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2018/5/8

明治150年を展望する:第2回「基本条約と憲法から150年を語る」

第2回:基本条約と憲法から150年を語る

争点の限定に失敗しナショナリズムを煽る

細谷 歴史のサイクルやパターンはどのような点に見出せますか。

五百旗頭 私は基本条約と憲法という、二つの観点から提起したいと思います。

   基本条約とは、日本の対外関係、あるいは内政を深く規定する重大な条約という意味で、1850年代、開国の際に結んだ修好通商条約、1920年頃に成立したといわれるワシントン体制、そして戦後の日米安全保障(日米安保)条約の三つです。この150年の歴史は、こうした基本条約への出入り、あるいは接し方から語れると思います。

 それぞれの基本条約には日本にとっての合理性とストレスがありました。

   修好通商条約では、外国人に対して開いた七つの町や港――東京・横浜、大阪・神戸、長崎、函館、新潟――において、外国人が被告の裁判については、外国領事による裁判を受け入れなければなりませんでした。しかし、それ以外の内地は原則として閉鎖し、産業革命が興るまでの時間を稼ぐことができました。

   日本は領事裁判の一挙撤廃は難しいと判断し、領事裁判の運用を改善するかわりに、内地を一部開放するという、部分的な取引を試みます。しかし、あと一歩のところでうまく取引がまとまらず、領事裁判全面撤廃と内地全面開放という取引に跳躍します。日本の法律と裁判への信用が不十分な状態での跳躍であったため、日本の裁判所での外国人法律家の任用、西洋型法典の編纂の約束など、いくつかの評判の悪い譲歩をせざるをえませんでした。

   これに対し、国内で大反対運動が1887年に起こり、以後、日本はまとまりかかった交渉を辞退するということを繰り返さなければならなくなりました。

   ワシントン体制は、日本を含む列強が、中国大陸での既存の権益は維持するかわりに侵略をやめて軍縮するというものでした。変化を求めるのは中国の側でしたが、中国には部分的な取引をするのが難しいという事情がありました。中国の条約はアヘン戦争以来の何度かの敗戦のなかで結んできたので、日本のように内地の閉鎖に成功していなかった。したがって、基本的に全部無償で返せ、という革命外交になりやすい。このことは、日中双方の強硬論を制御困難にしました。

 日米安保条約は、米軍による防衛のかわりに、行政協定のもとで米軍基地を受容するというものです。基地による地域社会の痛みは大きく、岸信介内閣(1957年2月~60年7月)は行政協定の改正を考えましたが、条約本体の抜本改正に跳躍し、その後に行政協定の改正も付け加えました。アメリカ側は、国務省と軍部の調整が大変でした。しかしそれだけにアメリカ政府内部でさまざまな可能性を検討済であり、日本側の要求の拡大に比較的柔軟に応じました。日本側の安保闘争にもかかわらず日米安保条約改定は成功し、日米安保条約の正統性は高まったものの、岸は退陣を余儀なくされました。

   これらに通底するパターンは、政治が争点の限定に失敗すると、在野のナショナリズムの限定が困難になるということです。日米安保条約については、そうした事態をどうコントロールするか今後も考えるべきだろうと思います。

 

ハイブリッド型の憲法体制と原理主義の台頭

細谷 憲法の観点からはいかがですか。

五百旗頭 憲法についても、戦前と戦後をマクロに比較することは有益だろうと思います。

   大日本帝国憲法(明治憲法)は1889年に制定され、翌年に国会が開設されました。憲法はドイツ諸邦を中心とする先例を参照し、君主権を強調するものでした。

   ここで重要なことは、憲法・国会ができるより前に、1880年代を通じ政党が発達していたことです。政党は憲法を運用によって事実上改造していくという発想を強くもち、特に立憲改進党はイギリスの議院内閣制に近い運用を主張しました。

   この憲法は、君主権を擁護するだけでなく、在野の自由民権運動が納得する水準を慎重に判断してつくられました。衆議院が予算に対する事実上の拒否権をもっていたため、政党進出の潮流を拒絶し続けるのは難しく、その後20年余りの間に有力な藩閥指導者――伊藤博文(1841~1909年)、桂太郎(1847~1913年)が相次いで政党に身を投じ、1920年代には、二大政党の間の政権交代が慣例化します。

   とはいえ、政党や議院内閣制が憲法に規定されていなかったことはやはり弱点で、1930年の昭和恐慌や翌年の満州事変によって統治能力が疑われると、政党内閣は崩壊します。政党内閣に敵対的な勢力は「国体明徴」と唱え、美濃部達吉(1873~1948年)の憲法学説を批判し、欽定憲法に忠実な政治を提唱することができたわけです。

   ひきくらべて戦後の日本国憲法ですが、米軍の占領下で1946年に制定されます。議院内閣制を規定するので、その意味で、イギリス型でした。しかし、国会関係のルールにはアメリカの影響がありました。内閣は国会の審議日程をコントロールできず、第二院(参議院)の権限も強い。

   戦前の政治体制が独‐英のハイブリッドだとしたら、戦後は米‐英のハイブリッド。これは内閣の議会対策にとって不都合でした。

   これを背景に、自民党内で確立したのが与党事前審査制です。与党内で法案を審査させるかわりに、いよいよ議会に提出した法案には与党議員は協力し、野党との日程をめぐる駆け引きをがんばります。政調会部会を拠点に、政策分野ごとに族議員が発達しました。業界もここに要望を持ち込み、官僚もここに働きかけて、調整に従事する。自民党は政権与党になることで政官財の調整を党内に抱え込む。党内に抱え込むことで与党の立場を再生産できたわけです。

   このようにして、自民党が長期に政権を担ったことは、西側陣営に安定的にとどまり、経済成長を達成するうえでプラスでした。

   冷戦後、1990年代に日本は政治改革を行います。憲法が想定していたところの議院内閣制をより忠実に実現することを目指しました。そのために、小選挙区を中心とした、小選挙区比例代表並立制を1996年から衆議院議員総選挙に導入して二大政党化を促し、政党執行部を強化したわけです。

   自民党はこの選挙制度のもとで一度政権を失い、いまはこの選挙制度に過剰適応しているように見えます。選挙では、野党に勝利するために利益配分を約束して財政再建を遅延させ、政権を確保すると折に触れて高姿勢が垣間見える。

   与党をけん制するのが野党のはずです。ところが、比例代表部分も存在しているため、小党が存続・発生しやすく、野党の分裂を招いています。

   このように、戦前も戦後も憲法の明文と運用にずれがあるハイブリッド型の憲法体制で、時代に合わせた変化が容易です。戦前・戦後を通じて民主化と経済成長を達成しました。ただし、制度の全体像が理解しにくく、憲法の精神なり民意なりが貫徹していないという不満が生まれやすい。

   その結果、戦前も戦後も、40年ほど時間が経つと、根源的なルールに戻せ、という原理主義が台頭します。原理主義は、仮にその方向性が正しいとしても、制度を運用するうえでの注意深さやバランス感覚が失われやすいのは問題です。

 

「第1回:歴史の教訓を現代につなぐ」