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【論考】「となりのおばちゃん」と「街の瓦版屋」  地域から頼られるメディアはどう生まれるのか
画像提供:SEA WAVE FMいわき
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【論考】「となりのおばちゃん」と「街の瓦版屋」  地域から頼られるメディアはどう生まれるのか

September 29, 2026

元テレビ朝日 報道局プロデューサー 江野夏平

「我々が避難してどうする」― 放送を続けるという決断
正しい情報とは何か ― 住民に叱られて気づいたこと
「お前らは嘘をついたのか」― 災害情報に正解はあるのか
放送する側も被災者だった ― FMいわきを支えた地域の人々
情報が人を動かした ― いわき光洋高校の避難所
「いつもと違う声」― 平時の近さが伝えた危機
地域メディアの連携 ― 紙から電波へ、電波から紙へ
いわき民報「我々は街の瓦版屋である」

「テレビは遠い」民放ローカル局への問い
信頼されるメディア
「いわきで、ひとつに」― 地域情報基盤としてのメディア

「FMいわきの放送が救いだった」。
先日参加した社会情報学会の地域メディア研究会で、茨城大学地域未来共創学環の岩佐淳一特任教授から聞いた言葉である。岩佐氏は、東日本大震災当時、福島県いわき市に住んでいた教え子から、後にそう聞いたという。「役に立った」でも、「必要な情報が得られた」でもない。「救いだった」という言葉が強く心に残った。
開局から30年。一つのコミュニティFMが、なぜ市民から「救いだった」とまで語られる存在になったのか。その問いを確かめるため、SEA WAVE FMいわきと、地域紙のいわき民報を訪ねた。二つのメディアは媒体も規模も違う。しかし、聞き取りを進めると、平時から地域の中で人の声を聞き、有事には必要な情報を互いに受け渡すという共通の姿が見えてきた。

「我々が避難してどうする」― 放送を続けるという決断

FMいわきは1996年9月に開局した。阪神・淡路大震災を契機に、災害時の情報発信を重要な役割の一つとして生まれたコミュニティFMである。それから15年後の2011年3月11日、東日本大震災が発生した。地震と津波、さらに東京電力福島第一原子力発電所の事故が重なった。防災を一つの目的として生まれた放送局が、想定をはるかに超える複合災害に直面した。

原発事故が深刻化すると、いわき市から避難する人が相次いだ。放射線は目に見えず、どこまで危険が迫っているのかも分からない。現地で取材していた大手放送局などの多くも、安全確保のため市外へ退避した。退避の是非をここで論じたいのではない。その結果、街に残る市民へ、給水や食料、避難所、営業を続ける店といった生活情報を届けられる存在が限られたという事実が重要である。FMいわきにも、放送を続けるのか、それとも自分たちも避難するのかという判断が迫られた。 

東日本大震災時当時の取材資料など(著者撮影)"
東日本大震災時当時の取材資料など(筆者撮影)

この話を、「地域のために放送人が残った」という美談にしてはいけない。FMいわきのスタッフも被災者だった。家族がいる。子どもがいる。放送局には市民へ情報を届ける責任がある一方、スタッフの生命を守る責任もある。放送を続けるという判断そのものが、働く人たちを危険にさらす可能性もあった。家族とともに避難した人もいたが、その選択を批判する職員は誰一人いなかった。

あの時、政府は、周辺地域で測定された放射線量について「直ちに健康に影響を及ぼすものではない」という趣旨の説明を繰り返していた。しかし、「直ちに」とはどの程度の時間を意味するのか。その先にどのような影響があるのか。住民にも、FMいわきのスタッフにも、先を見通すことはできなかった。その中で、家族やそれぞれの事情が許す者がいわきに残り、FMいわきは、残った9人のスタッフで放送を続けることを選んだ。

限られたスタッフで放送を維持するため、取材する者、放送する者、休む者の3班に分かれ、交代しながら24時間体制で放送を続けた。余震は続き、原発事故がどうなるかも分からない。それでも市災害対策本部などから情報を集め、給水、食料、避難所、道路、医療機関、ライフライン、空間放射線量などを伝え続けた。

