、学術的問題、歴史研究の課題に留まらず、さらに現実的な政治課題であることを意識した」(下265頁上下段)。そして、「筆者は現代の中朝関係に関する全史を執筆し、学術研究の角度から歴史のプロセスを丁寧に再検証しようと決心した」(下266頁上段)という。

 政府がこのような依頼をしたのには理由があろう。それは中朝関係が中国においては特別に扱われ、またその状況が国民を苛立たせている状況の中で、「歴史認識」が現在の対北朝鮮政策を拘束しているように感じられたからである。この点、訳者はこう述べる。「中国が北朝鮮に内心の不満をいっぱい抱えながらも、最後の決断を阻害する様々な要因と問題は現実的にまだ存在し、それが韓国を怒らせ、世界をイライラさせている。著者はその点を十分に理解している。完全な形で日本語版を優先的に出版させることに著者が積極的に協力したのは、火種が突然消えることなく、この研究成果にともかく早く日の目を見させ、本書が提起した諸問題に関する議論を大きくしたい、との考えを込めたからではないかと推察される」(下271頁上段)。

 なお、本書の議論の下地となっている史料については、政府からの依頼である以上、中国共産党檔案や政府檔案を保存、公開している中央檔案館を利用できたはずであるが、著者はもともと収集していたロシア語文書も用いたのだろう。そして、特に重要なのは、著者が北朝鮮からの亡命者などにインタビューをおこない、オーラルヒストリーを利用していることである。

 

課題設定

 著者は、本書の課題を以下のように設定している。「冷戦期における中朝関係の歴史については、未だに一連の解明されていない謎が残っており、多くの現象に関しても合理的な解釈が待たれている。…一連の問題について、一歩進んでその回答を求めようとしている」(上7頁上下段)。ここで著者が述べる合理的な解釈というのは、論理的にというよりも、むしろ歴史学的実証のことを指していると思われる。別の箇所で著者は次のように「本書の狙い」を説明している。「中国の研究者たちがまず着手しなければならないのは、人々の頭からあるステレオタイプの考えを排除し、第一次資料の発掘と整理に着手し、人々の考え方ないし外交的選択肢まで束縛した中朝関係の歴史に関する神話を解体し、厳密で堅実で検証に耐えられる歴史事実を積み重ねる上で、中朝関係の歴史に関する真実のストーリーを再構築することだ。これこそ本書の狙いである」(上9頁上下段)。

 そして、本書が進める作業については、「本書の主要任務はまず、言い尽くせない苦労をかけて集めたこれらの大量の史料に対し選別と考証を行い、そしてそれをベースに、中朝両共産党の樹立から中国が改革開放政策をとるまでの歴史段階(主に冷戦期)における中朝両党および両国関係が発展した大きな流れを整理することである」(上14頁上段)としている。きわめて正攻法から実証研究を試みようとしていることがわかるだろう。

 

なぜ天朝なのか[2]

 だが、朝鮮戦争に際しての中朝関係を扱うのに際して、なぜ著者は「天朝」という清朝が用いた自称を持ち出したのだろうか。著者はこの点についてこう述べる。「中国の指導者(特に毛沢東本人)の中朝関係を捉える出発点は、表面上では世界革命の理念であるように見えるが、その中核的部分は伝統的な中央王朝の観念だった。すなわち朝鮮を含む周辺諸国(特に東アジア)を同じ陣営内の、もしくは同じ陣営に引き込むことが将来的に可能な、指導される側と見なし、革命的な『天朝』を構築しようとしたのである。それに対し、金日成が一生をかけた奮闘の目標は朝鮮の独立的地位と個人(および家族)の独裁的支配の確立だった。外交理念に関して言えば、中朝の間には潜在的矛盾があり、それが時々発酵して表面化した」(上16頁上下段)。つまり、著者は毛沢東もまた19世紀後半のような天朝的な観点を持ち、それが革命的な思想という表象を伴っていたに過ぎず、朝鮮もまたそれに対して独立を勝ち取りながら、独裁を維持しようとした、というのである。

 だが、著者はこの毛沢東の目論見は失敗したとみている。「毛沢東が夢見た『天朝』はついに最後まで樹立することができなかった。もっと深いレベルで見れば、中朝関係の問題の核心は歴史上の中ソ関係と同様、社会主義陣営内部の国家間関係の構造的欠陥にあり、現代の国家同士のような正常な関係ではなく、国際共産主義運動における党と党の関係、イデオロギーの原則が人為的に基盤として敷かれたところにある」(上16頁下段〜17頁上段)、と著者は指摘している。

