第13回 現代アメリカ研究会報告 | 研究プログラム | 東京財団政策研究所

東京財団政策研究所

詳細検索

東京財団政策研究所

第13回 現代アメリカ研究会報告

December 18, 2008

1.第十三回研究会の目的

第十三回研究会が12月8日に開催された。第十三回研究会では、大統領選挙後から就任式までの間に、選挙に勝利した大統領候補が、どのように次期政権を担う人材を集め、どのように新政権を組織するかというテーマで、菅原和行氏(釧路公立大准教授)、梅川健(東京大学大学院法学政治学研究科博士課程)から報告がなされた。

2.第一報告「現代アメリカの連邦政府における政治任用制度とその動態」(菅原和行氏)

まず、菅原氏から、アメリカ連邦政府の人事の特徴である政治任用制度について報告がなされた。本報告では、19世紀的に主要であった猟官制(スポイルズ・システム)と、20世紀に入ってから猟官制を代替した現代的政治任用制度について、詳細な説明がなされた。

猟官制とは、任命権者の自由裁量によって、非公選の官職を、情実や党派的忠誠心を基準として分配するシステムである。アメリカ連邦政府における猟官制の歴史は、第三代大統領のトマス・ジェファソンまでさかのぼることができ、第七代のアンドリュー・ジャクソン大統領の時代には全米の政府組織に広がっていた。

猟官制の時代には、公職は、選挙を必要とする公選職か、選挙に勝利した人が人事権を持つ政治任用職のどちらかであった。たとえば、警察官や消防士のような専門職でさえも政治任用職であった。この背景には、公務というものは人並みの知能があれば誰でも遂行できるという考え方があった。それゆえに、猟官制における人事は、選挙協力者、親類、知人などの私的関係に基づいて行われ、その任命のプロセスも制度化されてはいなかった。

20世紀に入ると政府の役割が増大し、その業務も専門化していった。連邦政府の業務を、資格試験とは無縁の公務員だけでは遂行することが不可能となったのである。結果として、実務に携わる公務員については、能力試験を課す能力任用制(メリット・システム)が採用されるようになった。現代の連邦政府の公職は、大きく分けて能力任用制を基本とした職業公務員と、大統領による政治任用職から構成されている。

現代政治任用制度は、猟官制に由来しながらも、猟官制の単なる残滓ではなく、新たな役割を担うようになっている。連邦政府の全ての公職のうち、政治任用職の占める割合は0.1%程度であり、執政部門や上級管理職に集中している。現代の政治任用職は、猟官制での政治任用職と異なり、高度な専門性が要求され、任命の手続きも高度に制度化されており、私的関係による登用も限定的である。

現代の連邦政府の政治任用職は、四つの種類に分けられる。第一は、上院の承認が必要な大統領任用職である。これは、大統領が指名し上院が承認するPAS官職(Positions Subject to Presidential Appointment with Senate Confirmation)と呼ばれ、各省の長官、副長官、次官、次官補、大使、連邦裁判所判事などが該当する。

第二は、上院の承認を必要としない大統領任用職である。これは、PA官職(Positions Subject to Presidential Appointment without Senate Confirmation)と呼ばれ、大統領補佐官などのホワイトハウスのスタッフが該当する。

第三は、上級管理職(SES: Senior Executive Service)の一部を構成するNA官職(Senior Executive Service General Positions Filled by Noncareer Appointment)である。これらの職は各省庁によって任命されるが、人事管理局とホワイトハウス大統領人事室の承認が必要となる。NA官職に該当する職は、各省庁の副次官補、首席事務官、部長、副部長などである。

第四は、スケジュールC官職(SC官職)である。これらは、幹部職以外の政治任用職であり、各省の長官が任命する。該当する職は、各長官の秘書やスタッフなどの、機密事項や政策決定に関わる職である。

