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【特集】東日本大震災から15年―災害情報の到達度を決めるもの~被災地の取材経験から考える報道と制度~
March 12, 2026
2011年3月11日に発生した東日本大震災から15年が経ちました。頻発する自然災害や加速する人口減少など、新しい課題が次々と押し寄せる中で、私たちは震災の経験から何を学び、これからの社会づくりにどう活かしていくべきなのでしょうか。当時の記憶が風化しつつある今だからこそ、当財団に集う幅広い分野の研究者の知見を通して、震災の教訓と15年間の変化を多角的に見つめ直します。
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この記事のポイント |
岩手県陸前高田市の高台から、眼下に広がる町を見渡す。15年前、東日本大震災の直後に現地入りし、番組の中継や取材の拠点としていた場所である。震災後、何度もこの場所を訪れてきたが、今回は報道人としてではなく、一個人としてここに立っている。
流出した気仙川沿いの地域は整地され、住宅が点在している。まだ更地も目立つが、露出していた表土は徐々に植生に覆われつつある。河口の先に広がる広田湾を見渡すと、当時の津波の映像がよみがえる。

風景は変わった。しかし、人々の行動を分けたものが何だったのかという問いは、ここを訪れるたびに立ち上がる。
震災から時間が経つにつれ、被害の大きさそのものよりも、あのとき何が人々の行動を分けたのかを考えるようになった。
発災直後に避難を開始した人と逃げ遅れた人の差には、津波の危険性の受け止め方の違いもあった。過去の経験から、警告を切迫したものとして受け取らなかった人もいた。だが、それだけが原因ではない。発信された情報を受け取ることができていたかどうかという、より根本的な問題があった。
被災地での取材経験を手がかりに、災害時に情報がどのように人々に届き、行動を分けたのかを考えてみたい。あのとき現場で起きていたことを出発点に、情報の到達を支える制度と伝達の基盤について整理する。
震災直後の取材で目にした光景を「瓦礫」と呼ぶことに違和感があった。そこにあったのは壊れた物の山ではなく、壊れた生活だった。泥に埋もれた食器棚には茶碗が残り、衣装ケースには服が入ったまま漂着していた。水を吸ったアルバムからは家族の思い出がのぞく。各所に散乱していた写真だけは放置できなかった。
私たちは写真を見つけるたびに拾い集め、避難所の一角に「写真拾いました」と掲げた場所を設けた。やがてそこは写真を探す被災者が立ち寄る場所になった。写真を運び続けたのは業務ではなく、人としての自然な行為だった。
甚大な被害を受けた被災地では、多くの品々が処理されていく。しかし写真やアルバムは、そこに暮らしていた家族の歩みの記録だった。このときの思いが、後に別の「思い出」を拾い上げることにつながった。
津波の痕跡が残る集落を取材中、泥だらけの一本のVHSテープ(家庭用ビデオテープ)を見つけた。背表紙には「子供の成長記録13」とある。本来、被災地から物を持ち出すことは許されない。だが、写真を拾い上げたときと同じ思いが働いた。現場にはすでに重機が入り、まもなくすべてが処理されようとしていた。私はそのテープを手に取った。
塩水と泥水に浸かったテープの修復は容易ではなかった。テレビ局の技術部門に持ち込むも修復は不可能との判断だった。半ば望みは薄いと承知のうえで製造元に相談すると、想定外の返答があった。
「私たちの技術が被災者のためになるなら、できる限りやってみます」
こうして、水没したVHSテープの修復という前例のない試みが始まった。張り付いたテープを丁寧に剥がし、磁気データが失われないよう手作業で洗浄するという、気の遠くなる工程だった。
再生された映像には、小学生から中学生へと成長していく少女の姿が映っていた。小学校の学芸会では子どもたちが舞台で歌っていた。「辛いことを乗り越えていつか見えてくるものがあるよ」「スマイル アゲイン うつむかないで…」。
別の年には、中学校で谷川俊太郎の詩「生きる」を朗読していた。
「いま生きているということ」「笑えるということ」「怒れるということ」「命ということ」。
それは、地震と津波によって多くの命が失われた直後に再生された映像だった。
映像に映っていたのは単なる記録ではない。災害が奪った日常の具体を示す資料である。しかしそれは、報道機関が保持し続けるべき性質のものではなく、本来は所有者のもとへ戻るべきものである。そう判断し、撮影者の探索を始めた。
手がかりは卒業式で読み上げられていた少女の名前だけだった。津波により流出したもので、元の所在地も生存の可否も分からない。それでも、テープを拾得した集落を起点に周辺地域へ取材範囲を広げた。住民への聞き取りや学校への照会を重ね、数日後、少女の居場所を突き止めた。
彼女は19歳となり、介護士を目指して専門学校に通っていた。震災当時、宮城県沿岸部の特別養護老人ホームで研修中に被災し、避難を開始した直後に津波が到達した。本人も天井近くまで水に押し上げられ、通風口にしがみついて生存したという。
彼女はこの映像を見て、「7年前の自分がくれた生きる勇気」だと語った。