正しい情報とは何か ― 住民に叱られて気づいたこと

「水が出た場所を伝えて、何の意味があるんだ」
危険の中で放送を続けても、すべての市民から感謝されるわけではなかった。むしろFMいわきには、リスナーから切実な要求や怒りが直接届いた。市内で断水が続く中、FMいわきは行政から得た情報をもとに、水道が復旧した地域を放送していた。ところがリスナーから、「水道が復旧した場所を伝えて、何の意味があるんだ。俺たちが知りたいのは、自分のところにいつ水が来るのかだ」という厳しい声が届いた。

行政から得た正確な情報を迅速に放送する。それだけでは、市民が本当に必要としている情報にならないことがある。断水している人にとって、すでに水が出た地域を知っても、自分の生活の見通しは立たない。知りたいのは、「自分の家ではいつ水が出るのか」である。FMいわきはリスナーに叱られ、その違いに気づかされた。

そこでFMいわきは水道局側に、これからどの地域でいつ復旧する予定なのか、通水の見通しを公表してほしいと求めた。しかし、すぐには応じてもらえなかった。行政側にも理由がある。復旧工事は予定通り進むとは限らない。確定していない見通しを公表し、その通りにならなければ、かえって市民を混乱させる。行政には、不確かな情報を容易に出せない責任がある。一方で、断水している市民は待っていられない。「いつ水が出るのか教えてくれ」という声がFMいわきに届き続ける。その間にFMいわきが立った。

水道局に断られても働きかけ、市民が必要としている情報なのだと訴え続けた。そして最終的に、通水の見通しを公表してもらい、放送にのせることができるようになった。これは、FMいわきと行政のどちらかが正しいという話ではない。行政には行政の責任があり、住民には生活を立て直すための切実な要求があった。FMいわきは、その双方の間に立ち、住民の声を行政に届け、行政から得た情報を住民に伝えた。

重要なのは、FMいわきが最初から正解を知っていたわけではないことである。リスナーに叱られて気づき、その怒りを単なるクレームとして処理しなかった。住民の声を行政へ持っていき、行政から得た情報を再び住民へ返す。行政から住民への一方向の情報伝達ではなく、住民から行政へも情報が戻っていく。FMいわきは、その間をつなぐ存在になっていった。

「お前らは嘘をついたのか」― 災害情報に正解はあるのか

一つの問題を乗り越えたからといって、次から正しい答えが分かるようになるわけではない。
物資の配給時間を行政に確認し、その時刻をFMいわきが放送したことがあった。ところが、その時間に配給場所へ行った市民から、「もう終わっていた。お前らは嘘をついたのか」と怒りの声が届いた。パーソナリティのベティさんは、その時のことをよく覚えている。「何が正義なのか。何が正しいのか」。葛藤したという。

FMいわきは誤った情報を伝えていたわけではない。行政に確認した時刻を正確に伝えていた。では、行政が悪かったのかといえば、そうとも言い切れない。
寒空の下、予定時間より早くから多くの被災者が集まり、待っていた。その姿を見た現場の担当者が、少しでも早く物資を渡してあげようと、予定を繰り上げて配布を始めた。その結果、物資が早くなくなり、放送された時刻を信じて来た人が受け取れなかったのである。
FMいわきが伝えた情報は間違っていなかった。行政の担当者が予定を繰り上げたことにも、寒空の下で待つ被災者を思えば理由があった。そして、放送を信じて配給場所へ向かった市民が怒るのも当然だった。誰かが悪かったから起きたことではない。それでも、情報を信じた人は物資を受け取れなかった。

災害時の情報は、「正しいか、間違っているか」だけでは測れない。情報が正確でも、その後に状況が変われば、それを信じて行動した人に不利益が生じることがある。刻々と状況が変わる災害の現場で、正しい情報を伝えるとはどういうことなのか。FMいわきは、その難しさにも直面した。

