タイプ
その他
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日付
2017/9/19

【書評】『中国の誕生―東アジアの近代外交と国家形成』岡本隆司著(名古屋大学出版会、2017年)

評者:山本敬洋(日本学術振興会特別研究員)

 はじめに

 本書は中国近代史の諸側面について論考を発表してきた著者が、近代中国の誕生という大きなテーマを、その外縁部の秩序を支える概念の変容から分析した総合的叙述である。まず冒頭で著者は、英語圏の中国近代史研究を創始したジョン・フェアバンク以降の研究上の潮流を「条約体制ー朝貢体制論」と、それへの批判的検討として登場した互市システム論、さらには藩部に注目する議論の三つに総括し、そのいずれも不十分だと指摘する。アヘン戦争を画期とする傾向の根強さや各辺境の政治過程のディテールに埋没する「専門のいわゆるタコツボ化」(13頁)を乗り越え、清朝・「中国」史の全体像を描く必要があるからである。したがって著者は本書の目的を「清朝の体制から『中国』というネイションの成立に転換する過程を対外秩序の視点から明らかにすること」(13頁)と設定し、そのためのアプローチとして当時の漢語概念に焦点を当てることを宣言する。

 

本書の構成

 本書は四部構成になっており、まず第一部は1880年までの清代、第二部は1880年代のベトナム、第三部は1880年代から1900年までの朝鮮、第四部は1900年から辛亥革命直後までをチベットとモンゴルに注目して描く。目次を以下に挙げる:

緒 論

第Ⅰ部 危機の時代へ

    第1章 清朝の対外秩序とその変遷――會典の考察を中心に

    第2章 明治日本の登場――日清修好条規から「琉球処分」へ


    第3章 新疆問題とその影響――「海防」論と「屬國」と「保護」

 第Ⅱ部 属国と保護のあいだ――「越南問題」

    第4章 ベトナムをめぐる清仏交渉とその変容――1880年代初頭を中心に


    第5章 清仏戦争への道――李・フルニエ協定の成立と和平の挫折


    第6章 清仏戦争の終結――天津条約の締結過程

第Ⅲ部 自主から独立へ――「朝鮮問題」

    第7章 「朝鮮中立化構想」と属国自主


    第8章 自主と国際法――『清韓論』の研究


    第9章 属国と儀礼――『使韓紀略』の研究


    第10章 韓国の独立と清朝――「自主」と「藩屬」

第Ⅳ部 「領土主権」の成立と「藩部」の運命

    第11章 「領土」概念の形成


    第12章 「主権」の生成――チベットをめぐる中英交渉と「宗主権」概念


    第13章 「主権」と「宗主権」――モンゴルの「独立」をめぐって

結 論

 

「属国」「保護」概念の変容:琉球処分から清仏戦争へ

各章の内容をまとめると以下のようになろう。第一部では、各皇帝の統治時代の法典をまとめた会典(注1)の分析を通じて清代の対外秩序を概観し(第一章)、つづいて明治日本が特に琉球処分を通じていかにそれを揺るがしたかが述べられる(第二章)。1871年の日清修好条規第一条は「両国に属したる邦土」の「永久保全」を規定しており、清はこれにより日本の朝鮮侵攻の抑止を企図した。しかし1879年の琉球処分により、こうした文言が役に立たないことが露見した。そのため清朝は属国の存続には別の方法が必要と考え、朝鮮に西洋諸国と条約を結ばせることを提起する。これが属国自主概念の転換につながった。また1870年代の清朝では日本の台湾出兵を受けて盛り上がった海防論と、西北の反乱への対処と該地域の支配の再確立を唱える塞防論が対立していたが、著者はこれらを二律背反的なものとは見ない。むしろ両者には共通して、属国というカテゴリに清朝の関係を整理し、それを国際法上の保護国の概念になぞらえることによって、帝国主義国に対して清朝の立場を認めさせる意図があった、とする(第三章)。しかしこうした形での属国概念の強調は、朝鮮・ベトナムにおいて日本・フランスとの摩擦をもたらした。

