タイプ
その他
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日付
2017/5/30

【書評】國廣道彦著『回想「経済大国」時代の日本外交 アメリカ・中国・インドネシア』(吉田書店、2016年)

高橋 和宏(防衛大学校人間文化学科准教授)

はじめに

   本書は、1980年代に日米経済摩擦の渦中で働いた外交官の回想録である。政治家や官僚の回想録はえてして記憶に頼った自慢話になりがちだが、本書はそれらとは明確な一線を画し、自らの日記やその他の関連資料をふんだんに用いて高い実証性が担保されている。経済問題が日米関係の外交課題として再浮上している現在、日米経済摩擦の「記録」として読まれるべき書であろう。

 

本書の構成は以下のとおりである。

 

はじめに

序章 揺籃期

第1章 駆け出し外交官―1955~60年

第2章 経済外交の世界へ―1960~70年

第3章 国交正常化後の日中関係―1970~74年

第4章 スハルトのインドネシア―1974~78年

第5章 エネルギー外交―1978~82年

第6章 日米経済摩擦―1982~86年

第7章 初代内閣外政審議室長―1986~88年

第8章 時代の転換期 外務審議官―1988~89年

第9章 駐インドネシア大使―1990~92年

第10章 駐中国大使―1992~95年

おわりに

 

本書の概要

   本書には要を得た解題も付されているので、以下では解題との重複を避けながら、筆者(以下、敬称を略して國廣とする。)の外交官人生を日米経済とアジア外交の二点を中心に概観する。そのうえで、本書の議論をベースに対米経済外交の特徴を考察してみたい。

 

(1)日米経済摩擦

   戦前・戦中・戦後に外務大臣を務めた重光葵と同じ大分に生まれた國廣は、東京大学を経て1955年に外務省に入省する。入省直後の研修先は「黄金の50年代」の真っ只中の米国だった。そこで触れた豊かさや親切さは、國廣の米国に対する信頼感のルーツとなった。一方、帰国後に出向した通産省繊維局では、対米輸出自主規制を強いられる中小企業の現場の苦労をみて、なぜ安価・良質の繊維品輸出を自主規制せねばならぬのかと憤慨した。ビジネスの実態を知り、現場の利益を守ろうとする姿勢は、その後の対米交渉の原点となった。日本が高度経済成長へと飛躍する1960年代半ば、國廣は米国に対する信頼と義憤を抱えながら対米自主規制問題に対応していた。

   1970年代後半、累積する対米貿易黒字が外交課題となるなか、経済局総務参事官となった國廣は再び米国との経済問題に臨むことになる。國廣が闘わなければならかったのは、高まる「日本アンフェア論」を背景として自由貿易に反するような要求を突きつける米国内の対日強硬姿勢と、日本国内の「輸出は善、輸入は悪」という固定観念であった。

   1982年、経済担当公使として赴任した米国で國廣は「日米経済関係はおそらく戦後最悪の事態」に陥っていると日記に記した。自動車、半導体、牛肉・オレンジ、産業スパイ問題など、摩擦の火種は噴出していた。米国内での保護主義の高まりを危惧した國廣は、自由貿易派議員に有利な議論の材料を提供するなど米国議会対策に注力する一方、1982年の中曽根首相訪米の「タマ」として農産品3品目の関税引下げを中曽根本人に進言するなど、内外に奔走した。最初の中曽根・レーガン会談において、ファーストネームで呼び合う「ロン・ヤス」のアイディアを出したのも國廣だった。

   経済局長として迎えた1985年1月の日米首脳会談では、数値目標要求を断固拒否しつつ、貿易不均衡改善のためには日米双方の努力が必要であることを米側に自覚させようと試みた。首脳会談を機としてスタートしたMOSS協議(分野別協議)でも「馬を池まで連れていって、これだけ水を飲めと言っても、のどが渇いていなければ飲めるはずがない」といった例え話を使って、輸入数値目標要求を拒み、急場をしのいだ。