2008年現在では、PAS官職として1,141名、PA官職として314名、NA官職として665名、SC官職として1,559名が雇用されている。連邦政府職員の総数は2,687,894名、そのうち政治任用で雇用されている総数は3,679名であり、割合は0.13%である。

オバマ次期大統領は、3,000を超えるポストの人事をしなくてはならないが、これまでの大統領の政権移行の通りであるとすると、就任時には閣僚級の一部のみが決定している状態であり、その後の政権一年目の期間を通じて、残りの膨大な人事をこなしていくことになるであろう。

3.第二報告「過去の政権移行はどのように行われたのか?」(梅川健)

次に、梅川から過去の政権移行が具体的にはどのように行われてきたのかについての報告がなされた。まず、政権移行についての制度と慣習は1960年代から発達してきたことが説明され、それにともなって、政権移行にとりかかる次期大統領の行動のパターンの変化が、レーガン政権、クリントン政権、ブッシュJr.政権の政権移行期に見られることが報告された。

大統領選挙に勝利した候補者が、就任式までの間に新政権を準備する期間を政権移行期間と呼ぶが、この期間が法律によって初めて規定されたのが政権移行法(Presidential Transition Act of 1963)であった。この法律は、それまでは次期大統領の所属政党がまかなっていた政権移行にかかる費用を、連邦政府の予算から拠出することを定めた法律である。 1963年の政権移行法では、90万ドルが拠出されることになっていた。政権移行に関わる法律はその後、1976年の修正政権移行法、1988年の効果的政権移行法、2000年の政権移行法と立法されたが、これらの立法の特徴は政権移行のために拠出される資金の上限を増やし続けたことである。オバマの政権移行には、総額で850万ドルが拠出されることになっている。

60年代と70年代以降の政権移行の変化として、大統領選挙の決着前から大統領候補者が、政権移行の準備を始めるようになったことが挙げられる。政権移行期間の前倒しは、政権移行法によって資金が初めて拠出されたニクソンにまでさかのぼることができ、ブッシュJr.の政権移行まで共通して見られる特徴である。法律によって、大統領選挙以後の期間について資金が保障されるようになったが、候補者は自前で大統領選挙の前から準備をするようになっていたのである。

政権移行期間の長期化は、大統領選挙の投票日からの前倒しというだけでなく、就任式以降に政権準備がもつれ込むという形でも生じるようになった。政治任用職の増大とともに、PAS官職のための上院での承認に手間取るようになり、就任してから1年たってもすべての職が埋まらないという事態が常態化するようになっている。

70年代と80年代を分ける特徴として、人事における大統領とキャビネットの関係を挙げることができる。キャビネットのメンバーである各省庁の長官の人事は、大統領と側近たちによって意思決定されるというのが基本的なパターンである。ニクソン政権やカーター政権では、大統領は長官クラスのみを決め、長官の部下となる副長官、次官、次官補については長官に人事を任せた。それぞれの政権の末期には、大統領が長官に人事権を譲ったために、大統領の意に反する行動を長官達がとるようになったと理解されるようになっていた。

レーガン以降の大統領たちは、政権移行にあたって、これらの先例をふまえて、副長官、次官、次官補のレベルまで、大統領と側近によって決定するようになっていった。レーガン政権以降の人事についてもう一つの特徴は、人材登用に際して、役職を全うするための専門知識や能力があるかということよりも、大統領の考え方に近いかどうかという物差しが重要視されるようになったことである。

レーガンの政権移行は成功したと評価されることが多い。レーガンは1980年の4月から政権移行チームを組織し、登用する人材候補を選定させていた。選挙に勝利した後には、選挙チームと政権移行チームは齟齬なく合流し、協調的で組織化されたチームが作られた。このチームによる人材登用の重要な基準は先にも述べたように大統領個人への忠誠心とレーガンのイデオロギーへの忠誠心であった。

レーガンのホワイトハウスは、ジェイムズ・ベイカー、エド・ミース、マイケル・ディーヴァーという3人が中心となった三頭体制(トロイカ)であったと言われる。彼らがそれぞれにホワイトハウス内での業務を分担し、政権一期目は機能的にホワイトハウスが運営された。

