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【書評】ヤン=ヴェルナー・ミュラー『ポピュリズムとは何か』(板橋拓己訳、岩波書店、2017年)

April 19, 2021

高橋義彦(北海学園大学)

本書の概要
内容の紹介
本書の特徴と論点
 ・ポピュリズムとデモクラシー
 ・「制約された民主主義」

本書の概要

本書は2016年にペンシルベニア大学出版から刊行されたWhat Is Populism?の全訳である。本書の構成は「序章:誰もがポピュリスト?」、「第1章:ポピュリストが語ること」、「第2章:ポピュリストがすること、あるいは政権を握ったポピュリズム」、「第3章:ポピュリズムへの対処法」、「結論:ポピュリズムについての七つのテーゼ」からなる。また冒頭に「日本語版への序文」として、原著刊行後に生じたいくつかの事例(2016年のアメリカ大統領選挙やオーストリア大統領選挙)へのコメントが付されている(以下カッコ内の数字はすべて本書のページ数を指す)。 

内容の紹介

ミュラーはまず序章で「いかなる種類の政治アクターがポピュリストとみなされるのか」、彼自身の基準を示している。それは「反エリート主義者」であることに加えて「反多元主義者」であるという基準である。この多元主義を否定する点において、ポピュリズムは民主主義の脅威である。

1章ではポピュリズムという「明らかに政治的に論争的な概念」(15)を定義するために、まず従来のアプローチの問題点が指摘されている。そこで挙げられるのは①「投票者の感覚に焦点を当てた社会心理学的な視座」、②「特定の階級に着目する社会学的分析」、③「政策提案の質の評価」の3つのアプローチである。またポピュリストを自称したからと言って、その政治アクターがポピュリストであるとは限らない。

それに対してミュラーが提示する定義は「ポピュリズムとは、ある特定の政治の道徳主義的な想像であり、道徳的に純粋で完全に統一された人民と、腐敗しているか、何らかのかたちで道徳的に劣っているとされたエリートとを対置するように政治世界を認識する方法」というものである(27)。ポピュリストは単にエリートを批判するだけでなく、多元主義を否定して「単一」の人民を想定し、自分たちだけが人民を代表し、反対する勢力は非道徳的であると批判する。もちろん「人民」の名のもとに政治を行うことそれ自体がポピュリズムであるわけではない。問題なのは人民の一部を人民そのものとみなし、自分たちだけが人民を代表していると訴えるそのロジックなのである。

ポピュリズムとは代表制民主主義の影であり、代表という理念それ自体に反対するわけではない。ポピュリズム的代表とは、単一の共通善を認識した単一の人民を代表して政策を実行する特定のタイプの指導者である。人民の意志に基づくと称するポピュリズムは、ルソー的であり、命令委任的であり、直接民主主義的に見えることもあるが、それは人民の参加や熟議を経たものではなく、あくまでポピュリスト政治家が人民の意志と解釈したものに基づく統治に過ぎない。そして自分たちが排他的に人民を代表しているのだと主張するポピュリストにとって選挙での敗北はありえないものであり、不利な結果が出た際には容易に陰謀論に傾くことになる。

それではポピュリスト指導者とはどのような特徴をもつのだろうか。ミュラーはナディア・ウルビナーティの用語を借りてそれを「直接代表」と呼ぶ。つまり人民と「直接的なつながりと同一化の感覚」をもった指導者である(45)。そこでは様々な媒介手段は排除される。ツイッターを選挙キャンペーンで駆使したトランプはその代表的な例と言える。そしてこうした指導者をいただくポピュリスト政党には党内民主主義が欠けており、党内権威主義の傾向がある。単一の人民の意志を想定する以上、党内に意見の相違はあり得ないからである。