   中曽根の指名で着任した初代内閣外政審議室長としての主たる課題も農産品12品目問題や建設市場開放問題などの日米経済摩擦対策であった。1988年、サミットのシェルパ(首相のサポート役)を務める外務審議官(経済担当)となった國廣は、貿易不均衡が改善しないことに一段と対日感情を悪化させる米国議会のみならず、日本の貿易黒字を敵視する他のG7各国の反発にも向き合わなければならなかった。1989年5月、米国の対日不信はブッシュ新政権によるスーパー301条の適用発表へと至る。

   このように1980年代を通じて、国際問題化した対米貿易黒字の対処に明け暮れた國廣は、1989年9月から始まった日米構造協議の第1回会合への参加を最後に経済問題の担当を離れた。國廣が米国からのエスカレートする(ときに理不尽な)要求に、苦悩しながらも途中で投げ出すことなく真摯な対応を続けえたのは、外交官としての原点にある米国への信頼と厳しい交渉も厭わない気概の故だったといえよう。

 

(2)アジア外交―中国・インドネシア―

   國廣の外交官人生において、日米経済関係と並ぶ主要なテーマがアジア外交、とりわけ中国とインドネシアとの関係だった。

   1971年の米中接近以前、國廣が首席事務官を務めた経済協力第一課では、日中国交正常化を見越して、国交がある間に台湾への第二次円借款を実現すべく取り組んでいたという。日本外交独自の動きとして興味深い事実である。国交正常化直後に中国課長に就任した國廣は「この交渉は本当に大変だった」と回顧する日中実務協定交渉に忙殺された。本書を読むと、首席事務官として國廣を支えた小倉和夫の、実務協定交渉は長い時間のかかる日中国交正常化プロセスの一環であったという指摘(小倉和夫『記録と考証 日中実務協定交渉』岩波書店、2010年)の正しさが実感をもって再確認できる。1972年9月の田中角栄訪中・日中共同声明という短期間の劇的な展開だけで、日中国交正常化が完結したわけではなかったのである。自民党内の反対勢力や運輸省など関係省庁からの国内支持調達と、台湾の面子をできるだけ守りながら中国との交渉をまとめるという二正面の対外交渉を妥結しえたのは、大平正芳と田中角栄の「真の政治主導」によってであった。

   その後、イギリスでのサバティカルを挟み、國廣が赴任したのがスハルト体制下のインドネシアであった。この地で國廣は、「心から心へ」をキャッチフレーズに福田首相のインドネシア訪問を成功裏に導いたほか、日本文化センターの設置や「ラグラグ会」というインドネシアの歌を歌う在留邦人組織を立ち上げるなど、多方面に精力的に働いた。日本企業の進出拡大によって、「日本=経済」というイメージがインドネシアで広まるなか、「文化」を通じて両国間の相互理解を豊かなものにしようとする國廣の姿が浮かび上がる。

   シェルパとして参加したアルシェ・サミット(1989年)では、その直前に起きた天安門事件が大きな争点となった。事件を「残酷な抑圧」と非難し、追加の制裁措置を宣言案に盛り込もうとするフランスらに対して、時の宇野宗佑首相は日中友好の国民感情や対中関与政策を重視する観点から、日本一国になっても具体的な対中制裁措置には反対すべきと指示した。この交渉方針のために、國廣はシェルパ会合で孤立する状況に追い込まれていくのであるが、サミット本番の最終段階での「歌人の宇野、国体の宇野」のねばりが奏功し、フランスからの妥協を引き出したという。最終的には、ブッシュ大統領が日本案を支持したことで、サミット宣言は全体として日本の意見を反映したものとなった。