さらに、伝えることそのものがつらい情報もあった。亡くなった人の身元確認につながる情報である。ベティさんは、こうした情報を伝えることが、これまでの経験の中で一番つらかったと振り返っている。しかし、家族や知人の行方が分からない人がいる被災地では、それも地域の人たちにとって必要な情報であり、コミュニティFMとして担わなければならない仕事だった。
ラジオの前で、必死に手がかりを待っている家族がいる。伝える側にとってどれほど苦しくても、その情報を待つ人がいる限り、声を止めるわけにはいかなかった。
明るい言葉で励ますことだけが、地域に寄り添うことではない。地域に深く入ったメディアだからこそ、つらくても伝えなければならない情報があった。

放送する側も被災者だった ― FMいわきを支えた地域の人々

放送を続ければ続けるほど、FMいわきのスタッフも疲弊していった。自分たちも被災者である。家族を避難させ、自分だけ局に残った人もいる。余震が続き、原発がこの先どうなるのか分からない。十分に眠れない。それでもマイクの前に座れば、伝える側でいなければならない。
しかも、必死に集め、確認して伝えた情報でも、「水が出た場所を伝えて何になる」「お前らは嘘をついたのか」と叱られる。もちろん、怒っているリスナーも被災者である。水がない。食料がない。家族が心配だ。明日の生活も見えない。だから、その怒りを単純に「理不尽なクレーム」と呼ぶことはできない。
スタッフ自身も、心身ともに疲れ果てていた。放送を続ける彼らもまた、被災者だった。怖いのも、家族が心配なのも、疲れるのも、地域の人たちと同じである。

そんなFMいわきに、「放送を続けてくれてありがとう」「あなたたちの声を聞くと安心する」、そして「頑張って」という励ましの言葉も届いた。スタッフは、寄せられたメッセージをプリントアウトし、部屋の壁に貼っていったという。やがて壁はリスナーからの言葉で埋まった。疲れた時には、その壁を見て元気をもらい、またマイクの前に戻った。

「頑張って」が何を意味していたのかは、送った一人ひとりによって違っただろう。確かなのは、スタッフがその言葉を壁に貼り、つらい時に見たこと。そして、再びマイクの前に戻ったことである。FMいわきは被災した市民のために放送を続けていた。そのFMいわきに、今度は市民から励ましの言葉が返ってきた。

励ましだけではなかった。放送をしている人たちも被災者である。十分な食料があるわけではない。水も出ない。断水で髪を洗うことさえできない。
そんな局へ、リスナーが食べ物を届けた。飲食店が残っていた食材をかき集めて作ったピザも届いた。スタッフの中には、知らない人の家でシャンプーをさせてもらった人もいた。放送局が一方的に地域を助けていたのではない。食べ物を届け、声をかけ、日々の暮らしを助ける。地域の人たちもまた、放送を続けるFMいわきの人たちを助けていた。

「FMいわきは、お友達」。地域の人がそう表現したという。この言葉が示しているのは、単に親しみやすい放送局ということではないのだろう。
FMいわきと地域との間にあったのは、放送局が情報を送り、市民が受け取るという一方向の関係ではなかった。叱られることもある。励まされることもある。助けることもあれば、助けられることもある。その関係そのものが、災害時のFMいわきの力になっていた。
ここで、岩佐氏が研究会で使った「頼られるメディア」という言葉を、私は改めて思い出した。

頼られるとは、単に必要な情報を正確に届けることだけではないのではないか。地域から声が届き、その声によってメディア自身も動く。時には叱られ、時には支えられる。そうした関係が平時から積み重なっているからこそ、有事に「あそこに伝えれば何とかしてくれるかもしれない」「あの声なら信じられる」と思ってもらえる。

情報が人を動かした ― いわき光洋高校の避難所

FMいわきの放送が、多くの命をつないだ出来事がある。現場となったのは、福島県立いわき光洋高校の避難所だった。原発事故によって避難を余儀なくされた約300人が身を寄せていたが、食料も水も、寒さをしのぐための燃料も十分になかった。高齢者をはじめ体調を崩す人もおり、寒さの中で亡くなる人までいた。

