戦後歴史認識の変遷を読む(全4回):第4回 「沖縄の戦後と本土の戦後~『歴史認識』の違いを生み出す政治構造」

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戦後70年という節目の昨年は、安倍首相の「70年談話」も話題となり、歴史認識について改めて考えさせられる年となりました。

そもそも「歴史認識問題」とは、これまでどのように捉えられ、語られてきたのか。また、それらに関わる国内外の状況の変化を、我々はどのように理解すればよいのか。

政治外交検証研究会は、戦後日本の歩みを振り返り、改めて歴史認識問題について考察していきます。

第4回 「沖縄の戦後と本土の戦後~『歴史認識』の違いを生み出す政治構造」

平良 好利(東京財団政治外交検証研究会メンバー/獨協大学地域総合研究所特任助手)

はじめに

日韓、日中間では「慰安婦問題」や「靖国参拝問題」などいわゆる歴史認識問題が外交上の深刻な問題として現われているが、沖縄の場合は「歴史認識」それ自体が大きな政治的争点となっているわけではなく、そもそも日韓・日中のように国家間の問題でもない。沖縄に関してはやはり米軍基地が最大の争点であり、これをめぐって政府と沖縄県が対立しているのである。この「基地問題」をめぐる政治過程のなかで沖縄側は過去の様々な出来事、例えば沖縄戦や戦後の土地接収の歴史、あるいは数多く発生した米軍絡みの事件・事故の歴史、さらには琉球王国時代や琉球処分の歴史などを呼び起こし、これを背景に政府に問題を訴えたり、あるいはみずからの行動の拠って立つ基盤としてきたのである。

したがって、日韓・日中間の問題と沖縄・本土間の問題とはその位相を大きく異にしているが、それでも両者の間で共通する課題は、こじれた関係をどう解きほぐし、どう再構成するかということである。本稿では、現在沖縄と本土の溝が戦後最大といってよいほどに深まっているのは一体なぜかという問題を、歴史の大きな文脈から検討してみたい。とりわけ、沖縄における「保守」・「革新」の政治的枠組みの形成、展開、変容のプロセスに注目して、沖縄の政治空間がどのように変容し、それが本土との関係でどのような構図になっているのかを考えてみたい。

1. 冷戦期の沖縄政治と本土との関係

1945年から72年までの27年間、沖縄は日本から分離されたことによって独自の政治空間を形成することになる。1950年代の沖縄では琉球民主党、沖縄社会大衆党、沖縄人民党の主要三政党が存在したが、その政策距離はそれほど離れておらず、ときに三党が連携するといった場面もみられた。アメリカの軍用地政策に反対して三党がまとまり、しかも各種団体と連携して「島ぐるみ」の闘争をやってのけたのは、その典型である。またこの時期の本土との関係を巨視的にみれば、一種の「国民的一体感」で両者がまとまっていたことがわかる。

しかし、1950年代の末ごろから本土における「保革対立」の政治的枠組みが沖縄に流入することになる。1959年には琉球民主党の後身として沖縄自民党が結成され、本土の自民党と友党関係を結ぶ。一方、「中道政党」としての性格を有していた沖縄社会大衆党は徐々に「左傾化」し、沖縄人民党は日本共産党との結びつきを強めていく。さらに58年には日本社会党の友党として沖縄社会党も結成され、この社大、人民、社会の三政党がみずからを「革新」政党として規定していくのであった。

もっとも、このように本土の影響を受けているとはいえ、沖縄における「保革対立」が本土におけるそれと異なる内容をもっていたことは留意すべきである。資本主義国アメリカに直接統治され、しかも日米安保条約も適用されていなかった沖縄では、資本主義か社会主義かといった体制をめぐる問題や、日米安保条約に賛成か反対かといった問題はそもそも争点にはなりえず、最大課題であった日本復帰の方法をめぐって両者が対立したのである。日米沖の三者間の話し合いによって漸進的に日本への復帰を進めようとする沖縄自民党と、大衆運動によって両政府に圧力をかけることで復帰の実現を図ろうとする革新勢力が対立するという構図である。

最大の課題であった日本復帰が実現するのに前後して、沖縄では本土政党との系列化が本格化する。沖縄自民党は自民党沖縄県連へと移行し、一方の革新勢力は早い時期に沖縄社会党が社会党沖縄県本部へと移行したのに続き、沖縄人民党が共産党沖縄県委員会へと移行していくことになる。こうした変化のなか、沖縄でも日米安保条約や米軍基地などをめぐって保革のイデオロギー的対立が全面化することになる。革新陣営が日米安保廃棄と米軍基地撤去を唱えたのに対し、一方の保守陣営は日米安保によって日本の平和と安全が保たれているという認識を示すとともに、その平和と安全を保つためにも一定の限度内で米軍基地を引き受けるという態度を示す。

