- 政策フロントライン
【特集】東日本大震災から15年―災害情報は「届いて初めて意味を持つ」~『100人の証言~命をつなぐ津波避難~』が示す避難行動の連鎖
March 24, 2026
2011年3月11日に発生した東日本大震災から15年が経ちました。頻発する自然災害や加速する人口減少など、新しい課題が次々と押し寄せる中で、私たちは震災の経験から何を学び、これからの社会づくりにどう活かしていくべきなのでしょうか。当時の記憶が風化しつつある今だからこそ、当財団に集う幅広い分野の研究者の知見を通して、震災の教訓と15年間の変化を多角的に見つめ直します。
|
この記事のポイント |
2026年3月7日、岩手県陸前高田市での調査を終えた帰路、仙台へ向かった。東日本放送(khb)の本社で開催されていた、第66回科学技術映像祭「内閣総理大臣賞」受賞作『100人の証言~命をつなぐ津波避難~』の上映会に参加するためである。

この作品は、東日本大震災で被災した石巻市南浜・門脇地区の住民100人の証言をもとに、当日の避難行動をCGで再現し、津波避難の教訓を検証したドキュメンタリーである。上映会では作品上映のほか、出演者や制作者による講演、パネルディスカッションが行われ、震災から15年を前に避難行動の教訓を改めて検証する機会となっていた。
この作品の背景には、「あの時プロジェクト」と呼ばれる調査がある。公益社団法人3.11メモリアルネットワークなどが中心となり、石巻市南浜・門脇地区の住民100人以上から震災当日の行動を聞き取り、どこにいて、どこへ向かい、なぜその判断をしたのかを詳細に記録したものである。khbの番組は、この調査結果をもとに当日の避難行動をCGで再現し、津波避難の実態を可視化した。証言として語られる出来事を、空間の中で起きた人々の行動として再構成した点に、この作品の特徴がある。これは、映像メディアならではの視点である。
上映会のパネルディスカッションでは、3.11メモリアルネットワークの中川政治氏が、この調査の過程について語った。被災者に震災当日の行動を聞くことは、極めて繊細な作業だったという。この調査を始めた当初、多くの人から聞き取りを断られた。あの時の出来事に向き合う気持ちになれなかったのかもしれない。それでも、時間の経過と合わせて人づてに声をかけ続けることで、最終的には多くの方々から協力を得ることができたという。
被災者の方々に震災当日の体験を語ってもらうことは、きわめて繊細な作業である。だからこそ、時間をかけるのが前提となる。最初の一、二時間は、震災で失ったものや当時の辛い記憶が語られることが多い。そこからさらに何度も足を運び、関係を築いていく中で、ようやく避難時の行動の記憶を辿り始めてくれたという。中川氏は、辛い経験を乗り越えて調査に協力してくれた被災者の方々への感謝の思いを繰り返し語っていた。
同様のことは番組の取材にも当てはまる。アナウンサーである鈴木奏斗氏は、住民の証言と避難行動の記録を映像として残し、次の世代に伝える必要があると強く感じ、この取り組みは番組として伝えるべき内容だと判断したという。鈴木氏は自らディレクターを兼務し、取材に当たった。
取材対象者にいきなりカメラを向けても話をしてもらえるわけではない。現地に通い続け、企画の意図を説明し、理解を深めてもらいながら、少しずつ人間関係を築いていく。その過程を経て初めて、被災者の方々はカメラの前で当時の出来事を語ってくれたという。鈴木氏は、取材に応じてくれた被災者の方々への感謝の思いを繰り返し語っていた。
こうした時間のかかる過程を経て初めて、避難行動の記憶は言葉として語られる。そして、その証言の積み重ねが「あの時プロジェクト」と『100人の証言~命をつなぐ津波避難~』という作品を支えている。このプロセスがなければ、この企画は成立し得なかっただろう。
