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【書評】カス・ミュデ、クリストバル・ロビラ・カルトワッセル『ポピュリズム――デモクラシーの友と敵』(永井大輔、髙山裕二訳、白水社2018年)

May 17, 2021

高橋義彦(北海学園大学)

本書の概要
内容の紹介
コメント――ポピュリズムとデモクラシー

本書の概要

本書は2017年にオックスフォード大学出版会からA Very Short Introductionシリーズの一冊として刊行されたPopulism: A Very Short Introductionの全訳である(訳者解説によると、日本語版には原著脱稿後に当選が確定したアメリカのトランプ前大統領に関する記述が追加されている)。本書は6章構成で、「第1章:ポピュリズムとは何か」、「第2章:世界中のポピュリズム」、「第3章:ポピュリズムと動員」、「第4章:ポピュリズムの指導者」、「第5章:ポピュリズムとデモクラシー」、「第6章:原因と対応」から構成されている(以下カッコ内の数字はすべて本書のページ数を指す)。 

内容の紹介

第1章の冒頭においてポピュリズムに対するさまざまなアプローチを示した上で、著者はポピュリズムを「社会が究極的に『汚れなき人民』対『腐敗したエリート』という敵対する二つの同質的な陣営に分かれると考え、政治とは人民の一般意志の表現であるべきだと論じる、中心の薄弱なイデオロギー」と定義する(14)。ここでいう「『中心の薄弱な』イデオロギー」の意味とは、ポピュリズムがファシズムや社会主義のような「中心の強固な」イデオロギーとは異なり、他の様々なイデオロギーと結合しうる運動であることだ。この意味でポピュリズムの定義が「広すぎる」という批判はあり得ようが、著者は確実にポピュリズムならざるものが二つあると主張する。それは「エリート主義」と「多元主義」である。「エリート主義」は基本的に「人民」を信頼していないがゆえに、「多元主義」は単一の「人民」を想定しないがゆえに、ポピュリズムとは相容れない。

2章では北アメリカ、ラテンアメリカ、ヨーロッパの三つの地域を中心にポピュリズムの歴史が説明されている。北アメリカでは19世紀から農民を主体とするポピュリズム運動が存在したが、それは大きな勢いを保つことは出来なかった。だが第二次大戦後、反共主義と連動する形でアメリカのポピュリズムは反動的な運動として復活した。現代では「ティーパーティー」運動のような右派的ポピュリズム運動だけでなく、「オキュパイ運動」や民主党の大統領候補であったサンダースに見られるような左派ポピュリズム運動も存在する。

ラテンアメリカも広く持続的なポピュリズムの伝統があるが、その背景にあるのは高い社会経済的不平等と民主的支配の併存である。ラテンアメリカのポピュリズムには三つの波が存在した。第一の波は1920年代から60年代にかけての、コーポラティズム的な傾向をもち、農民や労働者を主体とする運動であった。第二の波は1990年代に生じた新自由主義的なものである。1998年にベネズエラにおいてチャベス大統領が就任したことで始まる第三の波は、社会主義的な色彩を帯びたもので、新自由主義的政策への不満を背景に不平等の是正を求めた。

他方ヨーロッパにおいてポピュリズムが問題となったのは1990年代後半になってからである。背景にあるのはEU統合の深化と移民の増大で、そうした現象への反発として権威主義と移民排斥がポピュリズムと結びついた。だがこうした右派ポピュリズムが勢力を拡大する一方で、左派ポピュリズムも存在する。左派ポピュリズムにおいてもEUは批判対象となるが、その際にはいわゆるトロイカが主導する緊縮財政政策が特に強く批判されている。

