タイプ
その他
プロジェクト
日付
2007/10/5

【書評】「徳川後期の学問と政治 -昌平坂学問所儒者と幕末外交変容」眞壁仁著

評者:五百旗頭 薫 (東京大学社会科学研究所准教授)


本書の概要
本書は徳川後期の昌平坂学問所の知的営為と外交参与を、特に古賀家三代(精里(1750-1817年)、侗庵(1788-1847年)、謹堂(1816-1884年))の足跡を中心に論じたものである。

目次は以下の通りである。

 序 忘却された儒家の名門―古賀家三代
 第I部 学政創制と外交参与―古賀精里
  第1章 佐賀藩政改革―課題としての造士・選士
  第2章 徳川幕府の学制改革―昌平坂学問所成立をめぐって
  第3章 幕府儒者の外交参与―東北アジア域圏礼的秩序の枠組み
 第II部 視圏拡大と変通論―古賀侗庵
  第4章 古賀侗庵著作の周辺
  第5章 知的世界の拡大―「博覧強記」の学問
  第6章 変通論―「物窮まれば則ち変ず」
 第III部 海防争議のなかの変通論―古賀謹堂とその時代
  第7章 阿部政権の海防掛体制と学問所―学問所御用筒井鑾溪と弘化・嘉永年間の海防論
  第8章 学問所出身の幕臣・陪臣たちの経世論―嘉永六年の諮問と答申
  第9章 情報資源と政治構想―古賀謹堂の知的世界
  第10章 党派対立と政治構想―海防掛と古賀謹堂

徹底的な調査に基づく650頁の巨編であり、論点は多岐にわたる。ここでは、徳川後期の日本外交を支えた思想的基盤への問いとして本書を辿りたい。


寛政異学の禁再考
徳川時代の平和が長く続き、かつ行政が発達すると、軍事力はもちろん、いわゆる名君による改革でも有効な統治は行えなくなる。文書行政を担い得る官僚層の創出が幕府・藩双方のレベルにおいて必要となった。この必要は、世襲の弊害による人材確保の困難が意識されることで、さらに尖鋭化した。こうした要請に応えることが、寛政の改革において追求された使命の一つであった。

松平定信に起用され、学制改革に大きな影響力を発揮したのが、古賀精里の知己でもある柴野栗山であった。当時実施されたいわゆる寛政異学の禁(1790年)とは、上に述べた人材確保のために、良き幕吏を育て、選別することを目的としたものであった。学問所での教育を受け、及第したものは、一定の範囲内で抜擢への道が開かれることになった。ここで朱子学が「正学」として採用されたのは及第を判定するための経典解釈の基準が必要であったという面が大きく、思想統制や、思想による政治体制への統合という要素は希薄であった。その意味で、朱子学は幕府の<教義の正統性>は獲得したが、<政治的正統性>への寄与はより間接的・潜在的なものであったというのが著者の解釈である。

学問所における朱子学は、思想統制ではないかという同時代的な批判に答えるためにも、他の学説や様々な種類の書籍、そして実世間への関心・知識を重視せざるを得ず、それは良き幕吏を育てるという寛政の改革の元来の意図にも適合したものであった。その意味での博覧強記を身上とする朱子学が、栗山の推挙で学問所に起用された精里、そして侗庵・謹堂によっていかに発展させられ、それが徳川後期の外交にいかなる意味を持ったかが、本書の基本的な論点である。
 
外交参与1-近世外交の粋
儀典に通じ漢文を駆使する能力に長けている学問所儒者は、外国との通信に不可欠な存在であり、外交に深く参与した。その幅広い知識と儒学的な「礼」に基づく国際秩序観は、近世東アジア外交の粋を体現することになった。
 