その状況を目の当たりにした、いわき地方振興局の職員がFMいわきを訪れた。県職員として避難所の状況を確認する中で、そこで何が起き、何が不足しているのかを伝えるためだった。
対応したのは坂本美知子さんだった。当時、坂本さんが書き留めた取材メモが、いまも残されている。

それを受け、FMいわきはマイクを通じて地域に呼びかけた。食料がない。水がない。暖を取るための燃料も足りない。さらに、体調を崩した避難者を診る医師や看護師も必要とされていた。 

その声を聞き、地域の人たちが動き始める。食料、水、燃料が次々と避難所に届けられた。それだけではなかった。医師が駆けつけ、看護師も現場に入ったのである。

FMいわきが、直接、現地に出向いて支援をしたわけではない。しかしFMいわきには、その情報を地域へ届ける、リスナーに訴えかける手段があった。そして地域には、食料を届けられる人、水を運べる人、燃料を提供できる人、医療に携わる人がいた。
県の職員が窮状をFMいわきへ伝え、FMいわきがそれを地域へ伝える。その情報を受け取った人たちが、それぞれにできることをしたいとの思いで現場へ駆けつけた。


当時の取材メモ(筆者撮影)

これこそが、コミュニティFMであり、地域に根ざしたメディアのあるべき姿なのだろう。

行政だけではできない。メディアだけでもできない。地域の人たちも、どこで何が必要とされているのかを知らなければ動けない。しかし、それぞれが情報によってつながれば、人は動く。
私はこれまで、災害情報について「情報は届いて初めて意味を持つ」と考えてきた。光洋高校で起きたことは、その先を示している。
「情報が届く、人が動く、そして、支援が届く……」
災害時の情報は、届くことで終わるのではない。届いた情報によって人が動き、その行動が必要な支援へつながる。光洋高校で起きたのは、まさにその連鎖だった。

「いつもと違う声」― 平時の近さが伝えた危機

FMいわきで話を聞いていて、もう一つ強く感じたことがある。報道機関を名乗ることへの妙な驕りがない。初めて訪ねた私を含め、誰をも受け入れてくれるような温かさがあった。なぜ、これほど自然に人との距離を縮められるのだろうか。ベティさんは笑って言った。「となりのおばちゃん感なんじゃないかな」「雨が降ってきたよ。洗濯物、取り込んで」。そんなことを声にする近所のおばちゃんのような存在でいいのだという。だからこそ、その声には安心感がある。そして東日本大震災の時、その自分がいつもと違う声を発した。「いつもどおりじゃなければ、いつも聴いている人には分かるでしょ」。そう言って微笑んだ。

災害時だけ深刻な声で呼びかけても、その声が信頼されるとは限らない。日頃から楽しい放送を届け、街の催しを伝え、いい曲を流し、「FMいわきがここにある」と知ってもらう。そこで築かれた日常があるから、同じ人の声色が変わった時、リスナーは「何かが起きている」と感じ取る。平時の親しさそのものが、有事の情報を受け止めてもらうための基盤になっていた。

FMいわきが震災時に果たした役割は、3月11日に突然生まれたものではない。リスナーから情報が届き、その声で放送局自身が動く。時には叱られ、時には励まされる。平時から続いてきた相互の関係があったからこそ、有事にも「あそこに伝えれば何とかしてくれるかもしれない」「あの声なら信じられる」と思ってもらえたのである。

地域メディアの連携 ― 紙から電波へ、電波から紙へ

いわき民報社の鈴木淳社長に話を聞いた。東日本大震災の発生直後、記者たちは被災地を回り、会う人ごとに尋ねた。「いま、何がほしいですか」。返ってきた答えはシンプルだった。「家族や親戚が、いまどこにいるのかを知りたい」。まず、その切実な要望に応えることから取材は始まった。
しかし、紙面だけでは伝えられる範囲に限界がある。そこで、情報をFMいわきへ共有することを始めた。地域メディア間での協働である。

