R-2023-001-4
※本稿は、2023年2月10日に開催した「歴史分析プログラム」ウェビナー「日米における民主主義とポピュリズムの現状」の内容を東京財団政策研究所が構成・編集したものです。 |
3冊の書籍から
板橋 ありがとうございました。ここで私からコメントしてディスカッションにつなげたいと思います。
本ウェビナーにせよ、そのもととなるポピュリズム国際歴史比較研究会にせよ、ポピュリズムをテーマに話をしてきました。そもそもポピュリズムとは一体何か。日本の主流メディアではポピュリズムに「大衆迎合主義」という訳があてられることがしばしばありますが、これは誤解を招く、あるいは問題のある訳語です。これまでにポピュリズム研究が蓄積され、研究者の間でもおおまかなコンセンサスができつつあります。本日の議論の補助線として、ポピュリズムとは何かを日本語で出版されている書籍をベースに話しておきたいと思います。
まず、日本で最も読まれている書籍として千葉大学の水島治郎教授の『ポピュリズムとは何か』(2016年中公新書)があります。同書ではポピュリズムが「『人民』の立場から既成政治やエリートを批判する政治運動」(7頁)あるいは「『エリートと人民』の対比を軸とする、政治運動」(8頁)と規定されています。エリートと人民がキーワードになるわけです。
一方、プリンストン大学の政治学者ヤン=ヴェルナー・ミュラー教授は『ポピュリズムとは何か』(2017年岩波書店)でこう定義します。「ポピュリズムとはある特定の政治の道徳主義的な想像(moralistic imagination of politics)であり、道徳的に純粋で完全に統一された人民(中略)と、腐敗しているか、何らかのかたちで道徳的に劣っているとされたエリートとを対置するように政治世界を認識する方法である」(27頁、下線は原文)。
おそらく、学界や研究者の間で最も世界的に受け入れられている定義はオランダ出身の政治学者、ジョージア大学のカス・ミュデ教授によるものです。「社会が究極的に『汚れなき人民』対『腐敗したエリート』という敵対する二つの同質的な陣営に分かれると考え、政治とは人民の一般意思(ヴォロンテ・ジェネラール)の表現であるべきだと論じる、中心の薄弱なイデオロギー」である(カス・ミュデ、クリストバル・ロビラ・カルトワッセル『ポピュリズム――デモクラシーの友と敵』2018年白水社、14頁、下線は原文)。要するに、ポピュリズムとはある種のイデオロギー・理念であり、それは政治の世界を「真の人民」と「腐敗したエリート」に分けて、自らが「真の人民」を代表すると主張するイデオロギーである、というものです。
ポピュリズムと民主主義の関係
三人の研究者による定義を紹介しましたが、ポピュリズムが民主主義とどうかかわるかについては三者三様です。水島教授はポピュリズムには困った面もあるが、無党派層の動員や投票率の上昇など民主主義を活性化させる側面もあると指摘します。ミュラー教授は対極的で、ポピュリズムは言論の自由やマイノリティの保護といった自由民主主義の根幹部分を破壊するので民主主義とは相容れないといいます。ミュデ教授は、ポピュリズムは確かに民主主義なのだけれども、リベラルではない(「非リベラルな民主主義」)といいます。
陰謀論に結び付く構造
ミュラー教授の著作に依拠しながらお二方の報告に沿う形で説明すると、ポピュリズムは3つの要素からなります。1つはエリート批判。2つ目は反多元主義。自分たち「だけ」が人民を代表しているという主張です。そして3つ目は政治の世界を道徳主義的に認識すること。つまり、世界は「道徳的に純粋な人民」と「腐敗したエリート」「怠惰なマイノリティ」とに分けられるという認識です。
「道徳的に純粋無垢な人民」を想定するということは、それ以外の者は非道徳的なものとして排除されることを意味します。また、「単一で同質的で真正な人民」という想定は、容易にナショナリズムや人種・民族に基づいた排外主義に傾きがちです。
さらに、ポピュリストにとって「人民」は、民主主義の制度的な手続きの外部にある擬制的な存在です。それゆえ、彼らが解釈する「人民の意志」は、選挙結果とは異なります。こうしてポピュリストは、選挙結果が自分たちに不利だったとき、それが「真の人民の意志を反映していない」と言い張ることができます。これは、容易に陰謀論と結び付く。たとえどれほど民主主義的な制度でも、「腐ったエリート」が舞台裏で不正を働いていると言い募ることができるからです。例えば、2020年の米大統領選挙のときのトランプが好例です。彼は、選挙結果が出たばかりの11月11日、「人民はこの不正に操作された選挙を受け入れないだろう!(People will not accept this Rigged Election!)」とツイートしています。このツイートは、ポピュリズムと陰謀論の親和性を鮮やかに示すものです。
欧州の状況
昨今、欧州でもポピュリズムが懸念されています。ポピュリストが「真の人民」というとき、「真の人民」ではない「敵」が想定されるわけですが、欧州においては、まず「堕落したエリート」の象徴として、欧州連合(EU)がやり玉にあがります。EUが国家の上にあり、国家は「ブリュッセルの官僚たち」のいいなりにならねばならない、そういったエリートに対抗して「真の人民」の意思を政治に反映しなければならない――こうした反EUの主張が届きやすい状況になっています。もう一つ、欧州ポピュリストによって「真の人民」から排除されるのが、移民・難民です。この問題は1970年代からありますが、2015年の欧州難民危機以降、特に顕著になってきました。その背景には上記のロジックがあるということです。
ポピュリズムの現れ方、また強弱は国や地域によって様々です。欧州各国の選挙制度は基本的には比例代表制が多く、なおかつ政党が概ねミリュー(政治路線、経済利害、世界観、生活文化などを共有する社会集団)に応じて分かれているので、わりとすっと右翼ポピュリスト政党が出てきます。米国のように共和党が乗っ取られる事態にはなっていかない点が指摘できます。
ポピュリズムとは切り離したほうがいいかもしれませんが、欧州でも政治的暴力への誘惑が高まっている面もあるかもしれません。例えば、ドイツの連邦憲法擁護庁が政治的な暴力の数をカウントしているのですが、それは徐々に増えています。また、2022年12月にドイツで、連邦議会を襲撃するなどクーデター計画の謀議を行っていたとして首謀者の貴族をはじめ極右勢力メンバー25人が逮捕されました。中には軍人や元国会議員なども含まれていて衝撃を与えました。これがどこまで深刻な問題かについては諸説ありますが、私自身は過大評価も過小評価もすべきではないと思っています。その背景として、政府による新型コロナウイルス対策への反発、米国のQアノンやトランプ支持者たちとの連関が指摘されています。また、2020年夏に独連邦議会議事堂への乱入未遂事件があり、その後米連邦議会議事堂やブラジルの大統領府・連邦議会議事堂への襲撃事件が起きています。このように発想が連鎖しています。