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ブルガリアを訪ねて驚いたことの一つが、日本ではほとんど忘れられている一人の薩摩武士が、150年近い歳月を経た今も「祖国解放に尽くした日本のサムライ」として語り継がれていることだった。
山澤静吾(1846~1897)陸軍中将である。
1877~78年の露土戦争に日本陸軍の観戦武官として派遣され、ロシア軍と行動を共にした。オスマン帝国軍との最大の激戦となったプレヴェン包囲戦では、単なる「観戦」の域を超えて実戦に加わり、ロシア兵を率いて戦ったとブルガリアでは伝えられている。
プロヴディフ大学のアタナス・ヴラディコフ准教授らは、山澤を「ブルガリア解放者の永遠のパンテオン(英雄)に加えるべき人物」と評価する。山澤の足跡を追い、生誕180周年の2026年に合わせ、ブルガリア語による本格的な評伝『The First Samurai(最初のサムライ)』の出版準備を進めている。
なぜ一人の日本人が、遠いバルカンでこれほどまでに敬意を集めているのだろうか。
幕末の戦場を生き抜いた薩摩武士
山澤は1846年1月、薩摩国鹿児島城下の三方限(さんぽうぎり)に薩摩藩士・山澤十太夫の長男として生まれた。
三方限は西郷隆盛、大久保利通ら幕末・明治の日本を動かした人物を輩出した地域である。現在も鹿児島には「三方限出身名士顕彰碑」があり、解説板には西郷、大久保らと並んで山澤の名が記されている。
17歳で薩英戦争、18歳で禁門の変(蛤御門の変)を経験し、戊辰戦争にも従軍した。明治維新後は御親兵を経て陸軍に入り、若くして日本陸軍草創期を担う軍人となった。
1872年には米国へ派遣され、帰国後の1874年に陸軍中佐に昇進。陸軍省出仕・陸軍生徒取締としてフランスに派遣された。
そして1877年4月、ロシア帝国がオスマン帝国に宣戦を布告して露土戦争が始まる。
山澤は同年5月から翌78年7月まで観戦武官としてロシア軍に同行した。31歳だった。外務省外交史料館にも、山澤が露土戦争中にロシア軍に従軍し、ニコライ・ニコラエヴィチ総司令官らと会見、戦後にロシアとルーマニアから軍功賞牌を授けられたことを示す記録が残されている。
奇しくも祖国日本では、西郷隆盛らが明治政府軍と戦った西南戦争のさなかだった。西郷と同じ三方限に育った山澤はその時、ユーラシア大陸の反対側で、別の戦争のただ中にいたのである。
「私のやることを見て、同じように動け」
露土戦争は、ロシア帝国がオスマン帝国支配下のバルカンへ進軍した戦争である。ロシアの汎スラブ主義や南下政策という大国の思惑が背景にあった一方、ブルガリア側から見れば、約500年に及んだオスマン支配から民族国家を再建する「解放戦争」という意味があった。
その帰趨を左右した最大の激戦の一つがプレヴェン包囲戦だった。オスマン・パシャ率いるオスマン軍はプレヴェンに強固な防御陣地を築き、ロシア・ルーマニア連合軍の攻撃を繰り返し撃退した。戦闘は約5か月に及び、ロシア・ルーマニア側は甚大な犠牲を払った。この戦場に山澤がいたのである。
プレヴェン陥落によってロシア軍は再び南下する道を開き、戦争の帰趨を決定づけた。ヴラディコフ氏は、プレヴェン包囲戦の第三次攻撃において、山澤は、皇帝アレクサンドル2世自身を含むロシア軍最高司令部の人々の生命を守るために戦ったと考えている。
ブルガリアに残る伝承では、山澤はロシア兵を率いるにあたり、通訳を通してこう告げたという。
「私はロシア語を話せない。私のやることを見て、同じように行動せよ。稲妻のように動け。他に命令はない。銃弾より銃床と銃剣を信じよ」
そして自ら先頭に立ったとされる。
それにしても第三国の観戦武官がなぜ実戦に加わったのか。
ここに山澤をめぐる最大の謎がある。
ロシア皇帝の最高司令部に迫った危機
ヴラディコフ氏は、ロシア側史料や当時の米国人従軍記者の記録などを照合して検証を続けている。
ヴラディコフ氏が注目するのは、プレヴェンへの大攻勢の際、戦場近くに皇帝アレクサンドル2世がおり、その弟でドナウ軍総司令官のニコライ・ニコラエヴィチ大公、皇太子アレクサンドル(後のアレクサンドル3世)らロシア帝国の最高首脳も前線にいたことである。
オスマン軍の激しい反撃によってロシア軍が崩れ、最高司令部まで危険にさらされた局面があったとヴラディコフ氏はみている。
そこで山澤も戦闘に加わったのではないか。
しかも山澤は戦後、ロシアから聖ウラジーミル勲章などを受け、ルーマニアからも軍功を顕彰された。ブルガリア側の研究者は、外国の観戦武官がこうした処遇を受けた背景には、それにふさわしい軍功があったはずだと考えている。