寛政期には、近世最後の朝鮮通信使が渡来した(1811年)。定信等の貿易や朝鮮に対する低い評価もあって通信使は従来の江戸までの旅を行わず対馬で日本側と交渉したのみであり、近世の日朝関係は先細りに絶えていったイメージが強い。しかしながら、通信使が江戸まで一方的に来るという交渉のあり方は、日本から見れば朝貢であり、朝鮮から見れば冊封であり、危うい非対称性をはらんでいるともいえた。国境地帯ともいえる対馬で交渉するというのは、筆談に従事した学問所儒者からすれば、彼らなりの平等な通信関係を象徴していたのである。しかも、朱子学を奉ずる精里等は、それ以前に日本を風靡していた徂徠学、それが影響を受けた明朝期の儒者(李攀龍・王世貞等)を清算していることを朝鮮側にアピールでき、かつこの朱子学を基準として、科挙には及ばないものの一定の選抜システムを有していることも説明できた。このようにして、相手への礼譲を守りつつ、自国のあり方を卑屈にならずに説明するという交流のあり方が、模索されていたのである(190-196、203-209頁)。

18世紀末から19世紀初頭には、ロシアからの通商要求が強まった。ラクスマン・レザノフがあいついで来航し、1806年には日本側の対応に不満を持ったフヴォストフによる樺太・エトロフ・利尻島等での襲撃事件すら起きた。ここでも学問所儒者は大きな役割を果たした。精里等は「礼」にかなった形でロシアの要求を謝絶しようとし、ロシア側の贈物を受け取るか否か、あるいはいかなる形式でいかなる内容の返簡を与えるかについての緻密な政策立案を行った。こうした作業の中で、1805年にレザノフに御教諭御書付が申し渡された。幕府はここで初めて鎖国を「祖法」として文書化し、同時にそれを国外に対して説明したのである。元来明文化されていなかった鎖国がいつ幕府において自覚化されたか、という近世史の重要問題への一つの答えが、ここに開陳されている(155-176頁)。

外交参与2-近代への外交変容
次に、開国に向けた外交変容にも大きな役割を果たした。

博覧強記の朱子学は、侗庵の代に大きく発展した。その学問姿勢は、朱子学への教条的な信奉には満足し得ないものであった。朱熹の「佞臣たるよりむしろ争臣たらんと欲す」という侗庵は、同時代に至る様々な学説を渉猟しながら、朱熹の基本的な「旨」は体しつつも個々の誤りは正すという姿勢をとった。その知的誠実さが、外交論にも反映される

すなわち、侗庵、そして謹堂の外交論の基調となったのが、「変通」論であった。幕府草創期の精神たる「祖宗之心志」を体しつつ、これを護るためにも「祖宗之心志」の再解釈や一部訂正により現実的な政策を構想していくという姿勢である。学問所の朱子学は、<政治的正統性>を担うよりも、既存の体制の<正統性>を前提とした上で個々の政治判断の<正当性>を問う知的枠組みとして機能したというのが著者の主張である。複数の選択肢を提起した上で、それぞれの利害を冷静に把握する、より害の少ない選択肢を実施するための具体的な方法も構想する、という思考様式である。

そして、博覧強記の学風がこのような外交参与を可能にした。万巻の読書と漂流民からの詳細な聞き取りにより、海外情勢について当時としては卓絶した知識を享受したのが侗庵・謹堂であった。

西洋諸国の度重なる通商要求の中で、1844年にはオランダ国王より開国を勧告する書簡が提示された。侗庵は幕閣に採用はされなかったものの返簡案を作成し、そこでは一時的とはいえ通商を認めるに至った。拒絶を貫いた場合のリスクを冷静に考慮したものであった。同時に、通商を行うことで海外の状況・技術も把握することができ、日本側がより有利な地歩を占めることができる、という趣旨であり、情報の重要性を強く認識した侗庵ならではの政策転換であった。