   外務審議官退任後、國廣は大使としてインドネシアに戻る。國廣によれば、駐インドネシア大使は同国政府への「参加意識」を抱くほどの影響力を持つポストだったという。その源泉となったのが巨額のODAであった。しかし、日本のODAについて、インドネシア国民の間では、日本の経済協力はスハルト政権を支えるもの、日本企業を裨益するもの、といった認識が一般的だった。國廣は文化外交や日系企業による奨学金制度を新設するなどの現地社会への還元政策を通じて、こうした対日認識の転換を図った。また、当時インドネシアが抱えていた人権問題については、経済援助と結びつけて声高に改善を求めるのではなく、インドネシア政府首脳と静かに率直に直接対話を重ねることで自発的な対応を促した。「経済力」を背景にしつつも、大国面をすることなく、相互理解をベースとした関係発展を目指したのである。

   駐インドネシア大使として充実した日々を過ごした後、國廣が外交官として最後に務めたのが駐中国大使である。天皇訪中後の「最良」のときを迎えていたときに、國廣は今後の両国関係の行方を見定めようとした。日記調の記述からは、中国政府要人との会談や訪中する日本政府関係者への対応など、中国にとって最大のODA供与国となっていた日本大使の多忙な日々を垣間見ることができる。しかし、國廣にとって中国勤務は「不完全燃焼」に終わった。羽田孜外相の靖国参拝や二度にわたる中国の核実験(二度目は広島でアジア大会を開催しているさなかであった)、永野茂門法相の「南京大虐殺はでっちあげ」発言などによって、日中関係は「最良」から徐々にピークアウトしていく。細川護熙首相の中国訪問も人権問題の扱い方をめぐって混乱がみられた。武村正義蔵相訪中時の唐突な経済協力の決定のように、政府内のガバナンスの欠如が露見するケースもあった。病を患った自身に対する週刊誌の批判的な報道もあり、國廣は館員の士気低下への考慮から2年余りで大使を退任し、外務省を早期退職した。「日中蜜月」が政治的にも国民感情としても自明ではなくなっていく日中関係の構造的な変容と、55年体制崩壊後の国内政局の混乱に、駐中国大使・國廣は翻弄されたといえよう。

 

(3)「経済大国」時代の外交官

   「はじめに」で自らが記しているように、國廣の外交官人生は「日本経済が発展・充実する過程で日本の経済力を最大に外交に活用」するものであった。米国との経済問題も、中国・インドネシアとの外交も、「経済大国」であるがゆえに摩擦を生み、発言力を有したのである。その意味で、『回想「経済大国」時代の日本外交』という本書の書名は、國廣の外交官人生を正しく示している。

   しかし、國廣自身が現役時代を反省しているように、「経済大国」時代の日本外交は、いくつかの例外を除けば、米国などから要求を受けてから問題に対処するという「受け身の外交」が多かった。今後「経済大国」であることの自明性が徐々に薄れていくとして、そのなかで日本はどのような外交を目指すべきか。国際公共財の構築のために自ら提案し、関係国を説得するという積極的な貢献が必要との國廣の指摘は、国際秩序の流動化が加速する現在、いっそう重く響く。

 

考察

(1)戦後日米関係の構図

   以下、評者の関心に引き付けて、本書の記述から対米経済外交の特徴を考えてみたい。

 第一に、國廣をはじめとする外務省(経済局)には、「市場開放は日本経済にとって不可欠」という信念が存在したということである。外務省の認識では、日本経済の体質強化のためには国内産業を国際競争の荒波にさらさなければならず、また、内需拡大のためには国内市場を制約している様々な規制を撤廃する必要があった。「貿易自由化」が外交課題となる1950年代後半以降、外務省の経済外交にはこうした自由貿易原則のなかで日本経済の強化を図るべきという一貫した方針があり、そのためには米国からの「外圧」を利用することに積極的な意義すら見出していた。外務省の対米交渉は妥協しすぎであるとして他省庁からしばしば批判を受けたが、そこには外務省なりの経済外交理念が存在したといえよう。