震災当日、海沿いで取材していたいわき民報の記者は、津波で車を流されながらも徒歩で現場を回り、FMいわきへ情報を送り続けた。「いま、肩まで水に浸かった人が救助された」。現場の状況を刻々と伝えるメールが届いたことを、当時の安部正明放送局長はいまも覚えている。

いわき民報社 鈴木淳社長(筆者撮影)

本来であれば、寄せられた情報は裏付けを取り、事実を確認した上で放送しなければならない。しかし、この時は例外的に裏取りを経ず、放送にのせた。情報を送ってきたのが、普段から付き合いのあるいわき民報の記者だったからである。坂本美知子さんは、「人間関係を担保とした情報の信頼性があると判断した」と振り返る。
平時から築かれていた記者と放送局との信頼関係が、切迫した状況の中で、情報の確かさを判断するよりどころになったのである。
連携は一方向ではなかった。いわき民報は、FMいわきに集まった情報を紙面でも伝えた。3月14日付の5面と15日付の4面をそれぞれ全面使い、「安否・生活情報掲示板」と題して、FMいわきに寄せられた個人の安否情報、学校の休校情報、医療機関や店舗の営業情報などを掲載したのである。
震災当日、いわき民報の記者が集めた現場の情報は、FMいわきの電波にのった。その後、FMいわきに寄せられた安否・生活情報は、いわき民報の紙面を通じて届けられた。情報は新聞からラジオへ、ラジオから新聞へと行き来していた。両者の連携によって、それぞれ単独では伝えきれない情報を、より多くの市民へ届けることができたのである。

添付された当時の紙面を見ると、連携が必要だった理由が具体的に分かる。3月12日付の紙面には「市内ほぼ全域で断水」「市内一部地域でガス供給停止」「津波被害地域中心に停電」「常磐・磐越道で通行止め」「14、16日臨時休校・休園措置」など、市民がその日の行動を決めるための情報が並ぶ。別の紙面は、市内の死者数や避難者数を大きく伝える一方、「安否・生活情報掲示板」を設け、110番・119番の適正利用を呼びかけ、避難所、給水、交通、医療などの情報を載せた。全国的な被害の全体像ではなく、いわきで今日を生きるための情報である。

新聞は保存でき、一覧できる。しかし、発行と配達には時間がかかる。ラジオはただちに広く伝えられるが、放送を聴き逃せば情報は手元に残らない。異なる特性を持つ二つのメディアが情報を受け渡すことで、広いいわき市で情報の届く範囲と時間を広げた。

いわき民報「我々は街の瓦版屋である」

発災翌日の3月12日午後3時36分、福島第一原子力発電所1号機の原子炉建屋で水素爆発が起きた。社長の鈴木氏によれば、その翌日13日、原発関係者から「3号機はもうもたない。明日にも爆発すると思う」との情報が入ったという。未知の恐怖の中で、鈴木氏は職員を集めた。明日、原発が爆発するかもしれない。新聞社のスタッフとして最後まで報道を続けるか、自分と家族の安全を優先するか。各自に決めてほしいと伝えた。

地震と津波で避難した職員も多く、社内に残っていたのは十数人だった。鈴木氏は全員に目を閉じてもらい、残って新聞を出す者は手を挙げてほしいと問うた。一人を除いて手が挙がった。そして手を挙げなかった一人も、結局は仲間とともに紙面をつくった。これは、残った人を英雄とし、避難した人を責める話ではない。誰にも危険の大きさが分からない中で、それぞれが命と家族を抱えながら、自ら選択したのである。

