| ヤングリーダー奨学基金プログラムは、日本財団が1987年に将来の世界を担うリーダーの育成を目指して立ち上げ、1997年からは東京財団が運営を行っている、世界の大学の人文社会科学分野の大学院生を対象に奨学金を給付する奨学制度。日本を含む世界44か国の69大学・大学連合に各々100万米ドルの基金を寄贈し、17,000名を超える奨学生(Sylff「シルフ」フェロー)を輩出してきた。Sylffフェローは卒業後、外相や中央銀行総裁などを務めたり、学術研究、ビジネス、非営利セクターなど様々な分野の第一線で活躍している。 |
ドイツ東部のライプチヒ中央駅に電車で降り立つと、ヨハン・セバスティアン・バッハのコラール「主よ、人の望みの喜びよ」が聞こえて来た。
世界で最も美しいと称賛される欧州最大の中央駅の構内が、コンサート会場と錯覚するほど心地よい。ライプチヒが、ウィーン、パリに並ぶ「音楽の都」で「バッハの街」であることを実感させられた。
分断を統合させるバッハの音楽
バッハのみならず、ワーグナー、メンデルスゾーン、シューマンたちが活躍したライプチヒでは、250年以上の歴史を誇る世界最古の市民オーケストラ「ゲヴァントハウス管弦楽団」でベートーヴェン、ブラームス、ブルックナーら作曲家の作品が初演された。クラシックの聖地である。音楽院では、「荒城の月」で知られる瀧廉太郎も学んでいる。
バッハが教会音楽を取り仕切る「カントール」を、65歳で亡くなるまで27年間務めたのが聖トーマス教会だ。代表作「マタイ受難曲」が初演され、没後90年ほどたった1841年にメンデルスゾーンが同作を復活上演した。教会内にはバッハが永眠する墓碑があり、世界中から音楽ファンが訪れる。
バッハは毎週、聖トーマス教会少年合唱団で指揮や指導を行い、ライプチヒ市音楽監督も兼務した。宗教曲から器楽曲まで作品を残し、「ヨハネ受難曲」が初演された聖ニコライ教会と二つの教会で音楽と向き合った。
バッハの名を冠した音楽祭も1904年以降、毎年6月に開かれ、街の随所で様々なバッハ作品の演奏が聞かれる。聖トーマス教会隣にあるバッハ博物館のピーター・ウォルニー館長は、「世界から約7万人が訪れる、ドイツで最も国際的な音楽祭だ。昨年は42%、計57カ国からの外国人だった」と多様性に胸を張る。
「18世紀初頭に最も重要な作曲家がライプチヒに来たことは大きな幸運だった。音楽文化を形づくり、今日に至るまでその中心であり続けている」。音楽祭はその結びつきを毎年確認し、記憶を新たにする場でもある。
ライプチヒは、街全体が「音楽の磁場」として機能する。重要なのは、音楽が持つ統合の力だ。「私たちは世界が分断する困難な時代を生きている。だが音楽は、人の出自や宗教、政治的立場を超えて心に直接働きかける」。なかでもバッハの音楽は「複雑でありながら美しく、深い表現力によって人々の魂に届く」。多義性ゆえに誰もが意味を見いだし、共感が生まれると説明した。
「だからこそ、バッハの音楽を通じて人々が結びつくことを理解するのは重要であり、それが私たちの使命でもある」。6月の音楽祭で世界の人々が同じ空間を共有する光景に、「毎年、特別な一体感を感じる」と語った。
世界最古の大学の一つ 最も名高い医学部
神聖ローマ帝国皇帝の保護のもと、1409年に設立された世界最古の大学の一つであるライプチヒ大学も街のシンボルである。哲学者ライプニッツ、数学者メビウスが教壇に立ち、ゲーテやニーチェ、作曲家シューマン、思想家マルクス、メルケル元ドイツ首相らが学んだ欧州屈指の学府として知られる。
最も名高い学部は医学部で、エルヴィン・フォン・ベルツをはじめ、日本人では萩原三圭、三浦守治、森鷗外もここに留学して、ドイツ医学を学んだ。他にも物理化学研究のため留学した化学者、池田菊苗は後に「味の素」を発明した。またノーベル物理学賞受賞した朝永振一郎は、理論物理学者、ハイゼンベルクに師事して研鑽を積んでいる。
ゲーテや森鴎外も通ったレストラン
旧市街のアーケード街の一角に1525年創業の歴史あるワイン酒場兼レストラン、「アウアーバッハス・ケラー」がある。1525年、医師で同大教授だったハインリッヒ・シュトローマー・フォン・アウアーバッハが、「ワインは正しく飲めば、各種病気の予防になる」と考え、家のワインセラーに学生のための酒場を設けたことがはじまりだ。