1853年7月のペリー来航を受けて、次代の謹堂はついに恒久的な通商容認論を提示した。これは、通商が当事者双方に利益を与える可能性を侗庵よりも認めていたからでもあるが、やはり様々な選択肢を吟味した上での冷静な判断であった。通商の実施方法についても慎重かつ具体的な考慮をめぐらせており、海外に出張する出交易によって国内経済の混乱を最小限にするというアイディアを提示した。そして出交易に加えて領事や留学生を派遣することで知識・技術を収集することも提案した。謹堂の政策論は当時としては具体性において抜きん出ており、政治に大きなインパクトを与えた。

例えば彼の議論は、通商に反対する勢力からも評価された。8月より海防参与として政策形成に大きな影響力を持っていた徳川斉昭は、使節派遣による情報収集を提案するとともに、通商を実質的に回避する手段として出交易の構想を一時採用したのである。

謹堂の構想がもっとも活かされたのは、やはり通商容認の方向においてであった。幕府が通商を容認するに際しては、目付系海防掛が積極論を打ち出したことが重要な契機であったことが知られている。その判断を準備したのが謹堂の提案であったという著者の推論は、かなりの説得力がある(386-407、471-485頁)。目付には学問所出身者が多かった。また、直轄領収入を中心とした既得権維持に傾きやすい勘定行系と異なり、目付はより原理的な思考に親和的であった。著者は、幕府外交のヒーローとされていた勘定系の川路聖謨の限界や失態を、謹堂の日記等の資料を用いながら生き生きと描き出している(459-471頁)。ともあれ著者は、通商積極論の起源がどこにあるか、という近代外交史の重要な論点にも一つの答えを提示したのである。

しかし古賀家が日本外交から姿を消す時が近づきつつあった。1855年以降、西洋との交渉で漢文を正文として用いなくなったことは、儒者が活躍する余地を決定的に狭めた。そして、68年初の王政復古により謹堂の公的生活は完全に終わりを告げたのである。

本書の評価
旧幕府・幕臣を再評価するのは歴史研究の一つの潮流ではあった。しかし学問所については、幕府の正統性を擁護した古色蒼然たる集団という印象がなお強かった。それだけに、この幕府の知的中枢から開国に耐え得る外交文化が発酵したという著者の主張は、鮮烈な印象を与える。

かかる外交参与を支えた博覧強記の学問を評価するには、古賀三代が自らのテキストに何を記したかを追うだけでは足りない。何を読み、何に言及したかという、著者が言うところの「視圏」の広さを他の思想家との比較の下で問わなければならない。著者は古賀家三代の膨大な蔵書群をはじめとする資料調査を徹底的に行うことでこの課題に答えた。三代にわたる時代の学問上・政治外交上の主要な論点についての先行研究にも網羅的なレビューを行っており、読む者を圧倒する。古賀家の学風が著者に憑依したかのようである。

評者が今、思い起こすのは森鴎外著の『渋江抽斎』である。二つの本は似ている。古賀家も渋江も、飽くなき研鑽を続けた学者であった。その学問に著者が強く惹かれたという点も似ている。しかしながら二つの相違点がある。まず『渋江抽斎』にあっては、渋江は不本意にも政治に関与することとなり、これに妨げられて自らの学問を完成させることができなかった。その意味で政治と学問との間にはゼロサムの関係があった。それに対して古賀家三代は自らの知的地平の拡大が、幕府日本の政治的想像力の拡大に寄与したのであって、緊張をはらみつつも学問と政治の幸福な結びつきがあった。もう一つの違いは、森は渋江の学風に強く引かれながら、自らは同様の学問生活を歩むことができなかった。眞壁にはその自由と意思と資質がある。眞壁仁、40に足らずして碩学である。

著者があとがきで述べるように、書誌調査の果実を思想研究として収穫することはまだ十分になされてはいない。とはいえ、著者が本格的なテキスト間の比較や解釈を展開した場合、本書が製本可能な厚さに止まるかは疑問である。著者は一冊の本としては十分過ぎる作業を行い、止んだ。止んだのは、外交に関心のある読者(上に注記した頁からご覧頂くのも方便かと思われる)と思想史研究者の双方が関心を持って手に取れる、好個の地点においてである。


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