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【論考】地域は「正解のない問い」とどう向き合うか ― KBC防災ネットワーク会議に見る新たな公共性 ―
July 31, 2026
元テレビ朝日 報道局プロデューサー 江野夏平
熊本県で最大震度7を観測する地震は、改めて災害情報基盤の重要性を浮き彫りにした。災害情報基盤とは、必要な情報を、必要な人へ、必要なタイミングで届けるための社会基盤である。放送や通信設備だけでなく、それらを支える行政、研究機関、通信事業者、地域メディアなど、人と組織のネットワークも、その重要な構成要素である。
今回の地震では、一部地域で携帯電話の通信障害が発生した。総務省九州総合通信局は、被災自治体に衛星インターネット「Starlink」などの移動通信機器を貸与し、通信手段の確保を支援した。通信事業者も基地局の復旧や代替通信手段の確保を進め、通信ネットワークの維持に全力を挙げている。さらに、行政や自衛隊、医療機関、災害支援団体などによる支援活動も各地で始まっている。こうした支援の効果を最大限に高めるためには、支援に関する情報を被災者へ迅速かつ的確に届ける災害情報基盤の役割が、これまで以上に重要になる。
災害が発生するたびに改めて問われるのは、「必要な情報を、必要な人へ、必要なタイミングで届けることができたのか」ということである。
東日本大震災以降、通信事業者や行政は、衛星通信や可搬型基地局など、災害に強い情報基盤の整備を進めてきた。Starlinkも、その重要な技術の一つである。しかし、災害情報基盤は一つの技術だけで成り立つものではない。放送、携帯電話、防災行政無線、衛星通信、自治体の情報システムなど、それぞれ異なる特性を持つ情報伝達手段が相互に補完し合うことで、初めて住民に必要な情報を届けることができる。
災害時に本当に難しいのは、集約された情報を基にどう判断するかである。
避難指示は、いつ発令すべきか。どの避難所を開設するのか。支援物資をどこへ届けるのか。住民へどのような言葉で危険を伝えるのか。地震であっても豪雨であっても、発災後に自治体や住民が直面する課題には多くの共通点がある。その一つ一つについて、現場では迅速な判断が求められる。その判断には、唯一の正解を示してくれるマニュアルは存在しない。
だからこそ重要なのは、災害が起きてから連携を始めることではない。自治体、研究者、気象の専門家、地域放送局、通信事業者などが、平時から課題を共有し、互いの役割を理解し、信頼関係を築いておくことである。その積み重ねが、非常時の情報共有や意思決定を支える基盤となる。
そのような平時からの連携を実践しているのが、KBC九州朝日放送である。2026年7月22日に同社を訪問し、「KBC防災ネットワーク」主幹兼解説委員の太田祐輔氏に、今年度の出水期前にあたる同年4月23日に開催された「防災ネットワーク会議」について聞き取りを行った。
昨年オブザーバーとして参加した際と比べても議論はさらに深化しており、その根底には、自治体の災害担当者が現場で抱える課題や葛藤を共有し、地域全体の災害対応力を高めようとする強い問題意識があった。その会議で特に印象に残ったのが、九州大学大学院人間環境学研究院の杉山高志准教授が語った、次の言葉である。
正解がある問題と、正解がない問題
「防災には、『正解がある問題』と『正解がない問題』がある。」
「防災ネットワーク会議」で、九州大学大学院人間環境学研究院の杉山高志准教授は、このように語った。
例えば、消火器の使い方やAEDの操作方法は、「正解がある問題」である。繰り返し訓練を重ねることで習得でき、マニュアル化することも可能だが、防災の現場には、それとは性質の異なる問題が数多く存在する。
避難指示は、いつ発令すべきか。高齢者施設の避難は、どの段階で開始すべきか。住民に危険を伝える際、どのような言葉を選ぶべきか。いずれも人命に直結する重要な判断である。しかし、その場で唯一の正解を示してくれるマニュアルは存在しない。