ライプチヒ大学で遊学していたゲーテも「アウアーバッハス・ケラー」に足繁く通ううち、「ファウスト博士が悪魔の力を借り、大きなワイン樽にまたがってこの酒場から表の通りへ飛んで行った」という古い言い伝えを耳にした。
その伝承に惹かれたゲーテは、代表作「ファウスト」の悲劇第一部に「アウアーバッハス・ケラー」を登場させた。以来、ここは世界で最も有名なレストランの一つとなった。
軍医として1884年から4年間、ドイツに留学していた森鴎外も、最初にライプチヒに滞在した1885年12月、この酒場を訪れている。ここで友人の井上哲次郎に勧められた鴎外はゲーテの「ファウスト」を翻訳することを決意し、日露戦争後の1913年に翻訳本の初版が発行された。その後、軍医総監の任を解かれ、文筆業に専念して文豪となるが、当時の鴎外の日記には、「ファウスト」を翻訳する喜びが綴られている。
「アウアーバッハス・ケラー」の店内の壁には至る所にゲーテの「ファウスト」関連の絵が飾られ、森鴎外の絵もあり、「森鴎外、アウアーバッハス・ケラー訪問時の回想(明治18年12月27日)」との説明があった。
ドイツ留学中の軍服姿の鴎外とファウストの翻訳を奨めた友人の井上哲次郎、その後ろには悪魔メフィストフェレスとファウスト博士が立つ。もう一人の和服姿の鴎外は、過去の自分を振り返る晩年の鴎外、という設定だ。
もう一人、日本とゆかりの深い人物の銘板が旧市街の商店にあった。17世紀の江戸初期に来日したドイツ人外科医、カスパル・シャムベルゲルである。蘭方医として、出島や江戸で外科医療を実践し、西洋医学を伝えた。シーボルトより前に制度として西洋医学を植え付けた最初の人物で、「実践的外科医」だった。彼の技術は「カスパル流外科」として体系化され、蘭学発展の基礎となった。
帰国後は商人として成功し生誕地の商店には、日本とドイツの医学交流史における先駆的存在としての業績を讃える銘板が設置されている。長男はライプチヒ大学医学部長及び学長を務め、大学の発展に大いに貢献した。
外国留学生が多いライプチヒ大学
西ドイツ統一後の1991年、同大学は日本財団と東京財団によるヤングリーダー奨学基金プログラム(Sylff)の基金校となった。中・東欧の精神的・文化的再建を担う民主化リーダーの育成を掲げ、留学生も対象とする奨学制度によって、東欧や旧ソ連から指導者となる多様な人材を受け入れている。
その一人が、旧ソ連カザフスタン出身のマハバット・ケンジェガリエワ博士である。2000年から4年間、Sylff奨学金を受給し、ドイツとカザフスタンの高等教育の構造と発展を比較研究して博士号を取得した。現在はライプチヒ大学教育学部の講師として教壇に立つ傍ら、創価大学や三重大学との交換留学プログラムに携わり、愛知県立大でも多文化共生教育に関する活動を展開している。日本、カザフスタン、ドイツを教育で結ぶ架け橋となることを目指している。
もう一人、旧ソ連アルメニア出身のシラルピ・モヴシシャン博士もSylff修了生だ。アルメニア国立教育大学で教育学と社会学を学び、ライプチヒ大学グローバル・エリア研究大学院に進学。2019年から3年間、Sylff奨学金を得て、ベルリンの壁崩壊後の東西ドイツにおいて、ディアスポラとしてのアルメニア人がいかにドイツ社会と関係を築いたかを研究し、博士号を取得した。
第二次大戦後、ドイツはドイツ民主共和国(東独)とドイツ連邦共和国(西独)という、経済体制とイデオロギーを異にする二つの国家に分断された。モヴシシャン博士は、その分断と統一の過程をアルメニア人の視点から読み解き、歴史の複層性を浮かび上がらせた。
現在は祖国で外交官を志している。ロシアのくびきから脱却し、祖国を欧州連合(EU)とNATOへ導く外交に携わることが目標だ。
イタリアから留学したレベッカ・グロッシ博士はSylff奨学金で2022年から3年間、チャウシェスク政権崩壊後の1990年からロシアがクリミア侵攻した2014年までの黒海におけるルーマニアの地政学的な役割について研究を重ねて博士号を取得した。
イタリア外務省に入るかEU(欧州連合)など国際機関に入り、ルーマニアなど東欧の民主化を目指す。(文責:岡部伸)
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