 

本書の構成と内容

 本書の構成は以下のようになっているが、自ら「頭が重く足元が軽い」(下266頁上下段)、あるいは「前史の部分をとても割愛できない」と述べているように前段がきわめて重いのに対して、最後の七章などは軽めに扱われいる。そうした意味では必ずしもバランスがとれているわけではない。

 プロローグ 歴史に真実を返す

 序章  中朝共産主義者の関係前史 1920年代から1945年まで

 第一章 即かず離れず 新中国の建国に至るまで(1945—1949年)

 第二章 朝鮮戦争 朝鮮問題をめぐる主導権の移転(1949—1953年)

 第三章 「チュチェ」の提唱 金日成の粛清と毛沢東の反発(1953—1956年)

 第四章 懐柔政策 毛沢東、金日成を全力で支持(1956—1960年)

 第五章 中ソ分裂 「恒久的」同盟条約の調印と住民の大挙越境(1960—1961年)

 第六章 漁夫の利 長白山の「割譲」と蟻地獄の経済援助(1962—1965年)

 第七章 同床異夢 「文化大革命」の試練(1966—1976年)

 エピローグ 「改革開放」と中朝関係の仕切り直し

 結び 中朝関係の歴史的位置付け

 以下、著者が提示した時代区分に即して簡単に内容を紹介したい。

 第一期(第一章):「即かず離れず」(1945年から1949年)では、内戦期間、中国東北部では朝鮮の革命家が中国共産党を支援しており、そしてそれがソ連の対中政策を示していたとする。朝鮮労働党の方が、中国共産党よりもソ連に近かったのである。そして、中華人民共和国が建国されると、中国は向ソ一辺倒となったが、一方北朝鮮はソ連の衛星国になった。もともと、中朝関係は「唇と歯の関係」などとされるが、そこに「兄弟」という要素が加えられたのだった。朝鮮戦争開始以前のソ朝関係について著者はこう指摘する。 「スターリンも毛沢東にアジア革命を指導する責任を任せたが、朝鮮は例外扱いされた。ソ連の極東における安全保障の玄関として、スターリンはそれまで通り、朝鮮を自分の手中にしっかりと掌握する必要があり、…朝鮮戦争の勃発、特に中国人民義勇軍が朝鮮戦争に参戦した後になって、情勢は初めて一変した」(上139頁上段)。また、中朝関係についてもスターリンの影響が圧倒的に大きかった。「金日成は問題処理が極めて慎重で、設けられたタブーを絶対に破らなかった。中国共産党との関係を処理するにあたっては、なおさらそうであった。金日成の権力掌握から朝鮮戦争の勃発まで、中国と朝鮮の間の全ての問題の決定権は実際に完全にスターリンの手に握られていた」(上136頁上下段)というのが、著者の見方であった。