その言葉を受け、このVTRをドキュメントとして放送できないか検討を始めた。両親も交えて協議を重ね、了解を得たうえで取材を進めることになったが、その直後、当時高校生だった弟から放送に異を唱える電話があった。
「周りでは親戚や友人が亡くなっている。助かった姉を美談として扱わないでほしい」
弟の切実な訴えが示していたのは、我々の判断が周囲に新たな喪失感を生む可能性だった。取材を中止し、放送を断念した。
だが数日後、父親から連絡があり、放送をめぐる判断は再び見直しを迫られた。
「被災者の希望につながる内容なら放送してほしい。息子は家長として私が説得します」
放送の可否をめぐっては、局内でも意見が分かれた。学芸会の映像に映る40人余りの子どもたちについて、関係者全員から使用許可を得られるのか。デフォーカス(映像をぼかす処理)のみで放送は許されるのか。そもそも被災地からテープを持ち出した行為自体に問題はないのではないか。こうした論点をめぐり、報道局幹部や危機管理部門も交えた検討が重ねられ、放送が決定した。
最終的な判断を支えたのは、放送法が掲げる「公共性」の原則だった。放送は公共の福祉に資するものとして、社会にとって必要な情報を伝える役割を担っている。
この時の取材経験は、災害報道において何を伝えるべきかという問題と同時に、もう一つの問いを残した。それは、取材で得られた情報も、被災者に届かなければ意味を持たないということである。
発災直後は情報伝達の手段そのものが脆弱となり、被災者が情報を得る経路も限られる。
東日本大震災ではテレビの放送波は出ていたが、多くの家庭で受像機が津波により流失し視聴できなかった。携帯電話もつながらなかった。一方で、携帯ラジオや車載ラジオは受信でき、自治体庁舎や避難所の掲示板は生活情報を得るうえで最も確実な情報源となっていた。
ここから見えてくるのは、送り手が発した情報量と、受け手に実際に届いた情報量は一致しないという事実である。受信環境がなければ、情報は存在しないのと同じである。災害時の情報の価値は、「何を伝えたか」ではなく、「誰に届いたか」によって決まる。
被災者が必要としていたのは全国的な被害状況ではなく、半径数キロ圏内の生活情報だった。水や物資の配布場所、医療の受入先、入浴支援の有無、ボランティアの受付場所、自衛隊の活動地点、さらには家族や親戚の安否といった、きわめて具体的な情報である。情報の価値は網羅性ではなく、生活圏との一致にあった。
ここに「到達」という問題の核心がある。情報は拡散範囲や速度だけでは行動の根拠にならない。受け手の生活圏に入り、具体的な判断に結びついて初めて意味を持つ。
災害時には、自衛隊や自治体に加え、社会福祉協議会、NPO、企業など多様な組織が支援に関わる。日本財団のように自治体やNPOと連携し、資金支援や人材育成を担う団体も存在する。しかし、支援が存在していても、被災者に情報が届かなければ生活の中では機能しない。
支援情報は行政、支援団体、地域メディアの間で共有されなければ断片化し、必要な人に届かない性質を持つ。したがって課題は報道内容の充実だけではない。災害時の情報発信を「社会の情報基盤」として捉え、誰がどの情報を管理し、どの経路で共有するのかという役割分担を制度として設計する必要がある。
さらに、情報の到達度は通信技術の性能だけで決まるわけではない。平時から接点のある発信元を通じて伝えられた情報ほど、自分ごととして受け止められ、行動につながりやすい。つまり情報の信頼性は媒体の規模ではなく、日常的な関係の中で形成される。
全国ネットが提供する網羅的な情報と、自治体や地域メディアが提供する局所情報がそろって初めて、住民の避難行動は成立する。災害報道は速報性の問題ではなく、地域社会の中で情報が受け取られ、行動に結び付く伝達の仕組みが維持されているかという観点から捉え直す必要がある。
東日本大震災から15年が経過した現在、多くの自治体では津波警報の発表とほぼ同時に避難指示が発信される仕組みが整備されている。気象庁の警報は全国瞬時警報システム(Jアラート)を通じて自治体に伝達され、防災行政無線や携帯電話の緊急速報メールなどを通じて住民へ即時に伝えられる。さらに、SNSやメール配信など複数の経路を併用することで、異なる媒体から情報が届く体制が整えられている。
今後、放送事業者は再編統合の局面に入り、地方局や支局など地域拠点の減少が懸念されている。これは単なる産業構造の変化ではない。災害時に住民へ情報が届く経路そのものの縮小を意味する。
地域拠点が減れば、自治体や地域社会との日常的な接点が失われる。災害時に何を優先して伝えるべきかという判断力も、平時の取材や関係の中で育まれる。拠点の減少は取材力の問題にとどまらず、情報を信頼し行動に結び付ける住民側の到達力も同時に弱める。情報が発信されていても、地域の生活圏の中で届かなければ機能しない。
必要なのは放送規制の議論だけではない。自治体と地域メディアが平時から連携し、共同訓練と情報共有手順を定め、地域拠点の維持を社会として支えることである。災害時の情報発信を個別の防災施策ではなく、住民の行動を成立させる社会基盤として位置付ける必要がある。
災害時の情報到達を左右するのは通信技術の性能ではない。情報発信者と受信者の信頼関係の維持と、有事における運用の設計である。
震災から15年という時間は、記憶を風化させるために過ぎたのではない。情報が確実に住民へ届く条件を、いま改めて問い直す必要がある。