政治外交検証研究会レポート ―政治外交史研究を読み解く― 第3回「日本の知的資源をどう活かせるか」前編 | 研究プログラム | 東京財団政策研究所

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政治外交検証研究会レポート ―政治外交史研究を読み解く― 第3回「日本の知的資源をどう活かせるか」前編

November 22, 2019

研究会出席者(政治外交検証研究会メンバー、順不同、肩書は当時)

  • 細谷雄一(東京財団政策研究所上席研究員/政治外交検証研究会幹事役/慶應義塾大学法学部教授)
  • 五百旗頭薫(政治外交検証研究会幹事役/東京大学大学院法学政治学研究科教授)
  • 松本佐保(名古屋市立大学人文社会学部教授)
  • 大庭三枝(東京理科大学教授)
  • 板橋拓己(成蹊大学法学部教授)
  • 玉置敦彦(中央大学法学部准教授)
  • 合六強(二松学舎大学国際政治経済学部専任講師)

日本の知的資源をどう活かせるか

五百旗頭 細谷先生に対して質問させていただきます。日本人として日本が持っている知的資源に基づいて、政治外交史研究の現状にどのような貢献ができるかを考えた場合、2つ思い浮かぶことがあります。
1点目は、日本外交史が持っている資源であります。もともと岡義武先生は国際政治史とヨーロッパ政治史という両方の通史をお書きになっています。この2つの通史は密接不可分の関係にあります。というのも、岡史学においては、ヨーロッパにおける政治体制の変遷と国際政治の構造変化は連関しているからです。同じようなことが今から書かれる通史に可能なのか否かをお伺いしたいです。
2点目は普遍性の衝突についてです。
東洋史の伝統を生かして世界史を描く試みとして、最近、岡本隆司先生が『世界史序説―アジア史から一望する』(ちくま新書、2018)を刊行されました。同書は古代四大文明からヨーロッパ覇権の時代までの非常に壮大な領域を扱っています。他にも、岡本隆司先生が編者の『宗主権の世界史』(名古屋大学出版会、2014)は、宗主権という言葉が生まれる以前の時代を論じています。これは世界史というよりユーラシア史ですが、13世紀に誕生したモンゴル帝国が解体した後、東は清朝、西はオスマントルコを中心に安定的な秩序がヨーロッパとユーラシアの東西でつくられました。これらの帝国は、単に普遍性を有するだけではなく、複数の普遍性を自らの体内に飼いならした帝国であったことを指摘されています。つまり、清朝は儒教的な漢字圏の普遍性とモンゴル的な普遍性を併せ持っており、中国の中心部では儒教的な普遍性を、北の満州や西のチベットではモンゴル的な普遍性を適用し、地域ごとに皇帝が異なる普遍性の顔を見せることで広大な地域を統一しました。
他方でオスマン帝国は、当然イスラムの普遍性があり、それからモンゴルの普遍性があり、キリスト教正教会の総主教座がイスタンブールにあるのでローマ的な普遍性も継承していました。オスマン帝国はそれらの普遍性を地域ごとに使い分けるのではなく、帝国内全体に対して皇帝が同時に3つの顔を持つことによって、その広大な地域を統一していたのです。
これらの帝国にはむかえる勢力はなかなかなく、その両側にサケの切り身のように特段の普遍性を持たない気の毒な存在としてあったのが、東は日本、西は西ヨーロッパだったわけです。ところが、たかだかサケの切り身であったからこそ特定の普遍性に煩わされずに世俗的に均質的で凝縮力のある国民国家を形成しました。法の支配が全国一律に通用して、大きな資本と大きな軍事力を結集して帝国を切り崩していきました。だからこそ、西ヨーロッパと日本は、新しい歴史のうねりをつくったと言えます。
本日お話になったのは、そのような西ヨーロッパと日本、そこにアメリカが加わるのですが、それらが中心となっている時代の終わりをどのように捉えるのかという議論だと認識しております。
私が思うに、そこには2つの可能性があり、1つは新しく挑戦している国々を普通の国民国家として捉えることです。もちろん挑戦者ではあるし、中身はもっと権威主義的かもしれませんが、テンプレートは近代のものを共有している国々だという見方です。
もう1つは、挑戦者たる中国やイスラム系は近代以前の普遍性を引きずっている存在だと捉えることです。そうすると、テンプレート、物の見方、考え方や振る舞いなど、すべてにおいて異なる価値観を持つ存在が挑戦していることになります。そもそも国民国家に象徴される国家理性や自己抑制すらないかもしれません。それ故に我々との間により深刻なすれ違いが起こり得るというような、厳しい見方があると思うのです。
2つのシナリオのどちらになるのか、国民国家の今後に対してどのようなスタンスを取るべきか、お考えをお聞かせいただければと思います。

