| ヤングリーダー奨学基金プログラムは、日本財団が1987年に将来の世界を担うリーダーの育成を目指して立ち上げ、1997年からは東京財団が運営を行っている、世界の大学の人文社会科学分野の大学院生を対象に奨学金を給付する奨学制度。日本を含む世界44か国の69大学・大学連合に各々100万米ドルの基金を寄贈し、17,000名を超える奨学生(Sylff「シルフ」フェロー)を輩出してきた。Sylffフェローは卒業後、外相や中央銀行総裁などを務めたり、学術研究、ビジネス、非営利セクターなど様々な分野の第一線で活躍している。 |
「ロシアのプロパガンダが『ロシアを愛せ』というなら、もう死んでいる。失敗した」
ソフィア大学政治学科長で、ブルガリア国会議員、欧州議会議員を歴任したスヴェトスラフ・マリノフ教授(ソフィア大学1994~96年Sylffフェロー)は、現在のロシアによる情報工作について、こう切り出した。
ではロシアの影響力は衰え、脅威ではなくなったのか。
答えは逆だ。
「プロパガンダは、これまで以上に活発になっている」
ただし、その目的と手法が変わった。ロシアはもはや、ブルガリアをロシア型国家に変えようとはしていない。欧州連合(EU)や北大西洋条約機構(NATO)から脱退させることも、現実的目標ではない。狙いは、もっと限定され、実現可能性の高い目標だ。
欧州を分断し、ウクライナへの支援を止めさせることだ―。
プロパガンダの「目標を下げた」
ウクライナ侵攻後、ロシアに対するブルガリア人の好意は低下した。
そこでロシアは情報工作の目標を変えた、と教授は分析する。
「プロパガンダでは、目標を高くし過ぎてはいけない。達成できるところまで目標を下げ、相手社会に合わせる」
「ロシアはEUより素晴らしい」
「ロシアの政治体制を見習うべきだ」
「ブルガリアはロシア陣営へ戻るべきだ」
これでは現代のブルガリア人には響かない。
そこで、メッセージを生活に密着させた。
「なぜウクライナを助ける必要があるのか」
「ウクライナへの支援をやめれば戦争は早く終わる」
「対露制裁を解除すれば、ロシアと再び貿易できる」
「そうすれば、天然ガスや石油は安くなり、あなたの生活も豊かになる」
「なぜウクライナのために自分たちが損をしなければならないのか」
これは極めて巧妙である。
ロシアへの愛情を要求しないからだ。
「ドイツ人にロシア人になれとは言わない」
「ドイツ人に、『ロシアの民主主義や生活水準の方が優れている』と説得しても無理だろう」
教授は笑いながら例を挙げた。
「ロシアが言うのは、ただ『私たちと友達になろう。なぜロシアと貿易しないのか』ということだ」
これはブルガリアだけを対象とした作戦ではない。ドイツ、オランダをはじめ欧州全域に共通する。
「あなたはオランダ人なのに、なぜウクライナを助けるのか」
「あなたはドイツ人なのに、なぜウクライナのために高いエネルギー価格を払うのか」
そう問い続ければ、支援疲れと生活不安を結び付けることができる。
ロシアにとって最大の問題は、ウクライナの背後に欧州、米国をはじめ多くの国々が存在することである。
「通常兵器で戦うウクライナ一国を、多くの国々が支えている。この構造を軍事力だけで打ち破るのは難しい。だから西側を分断する必要がある」
エネルギーから「情報空間」へ
かつてブルガリアに対するロシアの最大の武器の一つはエネルギーだった。
天然ガス、石油などを通じた高い依存関係は、モスクワに政治的影響力を与えていた。しかしウクライナ侵攻後、EUはロシア産化石燃料への依存低減を進め、ブルガリアも供給源の多角化を進めた。
「5、6年前まで、ロシアのエネルギーに非常に依存していた。しかしEUの政策のおかげで、今は以前ほどではない」
そこで影響力の中心が移った。
「残っているのはSNS、一部の政治家、そしてメディアだ」
デジタル技術を駆使し、大量の偽情報(ディスインフォメーション)を流す。
「彼らはある程度成功している」
情報工作の効果を正確な数字で測定するのは難しい。それでも選挙時の言説や政治家の主張、SNS上で広がるナラティブを見れば、その影響は無視できないという。
ただし、ここでも重要なのは、その「成功」を過大評価しないことだ。