 第二期(第二章、第三章、第四章):表の友好と裏の緊張(1950年から1958年)では、朝鮮戦争という大きな転換点が扱われる。著者は、中国が「朝鮮戦争参戦により、一挙に朝鮮半島問題に対する発言権を勝ち取った」(下255頁下段)としている。だが、この発言権は中国が企図したものであったというより、結果論であったと著者はいう。「中国の朝鮮出兵はまた毛沢東に、計算外の結果をもたらしたのかもしれない。それはすなわち、北朝鮮と関連する問題をめぐって、中国が次第に発言権と主導権を取得したことだった。少なくとも客観的に見ればそうだった」(上181頁下段)。他方、朝鮮戦争の過程で、中朝間の対立は深刻になっていった。そうした対立に対して、ソ連は「例外なしに毛沢東側に立った」(下256頁上段)ものの、次第に北朝鮮に対して中国が優位に立っていったという。このことは、「血の同盟」などといいながらも、北朝鮮側の「心理に深い影が落とされた」のであり、「両国指導者と両国の関係における深い友情に凝結させることができなかった」(同上)。金日成は「我慢に我慢を重ねて従わざるをえなかった」(上213頁上段)のであった。だが、毛沢東は朝鮮戦争の過程で得た朝鮮に対する優位性を維持するために、朝鮮への経済援助を戦争後も継続した。金日成は、毛沢東に感謝する姿勢を示しながらも、次第に独裁体制を築いていき、パルチザン派を中心にして、延安派も、ソ連派も排除した。著者は、「朝鮮は確かに中国よりソ連にもっと近く、ソ連を頼りに中国の影響を打ち消そうとも狙っていた。そのため、毛沢東は、朝鮮問題を解決し、中朝関係を改善するには、ソ連の協力を取り付けなければならないと考えた。…しかし、毛沢東の目論見は外れた」(上284頁上段)と指摘する。他方、1950年代半ば、中国共産党の社会主義陣営全体での力が向上していくと、1957年末から毛沢東は朝鮮政策を転換して緩和政策を採った。毛沢東が朝鮮の国内政策を支持すると金日成もまた毛沢東に歩み寄った。毛沢東もこの機会を利用して、社会主義陣営の新たなリーダーとしての姿を演出すべく、北朝鮮に残っていた義勇軍を完全に撤収させた。この時期の中朝は「大躍進」と「千里馬」という国内政策の面でも共鳴していた。また、1957年夏に訪れた反右派闘争により、粛清が中国ではじまると、期せずして北朝鮮でも金日成の独裁体制形成に向けて党内粛正や反革命分子摘発運動が生じたのだった。1958年11月22日、金日成が四年ぶりに中国を訪問したが、「雰囲気はまるで変わっていた」(下51頁下段)という。著者はこの「高潮」をこのように説明する。「1958年から59年は中朝友好関係が一回目の高潮を見せた。毛沢東は政治と経済の両面で朝鮮を全力で支え、金日成も崇高な情熱と真摯な姿勢で中国に追随した。…中朝の間は昔の宗藩関係ではもはやなくなり、金日成は一時的に恩を着せ、感激の気持ちに満ちたとしても、臣下のようにひれ伏すことはもうあり得なかった。特に1959年以降、中ソ関係に明らかなひび割れが生じるにつれて、社会主義国家関係における朝鮮の外交活動の空間は大きく広げられ、中朝関係を動かす主導権も次第に金日成の手に移った。金日成はついに、その『チュチェ思想』を実践するチャンスをさがしあてた」(下60頁上段)のである。

 第三期(第五章、第六章):尻尾が犬を動かす(1959年から1965年)では、中ソが朝鮮をめぐって争う様が描かれる。「金日成は引き続き北京とモスクワの間で均衡術を取り、両方の機嫌を損なわず、それぞれから多くの援助と実利を引き出した。その最も典型的な例は1961年、朝鮮がソ連や中国と同盟条約を同時に結んだことに現れた」(下257頁下段)という。しかし、当時のフルシチョフは「平和共存」志向であり、朝鮮の立場と異なっていた。そのため、ソ連の対北朝鮮援助は減少することになり、金日成は中国寄りになっていった。ソ連との対立が生じていた中国側も、朝鮮人越境問題、長白山の天池についても朝鮮に譲歩した。関係は再び好転したのだった。1964年10月、ソ連でクーデターが発生してフルシチョフが失脚し、コスイギン時代に入った。ソ連は北朝鮮に接近したが、「中国は常に朝鮮のソ連への傾斜を懸念していたので、金日成の要求には当然応じた」(下168頁上段)のであった。北朝鮮に中国が利用されていたのである。

 第四期(第七章途中まで):表の緊張と裏の冷静(1966年から69年)では、ブレジネフ時代に朝鮮に対する支援が強化される様が描かれる。この時期、中国では文化大革命が生じており、国境でもトラブルが生じた。この時期、朝鮮半島情勢にも緊張が走っただけでなく、1969年にはダマンスキー島事件が生じた。中ソ間の緊張が高まる中で、中朝関係は一定程度維持された。

 第五期(第七章途中から):同床異夢(1970年から76年)は、中米対話の促進に対して朝鮮側からも一定の理解があり、中朝関係に「小春日和」が訪れたと指摘される。北朝鮮は、ソ連との間の関係も維持し、中国とソ連の双方との等距離外交を維持した。この時期の北朝鮮はイデオロギーを重視し、世界革命を推進しようとした。それに対してこの時期、アメリカに接近した中国は社会主義陣営での指導性を喪失していた。

 以上のように、本書は朝鮮戦争期を中心とする、戦前期から1970年代に至る中朝ソ関係史である。史料的に充実しているだけでなく、写真資料もきわめて示唆に富む。これまで、西側の冷戦史が多く描かれてきたが、東側陣営の状況がここまで詳細に描かれたことはなかったのではなかろうか。

 

