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Brexitカウントダウン(10)離脱撤回の理想と現実(後編)
Brexitを前にロンドンからアムステルダムに移転した欧州医薬品庁(EMA)(写真提供:GettyImages)

Brexitカウントダウン(10)離脱撤回の理想と現実(後編)

June 3, 2019

鶴岡路人

主任研究員

離脱意思撤回の手続きや世論の状況を検討した「前編」を受けて「後編」は、仮に離脱意思が撤回された場合にいかなる問題が発生するかに焦点をあてたい。

残留論の幻想

再度の国民投票により残留が選択されれば、Brexitという、この数年の英国とEUをともに悩ませた大問題は消えて無くなるのだろうか。残留は万能薬になり得るのか。まずはこの点をはっきりさせる必要がある。というのも、「離脱がここまで迷走してしまった以上、残留以外に解決策はない」という声を聞くことが多いからである。

結論からいえば、残留を決定すればBrexitにまつわる問題が全て解決すると考えるのは幻想でしかない。Brexitは、いつまでも付きまとい、英国とEUの双方を悩ませ続ける可能性が高い。それは、影や幽霊といったレベルではなく、可視的・実存的な脅威であり続けるだろう。 

英国の離脱意思が撤回されたところで、何事もなかったかのように、2016年6月23日以前の状態に戻ると考えるのは現実的ではないということである。EUからの離脱など簡単だと喝破した離脱派には反省が求められるが、離脱意思撤回でBrexit問題から解放されるとの主張には、ほとんど同じ程度に疑ってかかる必要がある。 

残留条件交渉とは何か

従来の英国は――そしてそれは、従来の加盟国の地位が継続しているために今日も制度的には変わらないわけだが――EUのなかでさまざまな「特例措置」、いわば特権を享受してきた。それには、共通農業政策(CAP)による受け取り分が少ないことが考慮されての予算の一部還付措置(リベート)や、単一通貨ユーロ(経済通貨同盟)や欧州基本権憲章などからのオプト・アウト(適用除外)が含まれる。

英国が残留する場合に、こうした従来からの特権が、どれだけ継続可能であるかは不明である。本稿「前編」で触れた2018年12月のEU司法裁判所の判断は、英国が離脱意思を撤回した場合、権利・義務を含めて加盟国としての地位は不変であるとした。しかし、それはあくまでも法的な議論である。そして、特例措置は、ものによって根拠が異なるのである。EMUや基本権憲章などに関するオプト・アウトは、EU基本条約との関係において認められているものだが、EU予算のリベートは政治交渉に左右される部分が大きい。そうした特例措置は、他国にとっては「なぜ英国だけが特別扱いを受けられるのか」という嫉妬の対象になっている点も忘れてはならない。

残留にあたって、英国がこれまで享受してきた特権が部分的にでも剥奪されるのだとすれば、そのような形での残留には反対するとの声――「屈辱だ」や、「それなら離脱の方がマシだ」といった感情論――が英国内で沸き起こる可能性がある。離脱にあたって離脱条件を詰める交渉が必要だったように、残留にあたっても残留条件を詰めなければならず、法的に担保されているオプトアウトには変更がないはずだが、それ以外に関する結果は自明ではない。残留条件交渉も一筋縄ではいかないだろう。

また、Brexitを前にすでに実施に移されてしまった措置もある。英国に所在していたEU機関の移転はなかでも象徴的なものだろう。欧州医薬品庁(EMA)は2019年3月に、欧州銀行監督局(EBA)は同6月にそれぞれロンドンから、アムステルダムとパリに移転した(EBAは6月3日に新本部で業務開始予定)。これらの移転先は、2017年11月に決定されていた。これら機関は、医薬品の基準認証や銀行監督という、単一市場の円滑な運営に不可欠な役割を担っており、Brexitによる業務の停滞が許されなかった。そのため、Brexitの日までに移転すべく準備が進められたのである。結果としてBrexitに先行するかたちになってしまったのは、Brexitが延期になったからである。今後仮に英国がEU離脱を撤回した場合でも、これらの本部が英国に戻ることは考えられない。それどころか、もし残留したとしても、今後、新たなEU機関を英国に誘致するのは難しくなることが予想される。再び離脱となった際にまた移転しなければならないリスクを背負うことになるからである。 

終わらない離脱キャンペーン

ただし、そうした技術的問題に加えて直視せざるを得ないのは、残留決定後も英国内では、離脱派が消滅する可能性が皆無だとの現実である。たとえ再度の国民投票で残留派が勝利したとしても、前回同様の僅差だったとした場合に、「どちらの52%」に正当性があるのかは厄介な問題である。1973年の加盟後に、残留か離脱を問うた1975年の国民投票のように、3分の2が残留というような決定的な差が生まれれば、有無をいわせない力が生まれるが、そこまで差がつく可能性は現実的には乏しい。

その場合、2度目があるのであれば3度目があってもおかしくない、ということにもなる。負けた方が再度の国民投票を求めるというサイクルが発生しかねないのである。選挙のたびに国民投票の実施が焦点になるような状況が続けば、英国政治において、他の政策課題に悪影響が及ぶことも避けられない。

