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賃金・物価好循環を持続させる政策パッケージを
画像提供:Getty Images

賃金・物価好循環を持続させる政策パッケージを

June 3, 2025

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税・社会保障研究 レビュー・論考・コラム

令和74月より、「税」や「社会保障」をテーマとしたコラム(Review)を、以下の執筆者が交代で執筆してまいります。掲載されたコラムは「まとめページ」からご覧いただけます。

小黒一正(法政大学経済学部教授)、佐藤主光(一橋大学国際・公共政策研究部教授)、高橋俊之(日本総合研究所特任研究員)、土居丈朗(慶應義塾大学経済学部教授)、山田久(法政大学教授)、森信茂樹(東京財団研究主幹)、岡直樹(東京財団主任研究員)

◆トランプ関税ショックの衝撃

トランプ米大統領が「解放の日」に国別の相互関税を発表した後、わが国の経済財政運営を取り巻く環境は一変した。トランプ氏はビジネスマン出身なので景気にはプラスの政策を打ち出すはずだ、という事前の甘い期待は裏切られ、これまでの経済学の常識を無視した高関税政策が世界経済を失速させるリスクを高めている。その後トリプル安(株安・債券安・通貨安)の進行で軌道修正を図る兆しはみえるが、トランプ氏が「ディール(取引)」の秘訣と考える「予測不能性」はビジネスが最も嫌うものであり、世界経済が大きな下振れリスクを抱える状況が続くことは変わらない。そうしたなか、わが国にとっては実に悩ましい事態となった。長年苦しまされてきたデフレから漸く脱出し、経済・財政・社会保障の再建の前提となる、賃金・物価の好循環が形成されつつある大切なタイミングでの想定外の衝撃となったからだ。

振り返ればパンデミック後の世界的な物価高騰は、「貿易収支の赤字基調化」や「労働供給制約の本格化」といった構造的要因と相まって、長年わが国を苦しめてきた「デフレ・ノルム」を大きく減退させ、物価と賃金が同時に上昇するという「当たり前の経済」の復活を可能にした。わが国はベースアップがゼロ%台という異常な状況からは抜け出し、2023年には春闘賃上げ率が30年ぶりの高さとなった。翌24年にはバブル期並みの伸び率を回復し、さらに2025年にはその24年を上回る勢いでスタート。トランプ関税のショックは、名目賃金伸び率は着実に高まり、マイナスが続いてきた実質賃金も漸くプラスに転じるとの期待が高まっていた矢先のことであった。

(図表)わが国の貿易収支、労働投入量、名目賃金 

◆財政・社会保障制度再建の前提としての賃金・物価好循環

巨額の財政赤字が常態化したわが国の現状では、名目賃金および実質賃金の双方同時のプラス定着こそ、持続可能な財政・社会保障を再建するための大前提となる。未曾有の国家債務を抱えるわが国の財政の現状はとても持続可能とはいえず、結果として社会保障制度も持続可能とは言い難い。社会保障の持続可能性を回復するには、自然増収ではとても足りず、歳出削減か国民負担の増加が必要になる。歳出削減となれば、現下の国際情勢を考えれば防衛費の増額は不可避であり、最大シェアを占める社会保障支出の削減は避けて通れない。だが、安易な削減は国民の不安を煽り、個人消費を悪化させて景気を後退させるため、それには限界がある。不況になれば税収が減って財政にはかえってマイナスとなる。つまり、債務の大きい国では社会保障の財政的な健全性を回復するには、経済成長の持続が不可欠になるのだ。その経済成長の持続には、貿易収支の赤字基調化でかつてのように外需に多くを頼れない以上個人消費の回復が必要で、その点で社会保障の信頼性を高めることが前提になる。それには、社会保障費の単なる削減ではなく、社会保障を質的に充実させ、国民の納得を得た形での増税・社会保険料の引き上げが不可欠といえる。

増税・社会保険料の引き上げの原資は、詰まるところは家計所得である。家計所得の最大の源泉は雇用者報酬であり、人口減少社会では雇用者数は伸びないため、賃金の上昇が不可欠になる。家計の負担力の観点からすれば、実質賃金の十分なプラスが重要であるが、名目賃金のプラスも必須である。社会保障分野を含む財政構造の効率化を進めるにあたり、ある分野の支出を減らして必要な分野に振り替えるには大きな政治的な抵抗に会うのが常であり、「デフレ下の構造改革」では何度も頓挫してきた。しかし、名目賃金がプラスで緩やかなインフレであれば、抑制したい分野を減らすことなく、成長させたい分野に大きく資金を分配することで、抵抗を抑えることができる。

そうした意味で、賃金・物価の好循環により、名目賃金・実質賃金が同時にプラスの伸び率になることが、経済・財政・社会保障の再建にとっての最初の一里塚になる。まさにそうした状況が整いつつあるタイミングでのトランプ関税ショックであった。こうしてみれば、いま政府が全力を注ぐべきは、漸く始動しはじめた賃金・物価の好循環の動きを何としても継続させることといえる。

◆好循環持続のための政策パッケージ

この好循環を頓挫させる目下の最大リスクは「不確実性」である。先行きが不透明だと企業はコスト削減に走り、設備投資を抑制し、賃金抑制の動きが広がることになる。現実には、向こう1年程度の残業や賞与は削減され、マクロで見た平均名目賃金の伸び率低下は避けられないだろう。しかし、重要なのは、基本給引き上げ=ベースアップの上昇トレンドを維持することである。