レーガンはキャビネットをコントロールしようと試み、各省の副長官、次官、次官補までの人事を握り、さらには、各省で考慮すべきアジェンダまでをホワイトハウスが用意し、その枠内で政策形成をさせていた。レーガン政権一期目の政策革新は、組織化された政権移行と政権初期のアジェンダの選定などからもたらされたとも言われている。

クリントンの政権移行の評価は高くない。最初のつまずきは、大統領選挙前から始動させていた政権移行チームと、選挙を戦い終えた選挙チームとの合流に失敗したことである。大統領選挙の投票前に政権移行チームを任されていたのはミッキー・カンターであり、彼はクリントンの腹心ではなかった。他方、選挙チームはクリントンの腹心たちでかためられていた。結果として、クリントンは両者の調整のためにカンターを外し、新たに政権移行チームを組み直す必要があった。

クリントンの政権移行は、選挙後に遅れて始動したが、その後の人材登用のスピードもゆっくりとしたものだった。クリントンが人選に深く関わったためである。キャビネットの人選は、クリントンが候補者たちに会い、良好な関係を築くことができるかどうかによって判断された。クリントンは、4名のアフリカ系アメリカ人、2名のヒスパニック、3名の女性をキャビネットのメンバーとして選び、自身のキャビネットを”looking like America”と呼んだ。

クリントンのホワイトハウスは、ワシントンの経験が少ない者で構成された。これは、キャビネットの人選に時間をかけたために、ホワイトハウスの人事については時間をかけられず、選挙に協力した若い人材をそのままホワイトハウスに採用したためである。

クリントンの人事の最大問題は、マック・マクラーティを大統領首席補佐官に任命したことである。彼は、ワシントンの経験はおろか政治に関わった経験もなく、クリントンの幼馴染みであり、クリントンをよく知っているという理由から採用された。結果、ホワイトハウスのスタッフを始めとして、ワシントンの政治家たちはマクラーティを弱い首席補佐官とみなし、それぞれが独自に大統領にアクセスをしようとするようになった。結果として、クリントン自身が、首席補佐官として振る舞い、ホワイトハウスの誰にもクリントンがどのような情報をどのようなルートで入手しているかがわかならい状況が生まれた。

ブッシュJr.の政権移行は、特殊であった。ブッシュは1999年の春に、クレイ・ジョンソンに政権移行の準備をするように依頼した。彼はブッシュの長年の友人であり、テキサス州知事としてのブッシュの部下でもあった。ジョンソンは、選挙チームを率いていたブッシュの腹心であるカール・ローブやカレン・ヒューズらと連携をとっており、大統領選挙後の選挙チームと政権移行チームとの合流には問題が生じなかった。

問題は選挙の結果が12月12日まで決定しなかったことである。ブッシュは12月13日に勝利宣言をして、正式な政権移行期間をスタートさせた。ただ実質的には、ブッシュ陣営はフロリダの再集計問題の間にもリクルートを始めており、選挙結果が遅れたことに問題はなかったとも言われている。

ブッシュのキャビネットは、2名のアフリカ系アメリカ人、2名のヒスパニック、1名のアジア系、1名のアラブ系、3名の女性から構成されており、多様性が確保されていた。ブッシュのホワイトハウスは、アンドリュー・カード、ヒューズ、ローブという三人を中心に組織化された。ブッシュの政権移行は、選挙による勝者の確定が遅れたにもかかわらず、成功を収めたと評価されている。

(文責:梅川 健)

    • 東京都立大学法学部教授
    • 梅川 健
    • 梅川 健

注目コンテンツ

BY THIS AUTHOR

この研究員のコンテンツ

0%

INQUIRIES

お問合せ

取材のお申込みやお問合せは
こちらのフォームより送信してください。

お問合せフォーム