ポピュリズムにおける人民/民族とファシズム

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ポピュリズムにおける人民/民族とファシズム

R-2021-090

※本稿は、2022年3月9日に開催されたウェビナー「歴史から考えるポピュリズム―戦間期ヨーロッパの経験から」で報告した内容の一部である。

 

ポピュリズム概念は概して、今日の政治現象を理解するための道具として援用される。それを戦間期の政治に適用し得るかどうかは、必ずしも自明ではない。現代的カテゴリーを無批判に歴史に適用することなく戦間期の政治に新たな光を当てるには、準備作業として、ポピュリズムを巡る今日の議論を一層深化させることを要する。

そこで本稿では、近年積極的にポピュリズムについて論じている政治学者ナディア・ウルビナティ(Nadia Urbinati, 1955-)のポピュリズム論を手掛かりとしたい。その成果は近年、『歪められたデモクラシー』(邦訳、岩波書店)や『ミー・ザ・ピープル』などの著作に結実している。これらの作品には、デモクラシーやファシズムとポピュリズムの関係をウルビナティ自身の視角から政治理論的に考察しようとする試みが含まれており、戦間期を扱う際にも参考になろう。以下では、ポピュリズムの「人民」概念及びポピュリズムとファシズムの関係に焦点を絞り、ウルビナティの議論を概観する。

ポピュリズムと代表制デモクラシー
デモクラシーの歪め方
ポピュリズムとファシズム

 ポピュリズムと代表制デモクラシー 

ウルビナティの議論の特徴は、権力を獲得したポピュリズムに焦点を当て、それが既存の代表制デモクラシーを如何にして変容させるのかを分析することにある。彼女に拠れば、ポピュリズムは体制の一つの種類ではなく、代表制デモクラシーの新たな形式、しかも代表制デモクラシーに寄生し、それを変容させ歪める仕方の一つである[1]。ここには明らかに否定的なニュアンスが込められている。ウルビナティは、デモクラシーを活性化させるためにポピュリズムに訴えようとする左派ポピュリズム(とりわけラクラウ)に対してはっきりと距離を取るばかりか、ポピュリズムを記述的に「非リベラルなデモクラシー」と特徴付けるミュデ/カルトワッセルをも批判する[2](この点、「非リベラルなデモクラシー」という特徴付けの規範的含意を問題視するヤン=ヴェルナー・ミュラーと共通する[3])。ならば当然、何故それが歪みだと言えるのか、どのように歪めるのか、についての議論が重要になるところ、それを理解するにはウルビナティ自身の代表制デモクラシー論の一瞥を要する。

ウルビナティは代表制デモクラシーを、「意思(will)」と「意見(opinion)」の「二頭政(diarchy)」と解する。ここで言う「意思」とは、投票権及び、権威的決定を規律する手続・制度を指し、これに対して「意見」とは、そのような制度の外の領域に存する政治的判断・意見を指す。ウルビナティにとって代表制デモクラシーの生命線となるのは、この両者が、互いに関係を持ちながらも別々のものとして存続するということに他ならない。それゆえ、選挙を通じて複数の政党が競争するだけでは充分ではなく、そのような制度的枠組の外側で、普通の人々やメディアによる自由な批判が展開されることが不可欠である。逆に、制度外の「意見」を重視するあまりに公式の制度的枠組を軽視することも、代表制デモクラシーの二頭政と相容れない。「意思」と「意見」が並び立つ構造が維持される必要がある、というのがウルビナティの立場である[4]

デモクラシーの歪め方

それではポピュリズムは、代表制デモクラシーの二頭政を如何に歪めるのか。それは、「意思」の領域における多元主義、つまり複数の政党が対峙する議会制デモクラシーの「手続」を攻撃し、人民の「一部」の「意見」のみを正統性の源泉にすること、によってである。即ち「意思」と「意見」の二頭政を一部の人民の「意見」を特権視することで解消してしまおうとするのがポピュリズムである[5]。そして、このように代表制デモクラシーを歪めるべくポピュリズムは、「人民」や「代表」といったデモクラシーの基本概念の解釈を変更しようとする。