この点で、実は冷静に考えれば、中長期的に賃金を持続的に上げていくことこそが企業経営にとって合理的な判断といえる。なぜならそれは第1に、様々なコストが上昇トレンドに転換したいま、売上げを伸ばすことが企業の生き残りに不可欠で、それには賃上げこそ合理的な判断となるからである。第2に、楽観は許されないもののトランプ氏も米国景気を大幅に悪化させようとは思っておらず、中間選挙のある来年には米国景気が上向き、世界経済も上向きに転じるとみられる。そして第3に、米・中と距離を保ちながらも、TTPEUの連携といった形で大規模自由貿易圏を広げていくことは可能で、それを前提とした成長産業を育成するためには、その分野での積極的な人材投資・賃上げが必要になる。

いま政府に求められるのは、そうした長期的で冷静な視点に立脚した合理的なビジョンを、国全体で共有できるような情報発信であり、その実現に納得性を与える具体的な政策パッケージを示すことである。具体的な政策メニューとしては、以下の4つを柱とすべきと考える。

1の柱は、景気下ぶれの際に機動的な財政政策を講じることである。すでに述べたように、来年秋の中間選挙を控え、いずれ景気に過度なマイナスになる米国の高関税政策は是正されていくとみられるが、当面は高関税が維持され、その経済への悪影響はこれから本格化する。この結果、これから秋ごろにかけて景気が大きく下振れるリスクがあり、それに備えた政策メニューを用意しておく必要がある。トランプ関税ショックはリーマショックやコロナショックといった偶発的な外的ショックと捉えることができ、食料品の高騰も踏まえれば、生活不安を解消する一時金の給付や企業の資金繰り対策は躊躇なく行って良いと考える。もっとも、一部で議論がくすぶる消費税の減税は避けるべきである。中長期的に考えれば、社会保障の便益をわかり易く示して、それに必要な負担は当然という意識を国民の中に浸透させることが不可欠で、消費税減税はそれに逆行する。さらに一端実施すると元に戻すことは簡単でなく、中長期的に財政に穴を開けることで、社会保障制度への信頼性をなくしてむしろ景気にマイナスになる。

第2の柱は、中長期的な賃上げの原資となる生産性向上に向けて、労働力減少を見据えた「集約化支援策」を強力に打ち出すことである。労働力不足が構造的な問題であることを考えると、賃上げができない企業は早晩存続は難しくなるが、今後はそうした調整が前倒しで起こることが予想される。下手をすれば、それが連鎖的な倒産となり、景気下振れのオーバーシュートを引き起こす恐れがある。これを避けるには、機動的な財政刺激策のほかに、これを奇貨として、賃上げのできる企業にヒト・カネの経営資源を集約することを推し進める政策が不可欠だ。具体的には、企業の合従連衡や事業承継に際しての税制優遇や、金融機関が推進した場合の融資への助成金などで推進力を高めることが有効であろう。さらに、特定地域の特定産業全体の「面」としての生産性を高める施策が必要である。例えば、「グループ補助金」のスキームを改善(震災復興時の「中小企業等グループ補助金(なりわい再建支援事業)」の改良)し、地域産業ブランドづくりへの支援、人材育成共同システムづくりへの支援(トレーナーの共同活用等)、DX推進コンサルタントの共同活用などを一括して支援するとよいだろう。

第3の柱は、中小企業の賃上げ原資の確保の鍵を握る価格転嫁の促進である。「パートナップ構築宣言」「下請適正取引等の推進のためのガイドライン」「労務費の適切な転嫁のための価格交渉に関する指針」など、政府はすでに様々な施策を打ち出しており、少しずつ価格転嫁が進み始めている。しかし、そのプロセスはなお道半ばであり、最終的には消費者が価値ある商品・サービスであれば価格が上昇するのは当たり前だ、という「ノルム」が継承される必要がある。ここで忘れてはならないのは、価格転嫁の根拠はあくまで付加価値であり、各企業の自助努力が前提になることだ。その意味で、各企業が自社だからこそ提供できる顧客価値を明確化し、適正価格で購入してくれる顧客にターゲットを絞った事業に経営資源を集中し、適正な値上げに粘り強く取り組んでいく必要がある。政府としては、そうした好事例を収集して公表したり、環境や社会に良い商品・サービスをプレミアム製品として認定したりしていくことで、後押しすることが出来る。

第4の柱は、個別施策となるが、特定最低賃金に注目した最低賃金の引き上げである。最低賃金を巡っては、石破首相の打ち出した「2020年代に1,500円」という目標をどうするかが当面の大きな争点だが、目標を取り下げないにしても、2025年度に7%を上回る引き上げは現実的ではない。むしろ、注力すべきは特定最低賃金への取り組みである。低賃金産業ほど人手不足に苦しむ現状、特定地域の特定産業で充実した政策支援とセットで最低賃金を思い切って引き上げれば、人材確保の面で企業にとってもプラスである。とりわけ、公的な介入が可能な介護・福祉分野のエッセンシャルワーカーの思い切った賃上げに踏み込むべきで、それには直接の賃上げ原資となる財政支援と同時に、デジタルやロボット技術を活用した生産性向上策への集中的な取り組みが必要になろう。

以上の施策を含む政策パッケージのビジョンを策定し、企業マインドが冷え込む前にできるだけ早い段階で政労使会議を開催し、賃上げが合理的だという共通認識を広げ、具体的な取り組みに踏み出すことに期待したい。

    • 法政大学教授
    • 山田 久
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