「活動は激しい。しかし活動空間は狭い」
「ロシアは非常に活発だ。しかし、活動できる空間は狭くなっている」
1990年代から2000年代初頭、ロシアはブルガリアがNATOやEUへ加盟することに猛反対し、国家の進路を変えようとしていた。
しかし加盟後、状況は変わった。さらに2026年にはユーロ圏にも入った。欧州中央銀行(ECB)によると、ユーロ導入によってブルガリア国立銀行もユーロシステムへ加わった。
EU、NATO、ユーロ圏という三重の制度的結合を解体してロシア陣営へ引き戻すことは、現実的ではない。
「ロシアも、それができないことを知っている」
だから狙いを「ウクライナ支援」に絞る。EU離脱を問えば、多数のブルガリア人は拒否する。しかし、「ウクライナを助けるために、あなた自身が経済的負担を負いますか」と聞けば、答えは揺れる。
そこが情報戦の突破口となる。
「EUはリベラル過ぎる」
もう一つの物語もある。
「EUはリベラルになり過ぎた。それに対してロシアは伝統や家族、宗教を守る保守的文明である」という主張だ。
欧州各国の保守層へ浸透させようとしてきたナラティブである。
政治思想、とりわけ保守主義を専門とするマリノフ教授は、これについても冷静だ。
ウクライナ侵攻以前なら一定の訴求力があった。しかし、軍事侵攻によって「保守文明としてのロシア」というイメージ自体が損なわれた。
ロシアの情報戦は万能ではない。だからこそ、相手社会に存在する不満、物価高、戦争疲れ、政治不信を見つけ、そこを増幅する。
ゼロから親露感情をつくるのではなく、民主主義社会にすでに存在する亀裂を広げるのである。
「連帯」を壊せばロシアは勝てる
では、欧州はいかに対抗すべきか。
教授が繰り返した言葉は「Solidarity(連帯)」だった。
ロシアがウクライナを軍事的に圧倒できなくても、支援国を一国ずつ離脱させれば状況は変わる。
「オランダ人に『なぜウクライナを助けるのか』、ドイツ人に『なぜウクライナのために損をするのか』と問いかける。それをすべての国で行う」
つまりロシアの情報戦に対する最大の防御は、単なるファクトチェックではない。
なぜウクライナを支援することが自国の安全保障につながるのかを、民主主義政府が国民へ説明し続けることだ。
教授によれば、ウクライナ侵攻を成功させれば、ロシア指導部は「欧州は最後には生活水準を安全保障より優先する」と学ぶ。
その教訓は次の軍事的冒険を促しかねない。
「逆に、ウクライナで失敗すれば、ロシアは『西へ向かっても西側は団結していて成功しない』と理解する」
その意味でウクライナ戦争は、領土をめぐる一戦争を超えている。民主主義国が情報戦による分断に耐え、長期的な連帯を維持できるかどうかの試験でもある。
日本も無関係ではない
この問題は遠い欧州だけの話ではない。
日本もロシア、中国、北朝鮮という核保有国に囲まれ、SNSを通じた外国からの情報工作や世論操作への警戒を強めている。
情報戦の本質が、相手国を自国の支持者に変えることではなく、相手社会の内部を分断し、政策決定を麻痺させることだとすれば、日本も同じ脅威にさらされ得る。
「日本には世界から自然な共感と信頼が寄せられています」
教授はそう語った。
中国政府関係機関から繰り返し招待を受けた経験にも触れながら、中国が積極的に関係を築こうとするのに対し、日本には、強制しなくても人々が抱く好意があるという。
これは日本の「ソフトパワー」と言っていい。しかし、好感度だけで情報戦に勝てない。
民主主義がなぜ守るに値するのか、同盟国や同志国との連帯がなぜ自国の利益になるのかを国民に説明する力が必要だ。
ブルガリアでロシアが試みているのは、「ロシアを好きになれ」という古典的な宣伝ではない。
「あなた自身の利益だけを考えればいい」とささやき、共同体の連帯を一人ずつ切り離すことである。
マリノフ教授の話を聞きながら、現代の情報戦で最も警戒すべき言葉は、露骨な「親ロシア」ではなく、一見もっともらしい「なぜ他国のために負担するのか」なのかもしれない、と感じた。(文責:岡部伸)
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