 第二部では、ベトナムをめぐって清仏が三度の交渉妥結を見たものの対立が残存したことが述べられる。第四章の眼目は、1882年11月に駐清仏公使ブーレが李鴻章と合意した覚書をめぐる清仏の解釈のずれである。この覚書は1882年4月にフランスのリヴィエール海軍大佐が独断で軍を率いてハノイを占領、曾紀澤駐仏公使がフランス外相に抗議したが決裂したのちに、天津での李・ブーレ交渉に引き継がれ、そこで合意されたものである。その第三条にはベトナム北部の係争地であったトンキン地方に一種の緩衝地帯を設置し、その北側は清朝が「巡査保護」する、と漢文では書かれていた。しかし仏文では保護という言葉はなく、監視(surveilance)とされていた。清朝にとってはここで保護が確認されることこそベトナムが清の属国である証左であり、したがってこの語が不可欠だった。いっぽうフランスにとっては、保護とは該当国に対して一国のみが行使できる権利であり、それはまさにフランスが1874年のサイゴン条約でベトナムから得たものだった。したがってフランスが清朝による保護という文言を認めることはあり得なかった。こうした漢文と仏文の齟齬が解消されないまま李・ブーレ覚書は調印されたが、ブーレは譲歩しすぎたとして本国政府に解任される。フランスにしてみれば、象徴的関係に過ぎなかった「上邦」「属国」という概念を持ち出してフランスの保護を拒絶し、自らの干渉の実質化を目指す清朝には反対するほかなかった。

 第五章は1884年5月に李鴻章と仏海軍中佐フルニエの間で結ばれた協定を検討する。李・フルニエ協定は同年3月の北寧の会戦を受けて、全面戦争回避のため持たれた交渉の成果であった。李・ブーレ覚書と同様に、最重要論点は清仏両国が相手国のベトナムとの関係をどう解釈するかであった。合意された協定の文言では、フランスは清とベトナムの境界を尊重(respecter)し、清国はフランスとベトナム間の過去・現在・未来の条約を尊重(respecter)するとされたが、漢文では前者は「保全」、後者は「不問」と表記された。さらに第四条では、フランスはベトナムと条約を結ぶにあたって清の威信を傷つけないとの表現が入った。これをもって清はベトナムを属邦とみなし続ける根拠としたが、フランスはそれに反対した。このような漢文・仏文間の矛盾は交渉決着のために「半ば意図的に」(181頁)残されたものだったが、根本的合意がないままの協定調印はさらなる対立を生んだ。1884年6月23日、清朝とフランスはベトナム北部トンキン地方をめぐって戦争状態に入った。

停戦交渉は1885年4月4日のパリ議定書に結実するが、その過程で最も議論されたのは、清朝は尊重されるべき「威信」の内容を朝貢であるとしたのに対し、仏は朝貢を認めることを清の宗主権を認めることと考えて拒否した点であった。しかし、結局ベトナムに対する「威望体面」を清朝が維持するとの趣旨の文言で折り合い、1885年6月9日に天津条約が結ばれた。総じて軍事的に劣勢だった清朝は、李・ブーレ覚書の時点の立場であったトンキン地方の分割保護からの後退を甘受するほかなかった。これをもってフランスがベトナムを保護国化するが、一方で清はベトナムが今なお属国であるとの建前に固執した(第六章)。フランスとの対立を通じて、清朝は属国の軍事的保護が不可欠と考えるようになり、属国と「保護」の意味内容が変化した。

 

新たな用語法の模索:朝鮮中立化構想から辛亥革命後まで

 第七章から第九章は、朝鮮情勢に関して異なる立場から書かれた三つの文書が検討される。井上毅「朝鮮政略意見案」、オーウェン・デニー「清韓論」、崇禮「使韓紀略」である。

 「朝鮮政略意見案」は井上毅が1882年にまとめた、朝鮮中立化を保障するための多国間合意案である。その内容は、清朝と朝鮮は「上国」と朝貢国の関係であることは認めつつ、朝鮮は独立国であって属国ではないので干渉保護はさせない、というものであり、ベルギー・スイスにおいてと同様の複数国での共同保護を構想した。しかしこの案は非公式な打診以上の発展を見ることはなかった。第八章が扱う「清韓論」は1886年から90年まで朝鮮政府外国人顧問を務めた米国人オーウェン・デニーの書いたパンフレットである。デニーは、朝鮮は清朝の朝貢国(tributary)であり、国際法上の独立国であることを訴え、朝鮮を属国(vassal)と考えてその内政に干渉する清朝とくに袁世凱を批判した。第九章は中国の側からの言説をとりあげる。崇禮「使韓紀略」は、1890年に清朝が朝鮮国王高宗の母である趙太妃の死去にかこつけて朝鮮へ使節を送り、旧慣に則して儀礼を行った記録である。朝鮮は弔使の派遣を一度は断る構えを見せたが、結局は受け入れた。清朝はこの記録を内外の外交当局に配布し、朝鮮が属国であることを内外に印象付ける広報外交に努めたが、清韓関係に大きなインパクトを与えることはないまま日清戦争を迎えた。

