タイプ
その他
プロジェクト
日付
2018/8/1

【書評】『戦争調査会 幻の政府文書を読み解く』井上寿一著(講談社現代新書、2017年)

 評者:武田 知己(大東文化大学法学部政治学科教授)

 

   大東亜戦争と呼ばれたあの戦争の余韻も冷めやらぬ1945年10月9日、生死不明とまで言われた「忘れられた外交官」だった幣原喜重郎は、首相に担ぎ上げられ、その直後に「敗戦の原因及実相調査の件」を閣議決定する(同月30日)。それは、あの戦争に負けた理由とその様相を国家が調査するという前代未聞の決定であった。

   なぜ、幣原はこのような決定を下したのか。富田圭一郎によれば、そこに至る二つの底流があった。一つは国を破滅の手前まで追いこんだ責任を明らかにし、それを追及したいという世論の存在であり、もう一つは戦史編纂をしたいという政府および軍の意思である(富田圭一郎「敗戦直後の戦争調査会について」『レファレンス』no.85、2013、pp.87-89)。さらに、戦時中からひそかに行われていたあの戦争を記録に残そうとする清沢洌らの努力も、そうした底流の一つといえるかもしれない。なぜこんな戦争が起きたのかという疑念と後悔から、その歩みを解明したいという切迫した気持ちは、戦前のリベラリストの雄というべき幣原も共有していたのである(武田知己「吉田茂の時代――「歴史認識問題」の自主的総括をめぐって」五百旗頭薫ほか『戦後日本の歴史認識』東京大学出版会、2017年)。

 こうして、幣原の熱意により、11月20日に大東亜戦争調査会官制が定められ、あの戦争の全貌を全国規模で資料を採集しながら解明する野心にあふれた戦争調査会が始動する(なお、1946年1月より戦争調査会に改称される。以下では戦争調査会に統一する)。この間、牧野伸顕を総裁に据えようとするものの牧野は首を縦に振らず、若槻礼次郎にも断られた末、幣原は自ら総裁を引き受け、長官に大蔵省官吏で海外勤務も経験した青木得三(庶民金庫理事長)をあてた。また、会は5つの部会を設け、敗戦直後とは思えない大掛かりな調査に支えられながら運営することが想定されていた。委員には錚々たる学者や政治家、財界人が据えられ、調査官には次官クラスが勢ぞろいする。また、調査会は、総会、部会に加え、連合部会、部会長会議、参与会議などを開催したほか、関係者を招致したインタビュー(オーラルヒストリー)をこなしてゆく。あの敗戦後の混乱の中で40回以上の会議が開催されたことは驚くべきことといえよう。

   本書は、近年、数多の昭和史の作品を世に問い続ける井上寿一氏によるこの調査会の全貌解明の書である。この大規模調査会に近年注目が集まっている理由の一つは、2011年の東日本大震災に続けて起きた原発事故である。地震災害、津波災害に加えて第三の災害となった原発事故をめぐって「国民に甚大な被害」を与えた政策を政府・議会が調査・検証した先例を探した際に行きついたのはここだった(前掲富田、86頁)。もう一つは 国立国会図書館・国立公文書館に収められた書類が15冊の資料集にまとめられ、手軽に読めるようになったことである(広瀬順皓監修、長谷川 貴志解説『戦争調査会事務局書類』全15巻、ゆまに書房、2015年)。本書以前にも、いくつかの個別研究がこの調査会に言及してきたが、そこではこの調査会の関係者の歴史認識や東京裁判のそれとの比較がなされたり、その後の9月には早速解散されてしまうこの調査会の限界が指摘されたにとどまる。それに対し、本書はまずは15冊の資料集を読み解き、その議論の推移を追うことに集中する(第一部)。そして、その活動の限界ではなく可能性に言及する(第二部)。以上のことからもわかるように、本書は、この調査会についてのはじめての本格的な分析となろう。

 

 はじめに

第一部  戦争調査会とその時代

Ⅰ章 戦争調査会の始動

Ⅱ章 戦争調査会は何を調査するのか

Ⅲ章 戦争回避の可能性を求めて

Ⅳ章 未完の国家プロジェクト

第二部  なぜ道を誤ったのか?