細谷 おそらく示唆していらっしゃるとおり、学問の専門化が進んでいることによって、いわゆる実証的なアーカイブを用いた歴史学の世界と、哲学、社会学、政治思想、あるいは国際政治論などの研究との間に乖離が出てきました。少なくとも岡義武先生が試みて一定程度成功した、あるいは、一定程度で時間切れとなってしまったような実証的分析と構造的分析との麗しい融合は、現代の時代にはできないのだろうと思います。
非常に皮肉なことに、グローバル化によって現実の政治経済は国民国家単位では完結しえない状況にありますが、それと反比例して、歴史学では依然としてアーカイブを基にした国家単位での研究が行われています。ここに大きな齟齬があると思うのです。本来であれば、岡先生のような国家を超えた連関と比較を観る視座が、実は国民国家形成期のあの時代よりも現在のほうが非常に大きな意味を持つ一方で、方法論的にはどうしてもそれが難しい。
ただし、先ほど日本政治外交史の持つ資源をどう用いるかというご指摘をされましたが、実はわれわれ(歴史家)の多くは政治学の世界にもいて、無意識のうちに、あるいは意識的に吸収している政治学の知見を案外自らの書き物に応用しているような印象があります。それこそが、どのような視点で描くのかという、歴史を書く上での創造力や構想力なのではないでしょうか。
例えば、五百旗頭先生が奈良岡先生といっしょに書かれた日本政治外交史のテキストは、まさに政治学的な問題意識を基礎に置いて書かれています。おそらくそのあたりは史学の世界で書かれるものとは大きく異なるのだろうと思います。そういった意味で、五百旗頭先生はご自身の日本政治外交史のテキストのなかで、国民国家単位でのアーカイブ研究という次元を超えた政治学的な問題意識を根底に置いており、それは今後よりいっそう重要になるのではないかと思います。
とはいいながらも、2番目の質問はいまお話したことを破壊するような要素を秘めているわけですが。岡先生が書かれた本は、非常に教科書的な国民国家形成というものが基礎にあります。ヨーロッパと日本はそこに非常に当てはまりやすいですね。他方で、五百旗頭先生がご指摘されたのは、そうではない近代以前、つまり国民国家以前の枠組みをどう活用するかという点ですね。国民国家の視座について言えば、例えばイギリスは、4つのネーションが集まって、より大きな「連合王国」という「国家(ステート)」を構成しています。このような国民国家はこれから、徐々に「国民(ネーション)」と「国家(ステート)」に分断されていくのではないでしょうか。つまりネーション(国民)というものが自明ではない時代に、ステート(国家)が残るわけです。中国は、1つの「ネーション(民族)」でつくられている国ではありません。しかし、ITを用いたデジタル権威主義により、国民を強力に統制できる時代になりつつあります。ここに帝国的なものや、国民国家以前の前近代的なもの、1930年代的なものがにじみ出ています。 

国民国家の時代は終わるのか

松本 先日ある研究会で「中国とは未だ国民国家形成過程にある国である」というご指摘を聞きました。その一方で欧米や日本はある程度国民国家が完成しているからこそ、その解体について議論しているのだというご指摘で、大変衝撃を受けました。つまり中国は国民国家形成の途上にあるからこそ、規範が異なることを考慮しなければならないということを思いました。

細谷 松本さんがお話された、中国は非常に若い国民国家であるとの指摘は、まったく言い得て妙だと思いました。では日本の国民国家発展の歴史はどう位置付ければいいのか。それが成功物語であるとしても、あくまでも日本は例外であり、地理的な環境、歴史的文明的な環境が他の国より特殊で、ガラパゴス的な独特な進化を遂げたとみるべきなのか、あるいはグローバルヒストリーとして、あくまでもグローバルな歴史の一部分であり、他と切り離して論じるべきでないとみるべきなのか。五百旗頭先生におうかがいしたいです。

五百旗頭 中国を囲い込めばいいという楽観論に世界が包まれている時期はそれでいいのですが、いまは中国異質論が全盛期となっています。それに対しては、私はもう少し繊細な議論をしたほうがいいのではないかと思います。
例えば日本にしても、非常に強力な身分制の遺産が明治時代に入っても消えることなく、それを解体するために新たな地方自治制の創出などに苦労したわけです。どの国もそれなりに異質であって、その上でどのような関係を取り結んできたのかを見たほうがいいのだろうと思います。とはいえ日本は結果として自由民主主義に基づく国民国家に近いものをつくり、中国は今のところそうではないというのはその通りではないでしょうか。未来については分からないのですが、自由民主主義に基づく国民国家に代わるモデルはまだ存在しないと思っていますので、最終的にはこれが生き残るのではないかと期待し、予想しています。ただし、しばらくはこちらが守勢に立たされ、つらい時期を送るのだろうと思います。そうすると、おそらくしばらくは<昆虫化>していくのではないかと想像しています。つまり国民国家が危機に晒されていますので、自分の外壁を守るほうに多くの資源を割かなければいけないということです。例えば、最近官僚を志す人は減少していますが、そのなかでも人気の省庁は、外務省、防衛省、警察です。これらは国家の外壁を守る役割を持っています。逆に自分たちのアイデンティティをつくるという意味での文科省、あるいはインフラを整備するために割ける資源は減っていて、人材も集まりにくくなっています。
政党を見ても、危機管理や選挙には強いけれど、内部での人材の育成には弱さがあり、危機の発生は防げない。あるいは、企業やいろいろな組織を見ても、コンプライアンスやアカウンタビリティなど、対外的に自分を守るためのキーワードはどんどんと出てくるけれども、技術開発に向ける予算の比重はどんどんと減っています。そういう状況ですので、<昆虫化>でしばらくしのいでいるという状況なのです。昆虫は外骨格に守られるかわりに脊髄がなく、哺乳類のような血管系もなく、臓器が直接、血液の中に浸っている状態です。日本という巨体が昆虫のようなシステムで支えられるのか、気がかりなところです。

◆続きはこちら→ 第3回 後編「日本の知的資源をどう活かせるか」

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