この三つの文章で問題になっているのが、朝鮮が清朝の属国であるのかどうか、そしてもしそうならばどんな義務・権利が朝鮮、清朝、そして第三国に対して発生するのか、である。井上とデニーは朝鮮は朝貢国であって属国ではない、かつ朝貢があっても清朝に内政干渉の権利は発生しないと主張した。対して崇は朝鮮は清の属国であるという主張を通そうとした。

第十章は日清戦争後の朝鮮独立に向けた外交過程を追う。下関条約の結果清との宗属関係を絶たれた朝鮮は、清朝と条約を結ぼうとしたが、清朝側は「属国の体」の存続をめざし、対等の立場での条約締結に抵抗した。しかしそのレトリックには徐々に変化があり、いまや朝鮮は自主ではあるがそれは旧来の儀礼を行わないに過ぎない、と「自主」の概念を拡張することで朝鮮に干渉する道を残そうとした。しかし中国における列強の利権獲得競争の激化を受けて、光緒帝が対等な立場での外交関係樹立を認める決断を下し、1899年に清韓間の通商条約が締結された。

第四部は主に辛亥革命直後の中華民国における、近代国家形成と領域概念の連関を議論する。第十一章は領土という言葉の起源に焦点が当てられる。領土という概念が普及する以前の清朝は所属邦土という用語を用いていた。これは日清修好条規第一条において属国たる朝鮮を示す言葉だったが、徐々に意味が拡大し、他の属邦やさらには藩部、各省まで含むようになった。しかし属国を次々に失う中、清朝は宗主権をもつ属国と主権をもつ属地を弁別する用語法の欠如を問題視するに至った。1895年の下関条約によって属国を全て失った清朝は、こうした曖昧さが帝国主義への抵抗の妨げになり、中国そのものの「瓜分の危機」をもたらしていることを自覚し、属地概念を再定義する必要を感じ始めた。清朝打倒を目指した革命派知識人たちはアメリカの門戸開放宣言から用語を採り、「領土保全」のできない清朝政府を批判した。藩属という表現では国境の内か外か曖昧であるため、(主権と不可分という含意を持つ)領土と言うほかなかった。ここで彼らがたどり着いたのが「藩部=主権の及ぶ領土」との主張であり、ここに「『国民』『国家』の創成をめざす漢人政権の明確な目的」意識が表れていた(349頁)。こうした経緯から、中国における領土概念は保全と不可分であり、かつ藩属へ遡れてしまうため範囲を確定しにくいものになった、と著者は指摘する(351頁)。

このような新しい藩部観は当然チベット人、モンゴル人の反発と独立運動の興隆を招く。辛亥革命直後、中華民国はモンゴルとチベットの支配をめぐってロシア、イギリスと対峙した。チベットに関しては1904年11月、清朝代表の唐紹儀が宗主権(suzerainty)ではなく主権(sovereignty)を有するとイギリスに対して主張して以来、対立が続いていた。唐はチベットが朝鮮の轍を踏まぬようこのような主張をしたのである。イギリスは、チベットにおける中国の主権を認めることがその政治的・軍事的干渉を強める契機になり、隣接するインド北部が動揺することを恐れた(第十二章)。

モンゴルをめぐっての中露対立も概ね同様の構図を持っていた。1912年11月3日の露蒙協定の露文にモンゴル独立の含意があることを危惧した中国はロシアに抗議し、「自治」との漢訳で合意した。その後中国は、この協定とモンゴルが中国の領土であるとの主張との整合性をつけようとした。ロシアは当初、主権と宗主権の明確な区別をしておらず、中国のモンゴルに対する主権を認めるとの文言で妥結しようとしたが、元駐華公使コストロヴェツの指摘で、宗主権のみ認める主張に転じた。1914年9月からキャフタで行われた中国・ロシア・モンゴルの三者交渉では、中国は宗主権を拡大解釈して限りなく主権の行使に近い状態をモンゴルで作り出そうとしたが、ロシアとモンゴルの反対にあった(第十三章)。