3章ではポピュリズムにおける大衆の動員が、①個性的なリーダーシップ、②社会運動、③政党の三つの類型から説明されている。①個性的なリーダーシップによる動員は、文字通り指導者の個性やカリスマ性に対する大衆の支持を通じてなされる。この場合大衆と指導者の「直接的」なつながりが重要視される。②社会運動とは「共有されたアイデンティティと共通の敵をもって、ある目的を追求する非制度的な集団行動に参画する人々を結びつける非公式のネットワーク」(73)である。政党や利益集団との相違は、「非公式」で「非制度的」である点に求められる。③政党はポピュリストがエスタブリッシュメントに対する異議申し立てを行う手段として用いられる。実際に票と議席を獲得することを通じ、社会的運動よりも効果的と言える。

4章ではポピュリズムとその指導者イメージについて論じられる。ポピュリズムというとワンマンな指導者を想定しがちだが、両者のあいだには密接な連関はあるもののそれを混同してはならない。ポピュリスト指導者に重要なことは、エリート批判を通じて自らをエスタブリッシュメントから分離し、人民と結合することにある。著者は性別・職業・エスニシティを事例に、ポピュリスト指導者が自らを「アウトサイダー」に見せかけるその手法を論じている。

5章ではポピュリズムとデモクラシーの関係が論じられている。著者は「ポピュリズムはデモクラシーにとって脅威か矯正かのどちらかとして作用しうる」、「ポピュリズムそのものは民主的制度にとって良いも悪いもない」と述べる(121)。そもそも「(修飾語の付いていない)デモクラシー」の定義とは「人民主権と多数派支配の組み合わせ」である。

だがポピュリズムは「リベラル」・デモクラシーとは相性が悪い。なぜならポピュリズムは無制約な「人民の意志」を唱え、多元主義や少数派の権利保護、さまざまな独立機関(司法やメディア)を非難するからである。人民の声を過信し、選挙を経ない機関を軽視するこの傾向は、「民主的過激主義」、「非リベラルなデモクラシー」に発展する可能性がある。この意味でポピュリズムはデモクラシーの「政治参加」の面ではプラスの影響を及ぼしうるとしても、「公的異議申し立て」の側面ではマイナスの影響を及ぼしうる。

最後に第6章では、ポピュリズムが発生する原因とそれへの対策が論じられる。ポピュリズムは「特定の(複数が組み合わさった)情況下で顕在化」するもので、それは不況や汚職など「社会の存在自体に対するさまざまの脅威が現れているという認識が広まったとき」に動き出す(149)。そしてポピュリスト政治家は、こうした社会の分断を利用して、ポピュリズム的な二元論的言説を作り上げる。ポピュリズムへの対策として求められるのは政治腐敗の防止、そして法の支配の強化である。これに加えて、国民の側に自分が代表されているという感覚を取り戻させることも重要である。

非選出機関による様々な政策決定について、主流派の政治家がきちんと説明しているとはいいがたい。その意味でポピュリズムを支持する人々の反応は間違っているとは言えない。ポピュリズムは「しばしば正しい問いを発して間違った答えを出している」(176)。そうである以上は、ポピュリストやそれを支持している人々を排除するのではなく、彼らと対話する必要がある。大衆レベルでの公民教育を通じて、リベラル・デモクラシーの価値観や過激勢力の危険性を伝えるという積極的な対策も求められる。リベラル・デモクラシーを強化するには、ポピュリズムの需要を低下させることが必要なのである。

コメント――ポピュリズムとデモクラシー

以上のように、本書はポピュリズムの定義から、その歴史、地域間の比較、理論的考察まで包括的に含むもので、ポピュリズムについて学ぶ上で最良の入門書と言える。その一つ一つの論点について踏み込むことはできないので、ここでは著者が第5章で論じている「ポピュリズムとデモクラシー」の関係に的を絞って論じていきたい。著者の言うとおり、これがポピュリズムを論じるうえで最大の論点といえるし、「ポピュリズムもデモクラシー」であるとする著者の立場はそれ自体論争的なものだからである。