   第二に、日米関係における経済と安全保障との連関についてである。米国からの対日要求のなかには、國廣の目からみても身勝手なものがあった。こうしたとき、國廣ら外務省は理不尽な要求は拒否しつつも、「日本が安全保障を米国に頼っている以上、経済摩擦のために日米関係を損なってはならない」と考えていたという。冷戦終結前後という国際関係の構造変化のなかで、苛烈な経済摩擦が安全保障にまで影響する危険性は果たしてありえたのか。それとも、交渉決裂が予測不能の事態を惹起することへの過度な憂慮に過ぎなかったのか。経済と安全保障を「取り引き」するような交渉局面は実際にあったのか。いずれにしても、日米安保体制とは政治・軍事的な要素によってのみ成立しているのではなく、経済的な要因をも包含する重層的な構造性を有していることを、國廣の証言は示している。

   このように日米経済摩擦をめぐる日本外交は、国内市場の開放という自由貿易主義的な経済外交理念と、日米安保体制の堅持という安全保障上の要件とを包含するものだった。ただしそれは、政府内で共有された統一的な交渉方針だったわけではない。むしろ、本書から見えてくるのは、経済外交の司令塔の不在という実態である。

   国際通貨問題は大蔵省の排他的専管事項となっており、プラザ合意をはじめ、日米首脳会談やサミットの場での国際通貨問題に関する議論に外務省は全く関与できなかった。大蔵省の秘密主義への批判は本書の随所にみられるが、大蔵省のみならず、通産省や農水省も対米交渉に妥協的な外務省への情報提供に警戒的だった。こうしたストーブ・パイプスを打破するために中曽根内閣が官邸に新設したのが内閣外政審議室だったが、これに対して外務省は戦前の「二重外交」の再現を懸念し、その職権を掣肘していた様子が本書の記述からもうかがえる。行政組織間でのコミュニケーションが不完全ななか、そのときどきの首相が一元的に情報を集約していたのかもしれないが、そうした非制度的・属人的なやり方は効果的でも永続的でもない。各省縦割りの構図は、経済摩擦をめぐって政府内に疑心暗鬼を生み、政府一体となった交渉を阻害したばかりか、通貨や貿易といった諸課題をパッケージとした「交渉力」を毀損するものであった。

    「貿易不均衡」という古くて新しい難題をめぐり、これから繰り広げられるトランプ政権との経済対話において、日米経済摩擦の苦い経験を教訓とできるであろうか。

 

(2)外務省の「アーカイバル・ヘゲモニー」

   最後に、歴史資料の公開について触れておきたい。

   冒頭で述べたとおり、本書は記録としての価値の高い回想録である。とくに、日中航空協定交渉、日米経済交渉、サミット外交、駐中国大使時代に関する記述は詳細である。近年刊行された、栗山尚一『戦後日本外交 軌跡と課題』(岩波現代全書、2016年)、枝村純郎『外交交渉回想 沖縄返還・福田ドクトリン・北方領土』(吉川弘文館、2016年)といった外交官の回想録と並んで、これからの戦後外交史研究にとって不可欠の史料となるであろう。

   近年の外交文書公開の進捗や外交官オーラルヒストリーの蓄積、さらに本書のような質の高い回顧録によって、戦後日本外交史の資料面での研究環境は大きく改善している。これに対して、他省庁の歴史資料の公開は依然停滞している。たとえば、平成26年度の実績では、全行政機関から「特定歴史公文書等」として国立公文書館等に移管された行政文書ファイルのうち、外務省がその半数以上(52.2%)を占めている。歴史史料の移管率(保存期間を満了した行政文書等のうち特定歴史公文書等として国立公文書館に移管されるものの割合)も、同年度実績で外務省が31.2%なのに対し、それ以外の省庁は0.2%に留まる。

   こうした外務省と他省庁との乖離の結果、戦後期の日本政治外交史研究では現在、外務省の役割が強く描かれすぎる傾向がみられる。「アーカイバル・ヘゲモニー」における外務省の偏差的な優位といってもよい。歴史記述を適正かつ豊かなものとするためには、他省庁にも外務省と同レベルの歴史資料の公開が求められよう。