そして関係者の予想通り、福島第一原発3号機は、3月14日午前11時1分に水素爆発を起こした。1号機の爆発を上回る激しい爆発だった。

爆発直後、いわき市の放射線量に大きな変化はみられなかった。しかし、14日夜から15日未明にかけて風向きが変わり、放射性物質を含む空気の塊が浜通りを南下した。いわき市でも空間放射線量が急上昇し、15日午前4時には毎時23.72マイクロシーベルトを記録した。仮にこの線量が続けば、約42時間で、平常時の年間線量限度とされる1ミリシーベルトに相当する水準だった。
市北部では、久之浜町、大久町、小川町、川前町の一部が福島第一原発から30キロ圏内に入り、15日には国が20~30キロ圏内の住民に屋内退避を指示した。一方、原発から約40キロ離れたいわき市中心部はその対象ではなかった。それでも、市内では放射線量が急上昇し、原発事故への不安が現実のものとなっていた。

そのさなか、いわき民報は15日付の新聞をつくり続けていた。新聞が刷り上がったのは午前2時半だった。輪転機を回せなければ、手書きの紙をコピーして配ってもよいと鈴木氏は考えていたという。しかし、印刷部門の職員は「最後の新聞になるかもしれないのなら、自分たちの力を注いだ最高のものを出したい」と輪転機を回した。記者だけではない。営業、販売、印刷に携わる職員が、それぞれの担当を越えて足りない仕事を補い、一つの新聞を仕上げた。

残った職員総出で避難所などへ新聞を届けた後、15日から職員たちも避難した。鈴木氏は、もうこの街には戻れないかもしれないと思いながら紙面を送り出したという。
いわき民報は、この15日付を最後に休刊を余儀なくされた。それでも6日間の休刊を経て、3月22日、職員たちは再び新聞を出した。再開初日の紙面は2ページだった。地元に支えられてきた新聞社として、地元のためにいまできることは、新聞を出すことしかない。その思いだった。

再開後も、取材の出発点は、「いま、何がほしいですか」という問いだった。発災直後に求められたのは、家族や親戚の安否である。時間がたつにつれ、それは「どこへ行けば水や食料が手に入るのか」「ガソリンはどこにあるのか」「水道はいつ復旧するのか」へと変わっていった。
いわき民報は、そうした市民のニーズに応じて、紙面で伝える情報を変えていった。3月30日からは、いわき地方振興局県民部による空間放射線量の測定記録も掲載した。原発事故への不安が続く中で、放射線量もまた、市民が日々の生活を判断するために必要な地域情報となっていた。

一方で、経営は厳しかった。非常時に通常どおり購読料を集められるはずもなく、新聞用紙の確保も難しい。その時に手を差し伸べたのが、以前からつながりのあった各地の地域紙だった。桐生タイムスが新聞用紙をトラックで運び、南信州新聞、上越タイムス、松本市民タイムスなども支援した。「その助けがなければ、いわき民報を維持できなかった。
感謝してもしきれない」。受けた支援を、いわき民報は新聞という形で市民へ返した。

「私たちの役割は、自分たちの街で起きていることを正確に伝え、届けることです。ジャーナリストとか報道人とか、そんな高尚なものではない。我々は街の瓦版屋なんです」
鈴木氏のその言葉が、深く心に残った。
「となりのおばちゃん」と「街の瓦版屋」。どちらも、自らを飾る言葉ではない。地域の人と同じ場所で暮らし、顔の見える相手の声を聞き、いま必要な情報を届けるという仕事の距離を表している。

原発事故が深刻化する中、大手放送局の多くは、社員の安全を確保するため、いわき市から退避した。中には、会社の方針に抗い、現地に残って取材を続けたいと訴えた職員もいたという。個々の記者やスタッフの思いと、組織としての判断は必ずしも同じではない。危険の程度さえ分からない状況で、企業が社員の生命を守るために退避を決めることも、危機管理上、当然の判断である。
そうした中で、FMいわきは街に残って放送を続けた。一方、いわき民報の職員たちは、原発事故の深刻化を受けて一時避難したものの、約1週間後に街へ戻り、新聞の発行を再開した。
ここで問うべきなのは、誰が残り、誰が退避したのかではない。広域メディアが現地で活動できなくなった時にも、地域住民に必要な情報を集め、届ける地域メディアが存在することの意味である。