ここでは「人民」に着目したい。ウルビナティに拠れば、本来、デモクラシーにおける「人民」は、具体的な集団などと同一視し得ない不確定(indeterminate)な、いわば開かれた性質を有する。人民が本来的に不確定なものである以上、人民の意思を「特権」的に代表する主体は存立し得ない。人民の名において行為する複数の主体が常に存在し、かくして多元主義はデモクラシーのコロラリーである。だがポピュリズムは人民の「擬制的人格(persona ficta)」の曖昧性に付け込むことで、その「正しい」部分としての「真の人民」を実体化し、多元主義を克服しようとする[6]

ポピュリズムにおいて、そのような「真の人民」が、少数のエスタブリッシュメントに対する「多数」として観念される以上、決定的に重要となるのが「多数」の捉え方である。ウルビナティに拠れば、デモクラシーは確かに「多数による統治」を重視するが、そこで意味されるのは飽くまでも票を数える「手続」としての「多数決原理(principle of majority)」である。しかしポピュリズムはそれに満足せず、「社会の大多数の部分の力」としての「多数支配(majority rule)」に訴え、その大多数(つまり「真の人民」)を特権的に代表する政治を志向する(「多数主義(majoritarianism)」)。だがそれによって生み出されるのは、大多数とはいえ「一部のための統治」に過ぎない。かようにポピュリズムは、「人民」や「多数」といったデモクラシーの基本概念を利用しつつ、実は巧妙にそれらの解釈を変更しデモクラシーを歪めている、というのがウルビナティの見立てである[7]

このような開放性を欠く「人民」の用法は、ウルビナティ以外のポピュリズム論においてもしばしば指摘される[8]。国民社会主義(ナチズム)の例も参考になろう。国民社会主義は「民族共同体(Volksgemeinschaft)」なる概念に訴えたが、歴史家のミヒャエル・ヴィルトに拠れば、そこで用いられた民族共同体は、人種主義的・反ユダヤ主義的な観点から「誰がそれに属すべきでないか」という問いによって規定された、極めて排除的なものであった[9]。今日のドイツの右派ポピュリズムを警戒するヴィルトが、集合的なVolkではなく「平等な権利と平等な自由」を有する「具体的な人間」に着目するよう訴えていることは、理解できないことではない[10]

ポピュリズムとファシズム

では、ポピュリズムはファシズムに対して如何なる関係にあるのか。当然ながら両者の関係を巡っては様々な議論があり得る。例えばミュデ/カルトワッセルは、ポピュリズムの反エリート主義的要素を強調することで両者を切り離す。ファシズムはその動員段階においてポピュリズムに手を出したが、基本的にはエリート主義的なイデオロギーと理解されるべきである、というのが彼らの議論である(「人民」ではなく「国家」ないし「総統」「人種」)[11]。或いは歴史的なコンテクストを重視するフィンケルスタインは、第二次世界大戦後のポピュリズムをファシズムの失墜と関連付ける。「暴力」を称揚し「ジェノサイド」を犯したファシズムは「独裁」に他ならないが、それは第二次大戦後においてはもはやそのままの形では存在し得なかった。かくしてファシズムの失墜後、リベラル・デモクラシーに対する挑戦者としての役割をファシズムに代わって引き受けたのが、暴力的でない「デモクラシーの権威主義的形式」としてのポピュリズムであり、その意味でポピュリズムは「ファシズムの意図せざる帰結」だと言うのである[12]

これに対してウルビナティの議論の独自性は、ポピュリズムとファシズムの共通点・相違点をより理論的に析出しようと試みる点にある。まず共通点として挙げられるのは、反多元主義である。両者は、本来一体のものである人民を分裂させているとして既存の政党政治を批判し、「同質性」に訴える。