結論において著者は、中国というネイションはまず政治観念の中に形作られはじめ、20世紀を通じて変遷を経てきたが、領土主権という名分と現実の統治の実態との乖離を架橋できないまま今日に至っている、と示唆する(426頁)。

以上を踏まえて、本書の中心的主張は以下のようになろう。清朝から中国への変遷を対外秩序認識から見ると、それまで朝貢、互市、藩部に分類される二国間関係の束であったものが主権を行使する領土をもち、同様に他国が主権を行使する他国の領土(ないし植民地)と隣接するという近代的国際関係に変容した、と見なければならない。これは朝貢体制から条約体制という変化では説明できないし、それを互市あるいは藩部で置き換えても不足である。属国自主の主張ではベトナムや朝鮮を失うのを防げず、いまや帝国主義国の圧力が藩部にも及んで来たのを「瓜分の危機」と感じた中国人たちが、近代外交の語彙の中で藩部への自らの支配を守るために辿り着いたのが主権を行使している領土という概念であった。

 

本書の意義と日本の事例との比較

 本書に関してまず特筆すべきはその視野の広さであろう。対外秩序に関連する漢語概念の変容は著者が『属国と自主のあいだ 近代清韓関係と東アジアの命運』(名古屋大学出版会、2004年)以来扱ってきたテーマではある。その点で、これまでも著者の論考に親しんできた読者は記憶の中の同様の議論を想起するかもしれない。ただ本書は幅広い事例を現代中国の国境線の内外を問わず扱うことで、琉球を皮切りに中国が一つずつ属国との関係を喪失し、危機感を募らせる中で主権・領土という概念に行き着き、それを用いた外交交渉によって自国の存続を図った過程を浮かび上がらせる。序論で述べられた近代中国研究のタコツボ化を乗り越えようとする著者の試みの帰結が、こうした全方位的視野の獲得であると言える。

また、本書で描かれる19世紀末・20世紀初頭の中国の領土が立ち現れるさまを、19世紀後半の日本のそれと比較するのも意味のある試みかもしれない。両者を比較して大きく異なるのは帝国主義勢力から受けた政治的・軍事的圧力の強弱である。英仏露日の周縁領域への侵入と対峙した中国に比べて、日本が近代外交の論理で国境画定を行った1850−70年代には、北海道、琉球、小笠原諸島といった地域で日本の領土主権確立に強い軍事力をもって抵抗する勢力がなかった。唯一明確に反対・抵抗したのが隣国である清朝であり、そのために1874年の台湾出兵は日清戦争に発展しかけたが、英国駐清公使ウェードの仲介により開戦が回避された。確かに西洋諸国の艦隊は強力であり、ロシアの対馬や北海道への領土的関心は周知であったが、どの国も日本の領域主権確立の動きに表立って反対することはなかった。西洋諸国はむしろ過大な軍事的・政治的資源を日本列島周辺に投入することに及び腰であり、競合する国に遅れをとらなければよしとしていた節がある。また1875年の樺太千島交換条約により日本は南樺太での領土主権の主張を放棄したが、それが日本の領土的統合を脅かすことはなかった。つまり近代日本は、中国が経験したような、対外秩序概念の齟齬とその変容が国家の存続を揺るがす事態を経験しないまま領土主権確立の過程を通過したと言ってよいであろう。

読者がもしもこの本に中国近現代史の通史的叙述を期待していたのなら、やや肩透かしをくらうかもしれない。本書は対外秩序に関する概念の変遷を追ったものであり、通史叙述としては構想されていないからである(注2)。あくまで為政者・外交当事者の視点から中国の誕生を描く作業が中心にある。こうした概念の変遷が通史上の分岐点(例えば辛亥革命、対華21ヵ条要求)においてどのように影響したかを考えることはきわめて有益であろう。また今日の日中間の領土境界をめぐる対立を議論するに際しても、そもそも近代中国にとって領土形成がどのような経験だったのかをよりよく理解することは、建設的な議論への重要な一歩となるだろう。

 (注1 本文では會典。本書には随所に漢文の原文の字体で表記される用語があるが、この書評では幅広い読者への読みやすさを鑑みて今日の日本語で一般的に用いる漢字に置き換える。)

(注2 同じ著者による平易な通史叙述として『世界のなかの日清韓関係史』(講談社選書メチエ、2008年)。)