2章では政権を握ったポピュリストが何を行うのかがテーマとなる。ミュラーはその特徴を、①「国家のある種の植民地化」、②「大衆恩顧主義」、③「市民社会の体系的抑圧」の三点からとらえている(57)。「国家の植民地化」とは非党派的であるべき官僚機構や司法組織、メディアなどを無力化し、自らに有利なように作り替えることを意味する。大衆恩顧主義とは支持者に対する見返りの付与のことであり、反対に非支持者には差別的な法の適用が行われる。そしてポピュリスト政権に反対する非政府組織などは、人民ならざるものとして排除されていく。そして時には自らの権力の永続化を実現するために、(立憲主義的に大いに問題のある)新しい「ポピュリスト憲法」を制定する場合もある。

こうしたポピュリスト的な実践は「非リベラルな民主主義」と呼ばれることがある。ポピュリストは様々なリベラルで立憲主義的な価値に敵対するものの、選挙を廃止してむき出しの権威主義に移行することはしないからである。だがポピュリスト政権を「民主主義」と認定することは問題である。もちろんキリスト教民主主義にみられるような資本主義批判や伝統の擁護という意味での「非リベラル」な民主主義は存在しうる。だがポピュリズムの問題は、その「非リベラル」の内容が、マイノリティの抑圧やメディアの規制、法の支配への介入などと結びつくことにある。これらは非リベラルなだけでなく、「民主主義それ自体」を傷つける。ゆえにミュラーはポピュリスト政権下の民主主義を「欠陥のある民主主義」と呼んだほうが適切だと述べる(73)。

3章ではポピュリズムへの対処法が論じられる。ポピュリズムは大いに問題含みだが、それにポピュリスト的に対処して単に排除すればいいわけではない。ミュラーは「ポピュリストが法の枠内にとどまる限り――そして、たとえば暴力を煽動しない限り――他の政治アクター(およびメディアの人びと)は、彼らと対決する多少の義務がある」と説く(104)。重要なのはポピュリスト「のように」語ることではなく、ポピュリスト「と」対話することである。

最後にミュラーはアメリカとヨーロッパのポピュリズムについて分析を加える。逆説的なことだが、ミュラーの定義に従えば、アメリカで最初のポピュリスト運動である「人民党」はポピュリズム的ではない。むしろそれは憲法を遵守し、「平民」を擁護する運動だった。21世紀に入ってからのティーパーティー運動の興隆やトランプの躍進などがむしろポピュリズムの影響力の増大を示している。ヨーロッパの場合、戦前の全体主義の経験から――ミュラーに従えば国民社会主義とファシズムはポピュリズム運動である――第二次大戦後の各国の政治秩序は「抑制された民主主義」を目指すものとなった。それは無制約な人民主権を忌避し、権力の分散・憲法裁判所のような非選出制度の強化・超国家機関であるEUへの権限移譲などを含むものであった。このように「明示的に反全体主義的で、暗示的に反ポピュリスト的」である秩序は、現在人民全体の名のもとに行動するポピュリズムの攻撃には脆弱になっている(118)。

多くのポピュリストはEUなどのテクノクラシー(専門家による政治支配)を批判するが、実は両者はそれほど離れたものではない。ポピュリストは正しい人民意志、テクノクラートは正しい政治的解という「正解」をもとに議論を組み立てる点は変わらないからである。それゆえ健全なテクノクラシー批判は可能で、テクノクラシー批判がイコールポピュリズムなのではない。「全体に代わる一部分というロジックは用いない政治アクター」、つまり自分たちだけが人民であると僭称しないアクターは民主主義の一部であり、そうした運動とポピュリズムの区別をミュラーは説く。この観点から、「左派ポピュリズム」についてミュラーはそれが「ポピュリズム」を称する限りは危険なものであると指摘する。大切なことは、エリート層をシステムにとどめつつ、排除されている者たちをも包摂する新しい社会契約を可能にすることなのである。そして結論部においてミュラーは、自身の主張を「ポピュリズムについての七つのテーゼ」にまとめている。 