重要なことは、こうした保革対立の文脈のなかで、日本政府と敵対する革新陣営の「歴史認識」が定着していったということである。すなわち、沖縄戦で沖縄は本土の「捨て石」とされ、戦後は講和条約によって切り捨てられ(第二の琉球処分)、さらに72年の沖縄返還は住民の意向を無視したものであった(第三の琉球処分)という認識である。この革新側の歴史認識は、復帰から40年余を経た今日、政府との対立が深まっていくなかでさらなる広がりをみせるのであった。

このように保革のイデオロギー的対立が激しかったのがこの時代の特徴の1つであるが、しかしその一方で地域レベルの問題に関しては、両者共通の方向性をもっていたこともわかる。基地の整理縮小の実現と基地依存経済からの脱却の2つがそれである。

もっとも、そうはいっても革新陣営が基地問題をより重視し、一方の保守陣営が経済問題をより重視したことは間違いない。当時は米ソが激しく対立した冷戦の時代であり、そのなかで基地の返還もなかなか進まず、さらに基地経済からの脱却もいまだ射程内に入っていなかったことから、沖縄の政治空間は経済振興を優先する保守の主張に適合した空間であったといえる。実際の政治は復帰後の72年から78年までは屋良(朝苗)・平良(幸市)の革新県政が続き、その後78年から90年までは保守の西銘(順治)県政が続くことになるが、どの県政にせよ、本土との格差是正や経済振興に力を注いだのは、こうした課題を抱えた政治空間にあったからである。

2. 冷戦終結後の沖縄政治と本土との関係

しかし、こうした状況は米ソ冷戦が終結した1990年代に入ると、変化してくることになる。まず第1の変化は基地の整理縮小を求める県民意識の高まりである。第2は基地の大規模返還の可能性が出てきたということである。そして第3は基地経済の比重が大幅に低下してきたということである。こうした変化を受けて、これまで経済を重視してきた保守陣営も基地返還をより現実的な課題として視野に入れはじめ、一方の基地問題を重視してきた革新陣営も返還後の経済問題をより具体的に見据えるという形で、両者の距離は事実上接近してきたのである。

このことは、沖縄の政治空間が基地の整理縮小と経済振興を同時に推し進めることを課題とするような空間へと移行していったことを意味するといえる。実際の政治は90年から98年までは革新の大田(昌秀)県政が続き、その後は稲嶺(恵一)・仲井真(弘多)の保守県政が続くことになるが、その追求すべき課題は2010年代に入るまでのおよそ20年間、同じであったということである。

したがって、冷戦終結後の保革の具体的な争点を考えると、実は普天間基地の名護市辺野古への移設を容認するのか否かという一点にのみ、事実上絞られていくのであった。しかも重要なことは、移設を容認する保守にしても、決して無条件の容認ではなく、「使用期限」をつけたいわば条件つきの容認であったということである。米軍絡みの事件・事故や土地の強制接収など、広大な米軍基地あるがゆえの“不条理”を数多く経験してきた沖縄では、「使用期限」をつけての移設でさえ、なかなか県民の理解を得ることは困難だったのである。

しかし、こうした状況は2010年代に入ると、さらに大きく変化することになる。2009年に民主党政権が誕生し、普天間基地の「県外移設」を模索しはじめたからである。これまで「苦渋の選択」として「県内移設」を容認してきた沖縄の保守は、この動きを受けて、ついに「県外移設」へと大きく舵を切ることになる。かくして、沖縄では県内移設に反対する超党派の動きが生み出されるのであった。

保革のイデオロギー的対立と系列化の時代をくぐり抜けた上で形成された、いわば第二の「島ぐるみ」ともいえる動きである。

3. 新たな政治空間へ

この一連の超党派の行動を保守の側で主導したのは、当時那覇市長であった翁長雄志(現沖縄県知事)である。この超党派の動きについて翁長は、次のように述べている。「自民党〔政権〕の時にも、民主党〔政権〕に変わっても、結果的に沖縄に基地を置いておけということになった。オールジャパンで、沖縄に基地を置いておけということになっちゃった。…オールジャパンに対してはオール沖縄で結束しないと駄目だ」。この「オール沖縄」の基盤には、翁長のいうウチナーンチュ(沖縄人)としての「アイデンティティ」があったことは間違いない。

また県外移設を求める沖縄の民意がないがしろにされるという状況が続くなか、革新陣営が唱えてきた「自己決定権」の主張、すなわち「沖縄のことは沖縄みずからが決める」という主張が、翁長のアイデンティティ論とも絡み合って、沖縄で力をもちはじめることになる。米軍統治下で自治権を拡大させていった歴史や、さらに琉球王国時代の歴史などが様々な形で結びついて、沖縄では「自立」や「自治」を求める動きが活発になっていくのである。かくして、沖縄の政治空間は辺野古移設を阻止することと沖縄の「自立」や「自治」を実現することをもその課題とするような政治空間へと移行し、いわばそれを追求してきた革新陣営の主張にマッチした空間になっていくのであった。