仮に避難指示を早く出せば、「結果的に何も起きなかった」と批判されるかもしれない。一方で、発令が遅れれば、住民の避難が間に合わず、生命に関わる事態につながる可能性もある。しかも、その判断の是非は、災害が終わった後でさえ明確にならないことが少なくない。
防災とは、本質的に「正解のない問い」に向き合い続ける営みなのである。
この言葉は、防災だけに当てはまるものではない。人口減少や気候変動が進み、地域社会を取り巻く環境が大きく変化する中で、地域が直面する課題の多くは、一つの正解を持たない。だからこそ、多様な立場の人々が知見を持ち寄り、対話を重ねながら、その時々の最善解を探し続けることが求められている。
制度は変わっても、「正解のない問い」は残る
近年、防災気象情報は大きく見直された。
「線状降水帯」や「顕著な大雨に関する気象情報」など、専門的で分かりにくいと指摘されてきた情報について、住民が直感的に危険度を理解できるよう整理が進められている。また、2026年度からは新たな防災気象情報の運用も始まり、住民が避難のタイミングを判断しやすくする工夫が加えられた。
こうした制度改正は、防災情報を住民に分かりやすく伝える上で大きな前進と言えるだろう。しかし、制度がどれほど改善されても、最後に残る問いがある。

写真提供:(株)九州朝日放送
「避難指示を出すべきか」
その判断は、依然として市町村長をはじめとする自治体に委ねられている。気象情報は判断材料の一つにすぎない。河川の水位はどうか。土砂災害の危険性は高まっているのか。夜間に避難させることは、かえって危険ではないか。高齢者施設では避難にどれほど時間がかかるのか。それぞれの地域が抱える事情を踏まえ、複数の情報を総合して判断しなければならない。
つまり、防災は制度だけでは完成しない。最後に判断するのは「人」である。
だからこそ、防災において最も重要なのは、「正解を知ること」ではなく、「判断する力」を育てることではないだろうか。
その力は、一冊のマニュアルを読むだけでは身に付かない。災害が起きてから身に付くものでもない。平時からさまざまな事例に触れ、自分ならどう判断するのかを考え、異なる立場の人々と議論を重ねることで、初めて養われるものである。ここに、防災ネットワーク会議の意義がある。
この会議は、新しい制度を説明する研修会ではない。自治体、防災研究者、気象の専門家、そして地域放送局が一堂に会し、それぞれの経験や悩みを持ち寄り、「正解のない問い」をともに考える場として設計されている。会議では、「制度を理解したか」を確認する場面はほとんどない。それよりも、「あなたならどう判断するか」という問いが繰り返し投げ掛けられる。そこでは、一つの正解を探すのではなく、多様な考え方を共有すること自体に価値が置かれていた。それは、防災を「知識の習得」ではなく、「判断力を育てる営み」として捉えているからだろう。
「正解のない問い」を一人で抱え込まないために
自治体の防災担当者は、災害が起きた瞬間に初めて判断するわけではない。本来であれば、その判断は平時から繰り返し考え、地域の中で共有されているべきものである。しかし現実には、そのような機会は決して多くない。
自治体が主催する防災会議は、制度改正や計画の確認、関係機関との連絡調整が中心となることが少なくない。もちろん、それらは重要な業務である。しかし、「この状況なら自分はどう判断するか」「別の自治体ならどう対応するのか」といった、正解のない問いを率直に議論する時間は限られている。だからこそ、「防災ネットワーク会議」は興味深い。
この会議は、制度の説明だけで終わらない。実際に自治体が経験した事例を題材に、「あの時、なぜその判断をしたのか」「自分の自治体ならどう対応するのか」を参加者全員で考えていく。そこでは成功事例だけが語られるわけではない。迷ったこと、判断に苦しんだこと、住民への伝え方に悩んだことなど、現場の葛藤が率直に共有される。この率直さこそが、この会議の価値である。
正解のない問いは、一人で考えるには重すぎる。だからこそ、地域全体で考えるのである。
自治体職員だけではない。気象の専門家が科学的知見を提供する。大学研究者が防災の考え方を整理する。そして地域放送局が、「住民にどう伝えるか」という視点を加える。それぞれが異なる立場から議論することで、一人では見えなかった判断材料が少しずつ増えていく。