本書をめぐる論点

 本書は多くの論点を提示しており、議論したい点も多い。ここでは、紙幅の都合もあるので限られた論点を提示したい。第一に指摘すべき本書の意義は、本書が「『血の同盟』の真実」を詳細に描き出したことだ。朝鮮は、大国の狭間で外交をおこなったが、中国は主義を重んじようとしたのに対し、朝鮮は利益を重んじた。金日成は中国との関係において常に有利な立場を得た。朝鮮は風見鶏的な役割を果たしたとも言えるし、現実主義的だったとも言える。表面的に残された「血の同盟」に関わる資料に対して、著者が用いた史料は批判的な論点を提示していた。第二の論点は、「天朝」である。著者は、「1950年代から60年代の中朝関係が正常な、近代的国家関係まで成熟していなかった」(下147頁下段)としている。だからこそ、「天朝」という言葉を使ったのであるが、「毛沢東は中国歴史上の伝統的な『天朝』概念とプロレタリア世界革命の理想を一体に融合させたに過ぎない」(下147頁下段)としている。これは一面では説得的だが、果たしてこの時期の状況を「天朝」で説明できるのかは議論が必要だろう。当時の中国では宗藩関係に基づいて周辺国との関係を説明することはタブー視されていた。これは毛沢東「中国革命和中国共産党」(1939年12月)と『毛沢東選集 第二巻』(1944年)に採用された同文を比べれば明らかだろう。著者の想定している「天朝」、あるいは毛沢東が想定していたと著者がいう「天朝」とはどのようなものだったのか。実際の宗藩関係と、記憶化されたそれは異なっており、この言葉を用いて説明するには慎重さが必要だと評者は考える[3]。第三の論点は、第二の論点と関わる。著者が「天朝」を用いて中朝関係を説明した一つの理由は、毛沢東が北朝鮮との領土問題、国境問題に関して採った姿勢を説明しようとしたからである。「中国を中心とする『天朝』(アジア革命陣営に置き換えられる)から見れば、国境はもともと問題ではなく、いや、そもそも問題は存在しないものだった。『天朝』に帰順さえすれば、どれほど多くの領土を汝にやっても構わない。汝自身が『天朝』に属するものなのだ」(下147頁下段)ということであった。しかしながら、社会主義陣営内の地位や、より現実的な問題の中で、中国は北朝鮮という「盟友を見つけたと思った」のであり、北朝鮮を捨てられなかったという観点もあるように思われる。この時期には、1958年に国務院国境委員会が設けられたり、1963 年に地理学者の譚其驤らが「歴史上の中国」も指定している。決して領土問題や国境問題に対して、「天朝」観念を適用していたわけではないように見られる[4]。より詳細な議論が必要だ。このほか、本書の構成上の問題も指摘しておきたい。第一に、第4章の途中に1958年転換点が描かれている点、また全体としてやはり前半が重く後半が軽い点だ。著者は、この点に自覚的であり、本書の続編を描く用意があるという。読者としてはそれに期待したい。だが、これらの点は決して本書の意義を失うものではない。冒頭に記した通り、本書によって、これまで知られていなかった多くの事実が解明され、「血の同盟」にまつわる中朝関係史が描かれたのである。また、同時になぜこのような神話が形成されたのか、という点についても理解を深めたいところである。

  

 

[1] 著者によれば、「本書は沈志華『最後的「天朝」—毛沢東、金日成与中朝関係』(原文中国語簡体字、2016年4月完成)の全訳である」、そして、「日本語版は他の外国語版(中国語版を含む)にさきがけて世界で初めて刊行される」(上xi頁)。中国で出版できなかった理由について訳者は、「種々の原因により、本書の原稿を大幅に圧縮した「簡約版」も、日本語版が出版される時点まで、中国本土で出版されることはなかった。中国国内の特有な政治的背景、出版制度上の原因にもよるが、いまだに中朝関係に関するタブーと神話を破らせない思想的、外交的な何かが、まだ透明人間のように立ちはだかっているからである」と述べている(下271頁上段)。

[2] 川島真「天朝から中国へ:清末外交文書にみられる『中国』の使用例」(『中国 社会と文化』12号、1997年6月、41-54頁)。

[3] 川島真「『帝国』としての中国―20世紀における冊封・朝貢認識と『中国』の境界」(宇山智彦編著『ユーラシア近代帝国と現代世界』ミネルヴァ書房、2016年、219-236頁)。

[4] 川島真「近現代中国における国境の記憶―『本来の中国の領域』をめぐる」(『境界研究』1号、2010年、1-17頁)。