調査が明らかにしたのは、地震発生後に人々が直ちに高台へ向かったわけではないという現実である。3.11メモリアルネットワークの「あの時プロジェクト」では、地震発生時に南浜・門脇地区の外にいた人の一部が、家族や自分の店を心配して地区へ戻ってきたことが確認されている。自宅に戻ったものの、家族の姿が見当たらず、複数の場所を探している間に津波に巻き込まれかけた事例もあったという。また、自営業者など日中に家を空ける人の中には、防災訓練に参加する機会が少なく、正確な避難場所を十分に把握していなかったケースもあったと報告されている。
こうした行動の傾向は、石巻市全体を対象にした研究からも読み取ることができる。公益社団法人土木学会の調査では、外出先から自宅を経由せず直接避難場所へ向かったケースは、徒歩避難・自動車避難のいずれにおいても全体の約2割にとどまっている。特に自動車避難では、外出先から一度自宅へ戻ったケースが303件中78件(約25%)あったと報告されている。
つまり、地震発生後に人々が直ちに高台へ向かったわけではなく、避難に至るまでにいくつかの行動を経ることが少なくなかったのである。
電話をかける。車を取りに行く。家に戻る。家族を探す。
その一つひとつは日常生活では合理的な行動である。しかし津波災害では、それが致命的な時間の遅れにつながる。『100人の証言』の取材は、まさにこの「避難までのプロセス」を解き明かす試みだった。
取材の中で繰り返し語られたのは、「早期避難」の重要性である。津波避難の原則は、地震発生から10分以内に避難を開始することである。しかし実際にその行動をとれた人は決して多くなかった。
ある取材対象者の言葉が印象的だった。
「家族の信頼が大切だ」
その人は、地震直後に家族が心配で自宅へ向かった。しかし家に着いた時、家族はすでに避難しており、そこには誰もいなかった。避難場所の小学校にも探しに行くが見つからず、避難所生活に備えるため再び自宅へ。家を目前にしたその時、約100メートル先に黒い津波が迫っているのが見えたという。
とっさに車に乗り込み、バックギアのまま必死に走り続けた。奇跡的に高台へ逃れることができたが、迫り来る津波を目の前にした時、「もうダメだ」と覚悟したと振り返った。
しかし、この調査が明らかにしたのは危険な避難パターンだけではない。むしろ今後の防災にとってより重要なのは、「命を守る避難の連鎖」が確かに存在していたことである。
その象徴的な事例が、当時の石巻市立門脇小学校の避難行動である。児童と教員はすぐ近くの高台にある日和山公園へ向かって避難を開始し、その後も神社、石巻高校へと避難を続けた。この集団避難の姿を見て、「逃げなければならない」と気づいた住民も多かったという。また、避難している人が周囲に「逃げろ」「高台へ行け」と声をかけ、その言葉に促されて避難を始めた人もいた。
さらに、子どもたちが山へ逃げたという情報を聞き、その場所へ向かった親も少なくなかった。子どもの行動が親を動かし、その動きがさらに地域の住民へと広がっていったのである。
声がけや、集団避難の姿、そして子どもの避難行動そのものが、地域の中で避難行動を広げていった。こうして避難は人から人へと連鎖し、多くの命を守る行動へとつながっていった。
番組のエンディングでは、2024年の能登半島地震の被災者へのインタビュー映像が流れた。津波警報が発表された際の避難行動について、住民たちは口々にこう語っていた。「東日本大震災の時の映像が頭に残っていた」「あの映像を見ていたので、とにかく高い所へ逃げようと思った」。
彼らの多くは、東日本大震災を直接経験したわけではない。それでも、津波の映像を繰り返し見てきたことで、災害の恐ろしさを自分の出来事として理解していた。言い換えれば、人々は映像を通してあの悲劇を疑似体験していたということなのだろう。
映像の力とは、悲劇を伝えることではない。
人間の行動を理解し、未来の命を守る知識へと変えることにある。
その知見を社会の共有財産として蓄積し、次の災害への備えに生かしていくことが、これからの災害報道に求められている。
災害情報は、発信された時ではなく、人の行動を変える形で社会に届いた時、初めて意味を持つのである。