本書の特徴と論点

ポピュリズムとデモクラシー

本書の特徴は明確にポピュリズムの「危険性」を指摘している点にあるだろう。ポピュリズムをデモクラシーの一種とみる「ものわかり」のいい研究もある中で、ミュラーはポピュリズムがデモクラシーにとって脅威であること、それがせいぜいのところ「欠陥のある民主主義」に過ぎないことを強調している。

そしてこの指摘は2021年現在のわれわれにとって、よりアクチュアリティを持つものとなっている。というのも、われわれは2020年のアメリカ大統領選挙とその帰結から、ポピュリズムがいかに民主主義を傷つけるのかという事例を目の当たりにしたからだ。明確な選挙結果が出たにもかかわらず、現職大統領は選挙結果の不正操作という陰謀論を訴えて敗北を認めず、それを真に受けた支持者たちは立法府を暴力で占拠したのである。ミュラーは本書の中で「陰謀論は、まさにポピュリズム自体のロジックに根差したものであり、ポピュリズムのロジックから生まれるものなのだ」(42)と述べている。アメリカの事例はポピュリズムと陰謀論の結びつきというミュラーの議論を、図らずも実証することになった。

もちろんミュラーもポピュリズムとその支持者をただ排除すればよいといっているわけではなく、ポピュリズム支持者たちの感じている「代表されていない」という感覚、その背後にある問題を既成政党はきちんとくみ取るべきだと主張している。ただし「内容の紹介」でもまとめたように、ポピュリストと対話可能なのはあくまで彼らが法秩序を尊重し、暴力に訴えない限りである。この点からも、アメリカ議会占拠事件は、アメリカのデモクラシーがポピュリズムによっていかに危機に陥っているのかを白日の下にさらしたと言えるだろう。 

「制約された民主主義」

ところで、本書にも登場するミュラーの政治論のキーワードが「制約された民主主義」である。これは全体主義への反省から、民意の直接的な反映よりも、抑制と均衡・非選出機関の強化・超国家機関の権限移譲を重視した戦後ヨーロッパのデモクラシーを指す。いわばデモクラシーの自由主義的・立憲主義的要素を強化したものといえよう。

ミュラーは『試される民主主義――20世紀ヨーロッパの政治思想 上・下』(板橋拓己・田口晃監訳、岩波書店、2019年)において、この「制約された民主主義」がどのような経緯で誕生し、様々な挑戦を受けながらも生き延びてきたのかを思想史的に描き出した(本書とぜひ併読すべき文献である)。この「制約された民主主義」は、無制約の人民主権や議会絶対主義を拒否し、非選出機関や法の支配を重視するがゆえに、現在ポピュリストの格好の批判対象となっている。

ここで指摘したいのは、ポピュリズムではなくデモクラシー論としての「制約された民主主義」批判の可能性である。そもそも近(現)代のデモクラシーとは、その原点であったはずの古代ギリシアのデモクラシーから民衆参加の要素を大幅に削減することで成立したものである(モーゼス・フィンリー『民主主義――古代と近代』柴田平三郎訳、講談社学術文庫、2007年)。ミュラーが詳述しているように、こうして誕生したリベラル・デモクラシーは20世紀において、ファシズムやボルシェヴィズム、1968年の異議申し立て、新自由主義、自主管理論など様々な挑戦を受けながらも「制約された民主主義」として生き残ってきた。

しかしそれが人民の参加を抑制したデモクラシーである以上、ポピュリズムならぬデモクラシー論の側からも批判が出てくるのは当然であろう。現在でも熟議民主主義、くじ引き民主主義(ロトクラシー)など様々なリベラル・デモクラシーの代替案が議論されているが、いずれも現代デモクラシーに「民衆参加」の度合いを増していこうとするものといえる。ポピュリズムからデモクラシーを擁護し、ミュラーの言う「新しい社会契約」を可能にするためにも、リベラル・デモクラシーの側のバージョンアップも求められているとは言えないだろうか。

 

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