「テレビは遠い」民放ローカル局への問い

ベティさんは「でも、テレビは遠い」とも言った。それは、テレビを否定する言葉ではない。テレビの出演者に会えば、ベティさん自身も「ああ、テレビの人だ」と思う。そこには、かつて「ブラウン管の向こう側の人」と言われたような、憧れを伴う距離感がある。
一方、FMいわきのリスナーがベティさんに会った時の反応は、「ああ、いつも聴いている『となりのおばちゃん』は、こんな方だったんだ」という感覚に近い。もちろん、ベティさんは可愛らしく、多くのファンに愛されている。日頃から声を聴き、近所の知り合いのように感じている、その親しみやすさがある。テレビの出演者とラジオのパーソナリティー。その違いは、知名度ではなく、受け手との距離にあるのだという。

もちろん、テレビとコミュニティFMでは、放送エリアも担う役割も異なる。テレビには、映像と情報を広い地域へ一斉に届ける力があり、その公共的な役割は大きい。しかし、「テレビは遠い」という感覚は、テレビ局と視聴者との間にある距離を端的に表しているように思う。では、民放ローカル局は、地域の人にとって遠い存在のままでよいのだろうか。

放送エリアや会社規模が違っても、地域に必要な情報を見つける出発点は変わらない。普段から街を歩き、人の声を聞き、いま何に困り、何を知りたいのかに触れようとしているか。全国ニュースにはならない、ささやかな生活の情報を拾おうとしているか。視聴者との距離を縮める工夫を、番組やイベントの時だけでなく、日常の営みとして続けているか。
「となりのおばちゃん」と「街の瓦版屋」は、媒体の小ささを示す言葉ではない。自らを飾らず、地域の人と同じ場所で暮らし、顔の見える相手の声を聞く。その距離の近さを表している。では、より広い放送エリアと大きな組織を持つ民放ローカル局は、その距離をどのようにつくることができるのか。FMいわきといわき民報の経験は、その問いを投げかけている。

信頼されるメディア

私自身、「救われた」という言葉を被災者から聞いたことがある。1993年の北海道南西沖地震の後、北海道庁は、被災した子どもたちを元気づけようと、Jリーグの観戦や力士との交流会などを組み込んだ小旅行を企画した。私はその様子を取材することになり、参加した小学生の女の子にリポーター役をお願いした。その子自身も被災者だった。それでも、持ち前の明るさと機転の利いたしゃべりで、子どもたちの様子を生き生きと伝え、見事にリポーター役を務めてくれた。

放送後、その女の子の母親から電話がかかってきた。私は、被災した子どもをカメラで追い、リポーターまでさせたことへの苦情だと思った。しかし、母親から聞いたのは、まったく違う言葉だった。
「辛い時期に、子どもの元気な姿を見ることができて、救われました。ありがとうございました」
その言葉は、その後の取材人生で、何度も私を支えてくれた。

一方、東日本大震災後の陸前高田では、別のことも知った。発災直後、被災者には訴えたいことが数多くあり、取材にも応じてくれる。しかし、1か月、2か月とたつにつれ、空気は変わっていった。避難者が暮らす体育館などの生活空間や仮設住宅の敷地に、了解を得ないまま入り、撮影する。すべての取材者がそうだったわけではないが、被災者の暮らしや心情への配慮を欠いた取材を目にすることが度々あった。

被災者はメディアに訴え続けている。それでも、自分たちの生活は何も変わらない。「なぜ、またメディアに協力しなければならないのか」。そうした不信感が、次第に広がっていった。
現在の災害報道では、被災者のプライバシーや心情への配慮は、当時より格段に進んでいる。それでも、取材する側が必要な時にだけ訪れ、放送が終われば、その後は連絡すらしないという構図は残る。地域に根ざすはずのローカル局にさえ、取材を「やりっぱなし」にしているような感覚を覚えることがある。