Ⅴ章 戦争の起源

Ⅵ章 戦争と平和のあいだ

Ⅶ章 日中戦争から日米戦争へ

Ⅷ章 戦争の現実

   おわりに

 

 戦争の原因・敗戦の理由

 さて、この調査会には、幣原や青木、また、評者も紹介したことがある馬場恒吾ばかりか、有沢広巳や大内兵衛など、さらに左派的な人物もいれば、財界人も見受けられる。戦前のリベラリストの間でも、経歴や個性を背景に、あの戦争のとらえ方は様々であったのだが(前掲拙稿)、本書でも生き生きと描き出されているように、会の当初の議論は、あたかも国内における歴史観あるいは戦争責任論の論争のような観を呈する。

   大きな議論の軸の一つは、敗戦の原因をどこに求めるかにあった。なぜ日本はあの戦争に負けたのかと問われれば、それは負ける戦争を始めたからだ、という強力な主張、つまり、戦争を始めた事自体が悪いという歴史観が続出したのである。

   著者が注目している委員の一人、経済評論家の渡辺銕蔵がこうした歴史観を最も鮮明に主張した一人であった。渡辺は言う。「此の戦は理由のない、なすべからざる戦を致したと思うのであります」(33頁。以下、頁数は井上著より)「戦争を始めれば即ちそれは敗戦だ。言葉を換えて申せば、爪の垢程も勝つ見込みはないのだ。斯様に確信致して居ったのであります」(44頁)。戦時中に反戦運動に身を挺し、拘束された渡辺の言は鋭く、あの戦争の過ちを衝いてやまない。同じように1930年代には逼塞していたジャーナリストの馬場恒吾も「敗戦の原因というのは、戦争を始めたから敗戦したのだろう、戦争を始めた事自身が間違って居るのではないか、日本が始めたのが悪い」(43頁)という。幣原や調査会長官となった青木得三は、開戦後の過ちにも目配りしてほしいと主張するが、渡辺は馬場らの意見を踏まえて畳みかける。「いろいろな方から、開戦すなわち敗戦だ、こういう意見が大分でた。私も固くそう思っておる」(58頁)。

   もう一つの論点は、個人の責任を追及するか否かであった。幣原内閣の書記官長・次田大三郎が1945年11月5日の日記に書いているように「前内閣時代戦争犯罪人を我国に於て裁判することに付き、お上のお許しを得た」ため、幣原内閣は「戦争責任裁判法の制定」を宿題として抱えていた。そんな中で、委員の松村義一は幣原にいう。「取り急いで敗戦の原因を取り調べ、其の責任者を究明、処断するが為に、特に法律を制定して特別裁判所を設置せらるるの御考はないのでござりましょうか」(37頁)。この問いも戦争調査会の抱える問題性を鋭く突いていた。いったい、この戦争を何のために調査するのか。調査の結果、この戦争の責任者個人を裁くことが適当なのではないのか。松村はそう問いかけたのであるがそれはあの時代に存在していた世論の一部を的確に代表していたのである。

 「占領の受け皿」を超えて

 こうした議論を受けて立った幣原・青木であったが、かれらも開戦の責任の重大さを理解していないわけではなかった。事実、幣原は貴族院で「五年前戦争を主張し企図して、ついに開戦に至らしめた人々に対しまして、国民が公憤を感ずるのは尤ものこと」(20頁)と発言している。また、開戦前の軍部の横暴を青木はもちろん、満州事変以降第一線は退いていたものの、陰から30年代の外務省を支え続けていた幣原が知らないはずはなかった(前掲拙稿)。青木ももちろんそうであろう。

 占領期の日本には占領軍の受け皿以上の役割がなかったという見方もあろう。しかし、青木には日米開戦後に高唱されることとなる「大東亜共栄圏の理念」をここで問い直したいという意思や「占領地行政は正しかったのか」という疑念があった。同級生だった次田大三郎に「庶民金庫の理事長は誰にでも勤まるけれども、この戦争調査会の事務局長官はお前でなければ勤まらない」(23頁)と懇願され、「相当強固」な政府の考えに感銘を受け、長官の職を引き受けた青木には、大胆に言えば、あの戦争の侵略性を糾弾しようという気持ちがあったのである。「この戦争は侵略戦争であり、或は東洋制覇の戦争だから、勝敗にかかわらずいけないのだ」(79頁)と青木はいう。これは30年代以降の日本外交に歯がゆさしか覚えなかった幣原も同じ気持ちだったろう。

   他方で、個人の責任を問うべきか否かをめぐっては、幣原は、この調査会がむしろ「永続的性質」を持つもので、個人の責任を追及することで終わるものではないと主張していることに着目したい。もちろん、幣原は最終的に個人の責任追及を避けた背景には、指導者が犯した過ちが大きければ大きいほど、その責任の追及が社会分断を招きかねない危険を孕んでいることを認識していた。その危険は、例えば、2011年の原発事故における個人の責任を追及する危険を想像すれば容易に理解できよう。しかし、幣原は、「戦争犯罪者の調査は行わない」理由を、「歴史の教訓を世に残し、平和的なる、幸福なる文化の高い新日本の建設」(31頁)を目指そうという高遠な目的に昇華させていた。幣原にとって、戦争調査会は敗戦に伴う占領の受け皿という消極的なものではなかった。それはあくまで新しい国つくりの手段たるべきものだったのである。そうした心境は、戦時中に大日本言論報国会において戦時プロパガンダを展開していた徳富蘇峰が、戦争調査会を評して「敵国だけではなく、わが国民までが、戦争犯罪人を云々し、更に当局者がその吟味者となるに至っては極めて遺憾千万の事」(29頁)と日記で嘆いたナショナリスティックな心境ともズレがあった。戦争調査会には、幣原なりの「平和国家論」とでもいうべき信念が込められていたのである。