災害情報基盤は、放送や通信設備だけで成り立つものではない。平時から多様な主体が知見を持ち寄り、互いの経験を共有し、信頼関係を築いていくことも、その重要な基盤である。「防災ネットワーク会議」は、その「人と組織のネットワーク」を育む場として、非常時の意思決定を支えているのである。
地域メディアは「情報」を伝えるだけでよいのか
これまで全国各地の地域放送局を取材してきた。災害時の緊急報道、防災アプリの運用、自治体との防災協定、地域リポーター制度、データ放送を活用した情報提供など、それぞれの地域で工夫を凝らした取り組みが進められている。それらはいずれも、災害時に住民へ必要な情報を確実に届けるための重要な活動である。
しかし、「防災ネットワーク会議」を通して、地域放送局にはもう一つの重要な役割があることに気付かされた。それは、地域の判断力を育てることである。
災害時に必要なのは、情報だけではない。情報をどう受け止め、どう判断し、どう行動へ結び付けるか。その力がなければ、どれほど正確な情報が届けられても住民の命を守ることはできない。
自治体も同じである。制度やマニュアルを理解しているだけでは十分ではない。正解のない問いに向き合い、多様な選択肢の中から最善と思われる判断を導き出す力が求められる。その力は、一人では育たない。経験を共有し、異なる立場の人々と議論を重ね、自らの判断を振り返る中で少しずつ磨かれていく。
「防災ネットワーク会議」は、そのための「場」を地域に提供している。
ここでは、放送局は情報を一方的に発信する存在ではない。自治体、研究者、気象の専門家、消防など、多様な主体を結び付け、それぞれの経験や知見を共有する「触媒」の役割を果たしている。行政だけでも、大学だけでも、この役割を担うことは難しい。地域社会と日常的に接点を持ち、行政とも住民とも信頼関係を築いてきた地域放送局だからこそ可能になる公共的機能と言えるだろう。
これは、災害情報基盤を支える役割でもある。災害情報基盤は、設備だけで機能するものではない。多様な主体を結び付け、地域全体の判断力を高めるネットワークがあって初めて、その機能を十分に発揮する。「防災ネットワーク会議」は、そのネットワークを平時から育み続けているのである。
「正解のない問い」を地域で考え続ける
災害は、いつ発生するか分からない。しかし、防災は災害が起きてから始まるものではない。
平時から行政、研究者、気象の専門家、地域メディアなどが互いに顔の見える関係を築き、経験や知見を共有しながら「正解のない問い」を考え続ける。その積み重ねが、災害時の迅速な判断と行動を支えている。
そのことを、今回の熊本県で発生した地震は改めて示している。
KBCは九州地区の基幹局として、系列局である熊本朝日放送の災害報道を技術面や取材面から支援している。平時から築いてきた放送局同士の連携や信頼関係が、災害時には迅速な応援体制として機能し、被災地へ必要な情報を届ける力となる。
災害情報基盤とは、放送設備や通信ネットワークだけを指すものではない。地域メディア、行政、研究機関、通信事業者など、多様な主体が日頃から連携し、必要な時に力を発揮できる関係そのものも、災害情報基盤の重要な構成要素である。
人口減少が進み、地域社会を支える人材や資源が限られていく時代だからこそ、一つの組織だけで災害に対応することは難しい。それぞれが持つ強みを持ち寄り、地域全体で災害対応能力を高めていくことが求められている。
「KBC防災ネットワーク会議」は、そのための取り組みの一つである。制度を学ぶ場ではなく、地域が「正解のない問い」をともに考え続ける場をつくること。その営みが、人と組織のネットワークを育み、地域の災害対応力を支えている。
災害時に求められるのは、多くの情報ではない。必要な情報を、必要な人へ、必要なタイミングで届けることである。そして、その情報を社会に生かすのは、平時から築かれた信頼と連携である。災害情報基盤の本質とは、設備だけではなく、人と組織がつながり続ける仕組みにあるのではないだろうか。