
ヤングリーダー奨学基金プログラムは、日本財団が1987年に将来の世界を担うリーダーの育成を目指して立ち上げ、1997年からは東京財団が運営を行っている、世界の大学の人文社会科学分野の大学院生を対象に奨学金を給付する奨学制度。日本を含む世界44か国の69大学・大学連合に各々100万米ドルの基金を寄贈し、17,000名 を超える奨学生(Sylffフェロー)を輩出してきた。Sylffフェローは卒業後、外相や中央銀行総裁などを務めたり、学術研究、ビジネス、非営利セクターなど様々な分野の第一線で活躍している |
世界三大音楽院(コンセルヴァトワール)といえば、ニューヨークのジュリアード音楽院、ロシアのチャイコフスキー記念国立モスクワ音楽院とともに「パリ国立高等音楽院」を挙げる人も少なくないだろう。
1669年、ルイ14世によって、王立音楽アカデミーが設立され、その音楽家養成所として、ヴェルサイユ宮殿に設置された王立声楽・朗読学校を起源とする。フランス革命期の1795年に設立され、音楽の高等教育機関として世界で最も歴史と伝統があるからだ。クロード・ドビュッシーやジョルジュ・ビゼーら著名な音楽家を輩出した実績から、世界の音楽院、音楽大学のモデルになっている。
4月24日、パリ19区ラ・ヴィレット公園内のシテ・ド・ラ・ミュジック西側に建つキャンパスを訪れると、各国から精鋭の学生が集っていた。
その中で異彩を放っていたのが東京財団のヤングリーダー奨学基金プログラム(Sylff Association)のフェロー(受給者)として2019年から2年間、修士課程で学んだビラル・アルネムル氏だった。話をすると、戦火のシリアからフランスに亡命した並外れた運命と才能を持つ若き天才、アーティストであることが分かった。
「すべて奇跡の連続でした」。運命の始まりは、赤ん坊の頃、ダマスカスで音楽愛好家だった父親からヴァイオリンの形をした電池式おもちゃをプレゼントされた事だった。
おもちゃのヴァイオリンは音が出なかった。しかし、出ない音を必死に出そうとする息子に音楽の才を見抜いた父親は、アルネムル氏が3歳の時、3か月分の家族の生活費をかけて本物のヴァイオリンを購入して与えた。外遊びの代わりに、音楽学校の地下室に籠ってレッスンに明け暮れた。
クラシック番組のDVDが教師
夜になると、父親は屋根に上り、衛星放送受信アンテナをフランスの周波数に合わせ、クラシック番組をDVDに録画した。そのDVDを再生して一人で学び続けたという。独裁体制だったアサド政権は国外の衛星放送の視聴を禁じていたからだ。
「DVDが音楽の教師」という独学を重ねた2007年、11歳でシリアの若手のための全国コンクールで初めて優勝した。その賞品は日本のソニーが製造した携帯音楽プレーヤーの、青いウォークマンだった。だから「日本とは深い縁がある」と笑みを浮かべた。
さらにシリアのソルヒ・アルワディ国際コンクールで優勝すると、インド、ロシア、カタール、ヨルダン、レバノンでコンサートを開催するようになった。
13歳だった2010年、転機が訪れた。フランス人教師に才能を見出され、南フランスのエクス=アン=プロヴァンス音楽院に入学する機会を得た。
しかし単身で渡仏して1年後の2011年、「アラブの春」を発端に、シリア政府軍とシリアの反体制派による内戦が始まり、以降何年も帰国出来ず、家族に会えなかった。
ダマスカスに残った家族を心配しながら、南仏で毎朝7時から、夕方まで歯を食いしばってヴァイオリンを弾いた。次第にその成果が発揮され、2013年にパリ国立高等音楽院に満場一致で合格し、2014年には地中海青年管弦楽団のソロヴァイオリン奏者に選ばれる。やがてフランスのヴァイオリニスト、ルノー・カピュソンの目に留まり、様々なコンクールで入賞し、2021年にSylffの支援でパリ国立高等音楽院から器楽クラシック音楽の修士号を取得した。
中東和平のための管弦楽団メンバーに
アルネムル氏は、「音楽を通じて争いのない世界を目指したい」と人道的プロジェクトに関わっている。2019年、激しく対立するイスラエルとアラブ諸国出身の若き音楽家達で構成する「ウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団*」のメンバーになった。(*1999年にユダヤ系指揮者ダニエル・バレンボイムとパレスチナ系文学者のエドワード・サイードにより設立されたオーケストラ。サイードが2003年に死去後も、「共存への架け橋」を掲げてバレンボイムを指導者として活動を続け、2005年にはパレスチナ自治区ラマラで演奏会を開き、2007年に高松宮殿下記念世界文化賞の若手芸術家奨励制度に選ばれた。)
同年9月には、ジュネーブの国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)がレバノンのシリア難民の子供達の小学校を建設しようと開催したコンサートで、米国の世界的な歌劇歌手で人権活動家のバーバラ・ヘンドリックスと共演した。
ダニエル・バレンボイム、ルノー・カピュソン、エレーヌ・グリモーなどの一流のミュージシャンと共演して2021年に文化的影響に貢献した人物としてフランス政府から認定され、フランス国籍を取得した。
南仏の山村で感謝のコンサート
会えなかった家族とも内戦開始から5年後の2016年、再会出来た。妹、両親が二つのスーツケースを持って南フランスのエクス=アン=プロヴァンス近くの絵のように美しい山村、ヴォーヴナルグに逃れて来て、家族が再び一つになった。
両親を受け入れてくれた感謝の気持ちを込めて2022年7月、ヴォーヴナルグでクラシックコンサートを開いた。セザンヌが描いたサント・ヴィクトワール山の麓、パブロ・ピカソが埋葬されている城の近くの人口千人の山村に、ベートーヴェンとメンデルスゾーンの音楽が響き渡った。
「東京財団と日本にも感謝したい」。戦火のシリアから逃れて国際的なソリストに成長したアルネムル氏は困難を乗り越えるために受けた多くの支援を決して忘れない。
祖国はアサド政権が崩壊(2024年12月8日)したものの、治安の悪化や地域ごとの勢力争い、人道危機の深刻化が続き、安定には程遠い状態だ。シリアが世界と音楽で交流するための非営利団体をスイスで共同設立したアルネムル氏は、「『Citizen Musician』として祖国に平和と安定が訪れるように、積極的に社会活動に取り組みたい」と意欲を語った。(文責:岡部 伸)
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