皮肉なことではあるが、Brexitが実現しない限り、Brexitというアジェンダは終わらないのである。これは英国の国内的結束という観点でも深刻である。「残留支持だったが、(1度目の)国民投票で民意が示された以上、それに従う」という消極的離脱派は、英国的なジェントルマンシップという以上に、離脱撤回がもたらし得る茨の道をリアルに感じ取っているのであろう。 

EUにとっても懸念される悪夢

離脱撤回をしつつ、離脱が常に政治的アジェンダに残り続けるような状況は、EUにとってもほとんど悪夢である。英国が離脱意思を撤回する場合、その時期も重要になる。というのも、EUは2019年秋に、新任の欧州理事会議長、欧州委員長、外交安全保障政策担当上級代表などの下で新たな出発をすることになっているからである。人事をめぐる政治折衝はすでに本格化しているが、英国は自らの選択として「蚊帳の外」である。英国の現行の離脱期日は10月31日であり、翌11月1日に新たな欧州委員会が発足予定である。

新体制になった欧州委員会の下では、2021年から7年間のEUの予算に関する多年次財政枠組み(MFF)の交渉が早速大詰めを迎える。いつの時代も、予算配分はEU政治の最も大きな論争点である。これに英国が加わるか否かは他国にも無視できない影響を及ぼす。

加えて、2016年6月以降のEUでは、英国が離脱することを前提としてさまざまな決定がなされてきた。特に2017年3月の正式な離脱プロセスの開始以降は、英国抜きの「EU27」による会合も増えた。EUの日々の現場からの英国のいわばフェーズ・アウト(phase-out)は、すでにかなりの程度進んでいるのである。理事会以外にも、常駐代表委員会(COREPER)や政治・安全保障委員会(PSC)には英国代表が出席し続けているが、発言はEU27が終わった後、最後に行うのが慣例化しており、その発言にしても誰も聞いていないというのが実態のようである。失われた立場と信頼を取り戻すのも容易ではないだろう。

防衛協力分野における協力の進展も、英国の離脱を見越した動きである。有志諸国による協力枠組みである常設構造化協力(PESCO)は、従来英国の反対により実現していなかったが、英国が拒否権を行使しなくなったことから発足した。

「離脱に向かう(departing)」加盟国として、英国もEUの政策決定への関与のレベルを低下させ、EU27に異論を唱えるようなことも控えてきたのである。そうした状況が続いた後に英国が残留を決定した場合に、どのような事態になるのか。これまで英国抜きで決められた事項に、ことごとく反対論を提起していくのか。全会一致が求められる防衛分野で拒否権を乱発するのか。EU側にとっては深刻な懸念である。

しかもEUは、上述のように、今回のプロセスにおいて離脱意思の撤回があったとしても、将来いつまた離脱に傾くかわからない加盟国を抱え込むことになるのである。EU統合全体、特にEUの結束という観点で深刻な影響を及ぼすだろう。英国の同意しないEUの決定があるたびに「それなら離脱する」という声が聞こえるような状況になれば、運命共同体だと考えられてきたEUが質的に変化しかねない。

さらに、今回離脱意思の撤回があったとしても、それは戦術的な仕切り直しに過ぎないかもしれない。というのも、EU側の定めた時間的制約の下で交渉するのが不利だと英国が考えれば、時間稼ぎのために、離脱プロセスをいったん停止したいと考える可能性が否定できないからである。そのためにEUは、時間稼ぎのための離脱意思撤回は受け入れられない旨を強調しているのである。しかし、EUとしてこれを法的に阻止する手立てはなく、信義の問題にならざるを得ない。これまでの離脱交渉だけでも、EU 27としては、十分に英国に振り回されたと感じている。それがさらに続くとなれば、少なくとも政治的には不満が爆発することになるだろう。

それでも、繰り返しになるが、EUに英国の残留を拒否する権限はない。しかも、「英国のいるEU」と「英国の抜けたEU」とでは前者の方が、域内市場の価値においても世界のなかでの影響力を考えても、EUの利益になるとの客観的状況も変わらない。そのうえで、上述のような、一度離脱を決定した後の残留がもたらす悪影響にどのように対処できるかがEUには問われているのである。 

残留のコスト分析の必要性

以上みてきたように、英国が離脱意思を撤回し、残留を選択する場合にも、残留条件の交渉やさらにその後を含めて難題が山積みである。今後のBrexit議論において、残留という選択肢を視野に入れるからには、残留に関する安易な理想論を乗り越え、残留のリアルな姿、すなわち残留のコスト分析への理解の拡大と準備が不可欠になる。これは残留派の大きな責任である。それは同時に、他の選択肢との間での選好順を判断する際の材料にもなる。そのため、離脱派にも、「民意の無視」といった感情的反発や警戒を超えて、残留シナリオを精査するなかから問題点を指摘する姿勢が求められるのではないか。

2016年の国民投票の際には残留を期待し、その後は、離脱撤回を密かに期待し続けてきた多くの日本人も、残留で全ての問題が解決するような幻想を抱いてはならない。Brexitには、「覆水盆に返らず」という側面が存在するのである。

 

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    • 鶴岡 路人/Michito Tsuruoka
    • 元主任研究員
    • 鶴岡 路人
    • 鶴岡 路人
    研究分野・主な関心領域
    • 欧州政治
    • 国際安全保障
    • 米欧関係
    • 日欧関係

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