山澤が皇帝やニコライ大公ら特定の人物を「救出した」と直接証明する史料は、確認されていない。しかし、最高司令部が危機に陥った際、その防衛戦に山澤が参加し、身を挺して戦った可能性を両氏は追究している。
ロシア側史料には、山澤を、銃弾が飛び交う中でも勇気と強靱な精神を失わなかった人物として描く記録もあるという。
真相を突き止めるには、日本の外交史料館や防衛研究所に残る未調査史料とロシア側史料をさらに突き合わせる必要がある。
バルカンで振るわれた薩摩の剣か
もう一つ、ブルガリアの研究者が強い関心を寄せるのが、山澤の「サムライ」としての戦い方である。
プレヴェンでは、兵士を横一列に並べて敵陣へ進ませる正面攻撃によってロシア軍が大損害を出す一方、小部隊で地面を這うように敵へ接近し、最後は白兵戦に持ち込む戦法も用いられた。
ヴラディコフ氏らは、山澤がこうした戦闘で日本の武士としての実戦経験を生かした可能性に注目する。
山澤は幕末の薩摩武士である。薩摩には強烈な初太刀を重視する示現流や自顕流などの剣術が伝わっていた。ブルガリアでは、幕末の戦場を生き抜いた山澤が軍刀を振るってオスマン兵と白兵戦を展開し、その剣技が周囲を驚かせたのではないかとの伝承もある。
ただ山澤がどの流派をどの程度修めていたのか、またその剣術がプレヴェンで実際に使われたかは、なお史料による裏付けが必要だ。
伝説と史実を区別しながら検証することこそ、今後の研究の課題であろう。
二つの顕彰碑、そして「日本刀」
それでも、ブルガリアにおける山澤への敬意は、もはや伝承だけではない。
2023年には黒海沿岸のスヴェティ・ヴラスに山澤の顔を刻んだレリーフが建立された。2025年にはプ レヴェン近郊のブレストヴェツ村にも、軍服姿の山澤の写真を掲げた記念板が設置された。
ブルガリアのロックバンドが山澤を題材に「Samurai」という楽曲を発表するなど、顕彰は一般市民にも広がりつつある。さらにヴラディコフ氏らは2027年、ブルガリア郵趣協会に働きかけ、山澤の肖像、受章した勲章、プロヴディフ地域歴史博物館が所蔵する約300年前の脇差をデザインした記念切手の発行も構想している。
この脇差も謎に満ちている。
専門家による鑑定で17世紀に作られた真正の日本刀であることは確認されたが、いつ、誰が、どのような経緯でプロヴディフにもたらしたのかを示す文書は見つかっていない。
現地には「山澤が新生ブルガリアの自由を守るために残した刀」との伝承があり、ヴラディコフ氏は「日本の自由の刀」と呼ぶ。
もちろん、山澤の所有物だったとの確証はない。しかし、一人の日本人武官と一振りの日本刀が、150年後のブルガリアで再び結び付こうとしていること自体、歴史の不思議さを感じさせる。
日本で忘れられ、ブルガリアで記憶されたサムライ
ヴラディコフ氏らが11月に刊行を目指す評伝のタイトルは『The First Samurai』である。
「ブルガリア解放者の永遠のパンテオンに山澤を加えるだけの証拠を見つけることが、私たちの第一の目標だ」
ヴラディコフ氏は語った。
その言葉を鹿児島の島津家ゆかりの島津公保氏に伝えた。島津氏自身も、それまで山澤のブルガリアでの活躍を知らなかったという。
調べてもらうと、鹿児島の三方限出身名士顕彰碑の解説板には、山澤の名前が西郷隆盛、大久保利通らとともに記されていた。
島津氏は「現在、山澤中将のことは鹿児島でもほとんど知られていない。もっと多くの方に知ってもらえればよい。鹿児島の政治、行政、経済界の方々に話してみたい」と語る。
日本では歴史の闇に埋もれた薩摩武士を、遠く離れたブルガリアの人々が「祖国のために戦ったサムライ」として記憶し続けていた。
山澤の軍功のどこまでが史実で、どこからが150年の歳月の中で生まれた伝説なのか。解明すべき点は少なくない。
しかし、少なくとも一つ確かなことがある。
31歳の日本人武官が1877年、故郷鹿児島から9000キロ近く離れたバルカンの戦場に立ち、ロシア軍と行動をともにし、戦後に軍功を顕彰された。そしてその記憶が、ブルガリアで21世紀まで受け継がれてきたことである。
国交もなかった時代に、一人の薩摩武士が残した足跡が、いま日本とブルガリアを結ぶ歴史の架け橋として甦ろうとしている。
生誕180年。「祖国解放に尽くした日本のサムライ」の物語は、終わった歴史ではない。
むしろ今、ブルガリアと日本の双方で、その真実を掘り起こす新たな物語が始まろうとしている。(文責:岡部伸)
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