 敗戦と占領の悲哀と挫折

 結局、幣原・青木の積極的なリーダーシップで、調査会の対象とする時代は第一次大戦から敗戦までの歴史とされ、分野を政治外交、軍事、財政経済、思想文化、科学技術の五つに区切り、必要に応じて意見交換をしながら議論を深め、調査をおし進める体制が出来上がる。会は、少しずつあの戦争の全貌を解明する方向に動き出す。渡辺も、この戦争については「非常に正確に数字的に、できないということを説明できると思います。殊にアメリカを相手にして戦うだけの物資を調達することができるか(と言えば到底無理であった)」(59頁)と自説を繰り返す一方、戦争を始めた責任だけではなく、敗ける戦争を早く止めなかった責任(渡辺はこの責任を負う人物を「国家困窮責任者」と呼んだ)も追及しようとしはじめた。他の部会でも「どうしても戦争中に敵側に依存して、輸入によって物を解決しなければならなかった」矛盾を指摘するような開戦の前後を連関させるような議論(八木秀次の発言、59頁)も出されるようになっていく。

   しかし、こうした議論は結局尻つぼみになっていく。調査会の活動は、あの戦争にもう一度勝つための活動なのではないかという疑惑にさらされ、その圧力に耐えられなくなっていくのである。著者の対日理事会における調査会批判の描写は印象的である(Ⅳ章)。

   この会の活動は、つまり、勝者に占領されている敗戦国であったという政治的背景を前提にすすめられなければならなかった。日本は、同年9月、遂に、本格的な活動開始後わずか5か月で、自主的に活動を休止する決断を下した。首相はすでに幣原から吉田茂に代わっていた。そして、自主規制とともに吉田が受け入れたのが、東京裁判が示す歴史観であり、その政治判断であった。その決断の向こうには、早期講和という民族的悲願があった。勝者の歴史認識を受け入れることはその前提だったのである(前掲拙著)。

 調査会の可能性と限界

 ところで、本書の面白さは、調査会が集めたオーラルヒストリーや委員の発言から、この未完のプロジェクトが行き着いたであろう結論を探し出そうとするところにある。

   その議論には、著者も言うように、驚愕の新事実はない。代わりにあるのは、敗戦直後という時代が生む独特の言論空間の面白さである。例えば、明治日本の旺盛な発展を擁護する徳富と馬場の比較や(126頁。著者が言うように、両者は親しかった)、幣原が第一次大戦後の日本に戦争の淵源を求め、日本を自らが外相であった1920年代の国際協調の時代に戻そうとしたという指摘などの挿話の類である(133頁)。また、調査会が宇垣一成に関心を有し、現在は殆ど忘れられた星野圭吾らの中国通や彼の側近たちにヒアリングをしている点や、日米交渉に携わった岩畔豪雄を招致して(ただし、その談話は殆ど記録なしで終わっている)、日米交渉について語らせている点なども興味ぶかい(その場にいた馬場恒吾が翌年に『近衛内閣史論』1946年を書いているのはこうしたヒアリングの成果であろう)。

   また、いわゆる帝国主義論の立場に立って、「後進国日本が戦争に打って出るのは必然」とする有沢らの議論に対し、渡辺が「領土拡張で行かなくても経済的発展で十分補えたのだ」(75頁)と主張している点なども領土拡張と貿易中心主義の可能性をめぐる面白い対比である。ややはっとするのは、渡辺が「オタワ会議とか英帝国経済ブロック会議で日本をいじめるとか云う風なことが、私共からみますと正反対と云っても宜しいような誤解が」あったと指摘している点である(40頁)。つまり、日本はむしろ自由貿易を求め、英米がブロック経済を敷いたというのである。このような理解は、現在の通説とは異なる理解である。

   こうした議論から、著者は、戦争調査会の議論の方向性に、最新の研究成果と同じ方向性を見いだしている。確かにそういう側面はある。しかし、歴史認識は高度に主観的なものではないか。会が一つの結論に行き着いたとは思えない。他方で、好調な売れ行きを示している本書から、新たに歴史への関心を呼びおこす挿話や視点をさがすのではなく、「戦争がなぜ起きたのか」という疑問に「答を求める切実さ」を感じることもできる(5頁)。本書の第一部は当時の日本人の息遣いを生き生きと描いており、評者は特にその点に共感を持つ。そして、国が自らの過ちを糺すことの難しさとともに、調査会委員の大役を引き受けた彼らの心意気と清々しさに思いを馳せたいと思う。一読を薦めたい。(了)