しかし、だからといって両者を同一視する議論にウルビナティは与しない。第一に、ポピュリズムはファシズム独裁と異なり、デモクラシーを完全に破壊する訳ではない。選挙や憲法秩序それ自体は――執行権強化等を目的とする憲法改正が図られる場合が多いとはいえ――ポピュリズムにおいて維持され得る[13]

第二に、ポピュリスト指導者は、自身の意思を押し通そうとするファシズム指導者とは異なり、主権者たる人民の「純粋な道具」として振舞おうとする。なお、「正しい人民」の純粋な道具ということからポピュリスト指導者は常に「正しさ」を標榜し責任を回避し得る[14]

第三に、ポピュリズムは権力獲得後も「動員」を必要とする。ウルビナティの見るところ、ポピュリズムはその反多元主義ゆえに強固な全体論(holism)を志向するが、公式の選挙制度等が維持されているため、その全体論は代表制デモクラシーの二頭政においては、「意見」の領域内に留まる(「意見における全体論(holism in opinion)」)。これは全体論が制度の内部において安定化されないことを意味するが、ポピュリズム政党は人民の「無気力」や「無関心」を阻止するためにこの不安定性を必要とする。だがこれはファシズムには当てはまらない。ウルビナティは、全体主義政党は権力掌握後には人民をそれほど必要とせず、人民は厳格な統制の対象でしかないというアーレントの議論を引きつつ、権力獲得後には動員を必要としないファシズムと、常に人民の動員を必要とするポピュリズムの相違を際立たせる[15]

 

以上のようにウルビナティにとってポピュリズムとは、ファシズムと類似した反多元主義をデモクラシーの枠内で巧妙に実現しようとし、代表制デモクラシーを歪める現象である。それはあからさまな独裁ではないが、独裁に転化し得る可能性を孕む。代表制デモクラシーに付き纏うポピュリズムをウルビナティが一貫して批判するのも、ポピュリズムが一見して気づかれ難い危険性を有しているからであろう。「デモクラシーの危機」を喧伝する言説とは周到に距離を置きつつ、デモクラシーが内部から蝕まれていく現象を冷静に分析するウルビナティの議論は、ポピュリズムを切り口とするデモクラシー論として、歴史を見る上でも有意味な知見を提供しているように思われる。

 


[1]Nadia Urbinati, Me the People: How Populism Transforms Democracy, Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 2019, 4-7.

[2] Ibid., 26 ff.

[3] 参照、ヤン=ヴェルナー・ミュラー『ポピュリズムとは何か』板橋拓己訳、岩波書店、2017年、63頁以下。

[4] Urbinati, Me the People, 7 f. より詳しくは参照、ナディア・ウルビナティ『歪められたデモクラシー――意見、真実、そして人民』鵜飼健史訳、岩波書店、2021年、第1章。

[5] ウルビナティ『歪められたデモクラシー』、153154頁。

[6] Urbinati, Me the People, 77 ff.

[7] Ibid., 96 ff.

[8] Cf. Paulina Ochoa Espejo, “Populism and the Idea of the People,” in: Cristóbal Rovira Kaltwasser, Paul A. Taggart, Paulina Ochoa Espejo, and Pierre Ostiguy (eds.), The Oxford Handbook of Populism, Oxford: Oxford University Press, 2017, 607 ff.

[9] Michael Wildt, Volk, Volksgemeinschaft, AfD, Hamburg: Hamburger Edition, 2017, 65 ff.

[10] Ibid., 142 ff.

[11] 参照、カス・ミュデ/クリストバル・ロビラ・カルトワッセル『ポピュリズム――デモクラシーの友と敵』永井大輔・髙山裕二訳、白水社、2009年、5455頁。

[12] Federico Finchelstein, From Fascism to Populism in History, California: University of California Press, 2017, 19.

[13] Urbinati, Me the People, 94.

[14] Ibid., 130.

[15] Ibid., 136-138.

長野 晃

  • ポピュリズム国際歴史比較研究会メンバー/慶應義塾大学法学部専任講師