一方、本土側をみれば、冷戦終結によって保革のイデオロギー的対立が終焉を迎え、しかも一方の当事者であった革新勢力が衰退していくなか、その政治空間はいわば「保守的」なものへと変化していくことになる。冷戦終結後に保革が接近し、次第に「革新的」な政治空間に移行していった沖縄とは正反対の方向である。したがって、「右傾化」していった本土側からみると沖縄の政治空間は異質なものとして映りはじめ、逆に「左傾化」していった沖縄側からみると本土の政治空間は理解しがたいものとして映りはじめ、かくて両者の対話を可能ならしめる土台自体が、崩れはじめてきているのである。

例えば、2007年の高校歴史教科書検定をめぐる両者の対立などは、こうした文脈の中に置いてこそ、より深く理解できるのではないだろうか。これは、沖縄戦での「集団自決」が日本軍の命令・強制・誘導によるものだという記述が文部科学省の検定過程で削除・修正され、これに沖縄側が強く反発した出来事を指す。この「沖縄戦認識」をめぐる対立は、ちょうど教育基本法の改正、防衛庁の省昇格、そして憲法改正国民投票法の制定などを次々と推し進めて保守色を鮮明にした第一次安倍(晋三)政権の時期にあたり、しかも「南京事件」や「慰安婦問題」をめぐる歴史論争が活発に行われていた時期にもあたる。こうした状況のなか、沖縄では超党派の県民大会が11万人(主催者発表)を集めて開催されるのであった。

興味深いのは、この県民大会の実行委員長を務めたのが自民党の仲里利信県議会議長であり、しかも仲井真知事まで参加して開かれたということである。国内で唯一住民を巻き込んだ熾烈極まる地上戦が繰り広げられた沖縄では、日本軍による住民殺害や壕追い出しなどの事例も多くみられ、そうしたみずからの戦争体験や戦争認識を否定するような動きが生じると、保革に関係なくこれに強い反発と抵抗を示すのである。

いま1つ沖縄と本土の関係を考える上で重要なことは、1950年代から60年代にかけて両者の間に満ちていたあの「国民的一体感」すなわちナショナリズムが、日本復帰から40年余を経た今日、いよいよ衰退してきているのではないか、ということである。

かくして、イデオロギー的対立も消滅し、しかも両者をつなぐナショナリズムも衰退していくなか、そこから立ち現われてくるのは、「オール沖縄」と「オールジャパン」という二項対立の構造となるわけである。

4. 戦後日本が解決できなかったもの

さて、このように戦後70年を経てここまで本土と沖縄の溝を深めてしまったのは、一体何であったのだろうか。その最大要因は、国土面積のわずか0・6%にすぎない沖縄に在日米軍基地(専用施設)の73・8%(2万2700ヘクタール)が集中しているという状況を、すなわち「基地の過重負担」を戦後日本が解決できなかったことにあると考える。

そもそも米軍基地に対するある種の「負」のイメージは、まだ全国各地にそれが多く存在した1950年代や60年代の本土においても、例えば岸信介や佐藤栄作などの保守政治家にしても、皆が共通にもっていたものである。対日平和条約の発効時に13万5200ヘクタールの米軍基地があった本土では、50年代末から急激にそれがなくなっていき、80年代には実に8500ヘクタールにまで減少することになる。かくして本土では、日米関係に付着する「負」の感覚も次第に薄れていき、いわば「正」のイメージをもった「日米同盟」という言葉が定着していくのであった。

基地という最も重要な「実」の部分の大半が沖縄に局地化されてみえなくなる一方、その「実」の部分を脇に置いたまま、「日米同盟」が深化・発展していくという構図である。

おわりに

以上、本稿の議論から導かれる結論は、戦後70年を経た今日の沖縄と本土の関係は、もはや辺野古移設をめぐる対立関係を超えて、両者の拠って立つ政治空間そのものが異なるところにまで達しているのではないか、ということである。そしてその政治空間の違いをつくり出している最大の要因は、戦後日本が沖縄の過重な基地負担を根本的に解決できなかったことにある、というのが筆者の見解である。したがって、知的にも実践的にも今後の重要な課題は、この過重な基地負担を解決できなかった戦後日本の安全保障体制をどう克服するのか、また沖縄と本土の政治空間をどう再構成するのか、ということではないだろうか。

翁長雄志は次のように述べている。「なぜいま歴史を問い直さざるを得ないのか。それは、いま現に沖縄において基地が異様なかたちで存在するからです。…『琉球処分のときもこうだった』『戦争中もこうだった』と幾度も歴史を呼び戻し、そこから物事を発想せざるを得ないのです。もし基地がなくなれば、私たちは過去を忘れることができるでしょう」。

さて私たちは、沖縄が「過去の話を持ち出さなくて済む」ような状況をつくり出すことができるであろうか。それは上記の課題をどう解くかにかかっているといえる。

平良 好利

  • 獨協大学地域総合研究所特任助手