要約でも示したように、著者はポピュリズムが、デモクラシーの「公的異議申し立て」の側面ではマイナスの影響を与える可能性があるが、「政治参加」の面ではプラスの影響を与えることもあると論じている。その際著者は政治体制における、民主化と非民主化の「過程」について論じる必要があるとし、それを「完全な権威主義」、「競争的権威主義」、「選挙民主主義」、「自由民主主義」という4つに分けて考察している(この4段階は民主化・非民主化の深化に対応している、128以下参照)。

まず民主化の過程において、権威主義体制が自由化する際にポピュリズムはデモクラシーにプラスの影響を及ぼしうる。ポピュリズムは権威主義体制に対し、人民主権や多数派支配の要求を表明するからである。また競争的権威主義から選挙民主主義への移行の際にも、ポピュリストは建設的な役割を果たしうる。ポピュリストは人民主権の観点から統治者を人民が選挙で選ぶことを求めるからである。だが選挙民主主義から自由民主主義へのデモクラシーの深化においてポピュリズムがプラスの影響を及ぼすことはない。自由民主主義に不可欠な基本的人権を保護するための機関の強化や非選出機関の強化にポピュリストは反対するからである。

次に非民主化の過程において、自由民主主義においてデモクラシーが侵食される際にポピュリズムはマイナスの影響力を持つ。ポピュリストは司法の独立性や法の支配を切り崩そうと試みるからである。選挙民主主義が競争的権威主義に移行する「民主制の崩壊」段階においても、ポピュリズムはこの移行を促進する力をもつ。ポピュリストは自らに有利なようにルールを改変したり、人民の一般意志を阻害するエリートを批判する。だが競争的権威主義から完全な権威主義に移行する「圧政化」の段階においては、ポピュリストはそれが人民主権や多数派支配と相容れないがゆえに反対するであろう。

つまり著者の説明によれば、ポピュリズムは完全な権威主義→競争的権威主義→選挙民主主義という民主化の過程においては「政治参加の拡大」という点でデモクラシーにプラスの影響を与えることがありうるが、一方で自由民主主義→選挙民主主義→競争的権威主義という非民主化の過程においては「公的異議申し立て」を阻害するマイナスの影響をデモクラシーにもたらすということになる。ということは、権威主義体制からデモクラシー体制へのいわば「離陸」の際の推進力としてポピュリズムが役立つことはあっても、確立したリベラル・デモクラシー国家(多くの北米・ヨーロッパ諸国、日本もここに含まれるだろう)の「運航」にとってポピュリズムは悪影響しか与えないということになる。そして著者自身も述べているように、今日「デモクラシー」とは多くの場合「リベラル・デモクラシー」を意味するのである(もちろん現在の世界においてリベラル・デモクラシー国家が少数派に過ぎないという現実はあるのだが)。

この点を強調する理由は、「ポピュリズムもデモクラシー」であるとする本書の議論と、「ポピュリズムはデモクラシーの脅威」であるとする『ポピュリズムとは何か』(板橋拓己訳、岩波書店、2017年)におけるヤン=ヴェルナー・ミュラーの一見対立する議論も、実は(少なくともリベラル・デモクラシー国家にとっては)それほど離れたものではないことを示したいからである。民主化という一つの歴史の過程においてポピュリズムがデモクラシーに寄与することはありえても、確立したリベラル・デモクラシー国家にとってポピュリズムは脅威でしかない。本書の議論においても――ミュラー同様――リベラル・デモクラシー国家にとってポピュリズムはデモクラシーに寄与しないのである。

しかしこれはポピュリズム政治家やその支持者をただ排除すればよいということではない。著者が強調するように、リベラル・デモクラシー国家においても、ポピュリズムを培養する土壌――政治不信や代表と有権者の乖離、経済不況など――が存在することは事実だからである。政治はそうした問題に対処する責任があるし、既存の政党は代表されざる者たちの声をきちんと代表するという責任がある。リベラル・デモクラシー諸国におけるポピュリズムには、そうした問題の存在を可視化する「消極的意味」があると言えるだろうか。

 

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