被災者に取材に応える義務はない。まして、被災によって傷ついた人に話を聞くのであれば、「大変な時に取材をさせていただいている」という意識を忘れてはならない。その感覚を欠いた思いやりのない関わり方は、地域から信頼を得るどころか、新たな不信の芽を生みかねない。
そうした不信が広がるなかでも、被災者との関係を築き、取材を続けられる人がいた。相手の気持ちを想像し、時にはカメラを回さず、報道よりも目の前の人を優先できる取材者である。時間をかけて信頼関係を築くうちに、やがて被災者の側から「これを伝えてほしい」と情報が寄せられるようになった。

FMいわきで話を聞きながら、私はこの経験を思い出した。FMいわきも、東日本大震災の報道を通じて突然、地域から信頼されたわけではない。普段から地域の店や学校、人々の活動を伝え、街に出て市民と話し、パーソナリティーの声が日々の暮らしの中にあった。平時から積み重ねられてきた人と人とのつながりが、有事の信頼を支えたのである。

「いわきで、ひとつに」― 地域情報基盤としてのメディア

FMいわきといわき民報の経験は、コミュニティFMや地域紙を、単に規模の小さなメディアとして捉えてはならないことを示している。災害時には、広域の被害や政府の動きを伝えるメディアとともに、水、食料、燃料、医療、道路、空間放射線量、安否確認など、その地域で今日を生きる一人ひとりに必要な情報を集めて届ける仕組みが欠かせない。

その価値は、放送エリア、発行部数、取材体制、会社規模だけでは測れない。水道の復旧見通しを知りたいという住民の声を拾い、行政へつなぐ人がいる。避難所で何が不足しているかを把握してFMいわきへ伝える人がいる。その情報を放送する人がいる。声を聴いて食料や水、燃料を持って動く市民や、現場へ向かう医師、看護師がいる。いわき民報の記者が集めた情報をFMいわきが放送し、FMいわきに届いた情報をいわき民報が紙に残す。情報は一方向に送られたのではなく、人と媒体の間を巡った。

平時から地域の中に蓄積されてきた人的ネットワークと信頼を、必要な時に結び直す。その機能こそ、地域情報基盤としてのメディアの役割ではないだろうか。

FMいわきは、住民の声を聞きながら、何が本当に必要な情報なのかを考え、行政へつないだ。いわき民報も、紙面だけでは届けきれない情報をFMいわきと共有した。自分たちだけで完結させるのではなく、行政や他のメディア、地域の人々とつながることで、必要な情報をより多くの人へ届けようとした。

今回の調査から見えてきたのは、「小さな放送局や新聞社が地域を救った」という英雄譚ではない。行政、メディア、市民には、それぞれできることと、できないことがある。その間を人がつなぎ、情報が紙と電波を行き来し、その情報によって人が動く。個々ではできないことを可能にしたのは、その積み重ねだった。
「FMいわきの放送が救いだった」。冒頭の言葉に戻りたい。
今回の聞き取りを通じて、その「救い」は、必要な情報を得られたということだけでは説明できないように感じた。

平時、地域のラジオ局がそこにあることを、住民は必ずしも強く意識しているわけではない。いつもの声が聞こえ、地域の出来事が伝えられる。それは日常の一部であり、あまりに当たり前であるからこそ、その存在の意味を改めて考えることも少ない。

しかし、あの大災害のとき、その意味は一変した。
多くの人が街を離れざるを得ない状況のなかで、いつも聞いていた人たちが、そこに残っていた。自らも被災者であり、不安を抱えながら、それでも放送を止めず、同じ地域にとどまり、住民に語りかけ続けた。
最も苦しいときに、一緒にいてくれた。その記憶は、簡単には消えないのだと思う。

FMいわきの放送が「救いだった」と語られる理由も、そこにあるのではないか。必要な情報を得られたという実用的な評価だけではなく、誰もが不安を抱え、街から多くの人がいなくなっていくなかで、自分たちと同じ場所に残り、声を届け続けてくれた人たちがいた。その記憶が、感謝に近い思いとともに、「救いだった」という言葉になって表れたのではないか。

そして今回、FMいわきを訪ねて印象に残ったのは、スタッフが震災時の経験を、自分たちの功績として語らなかったことだった。むしろ口にしたのは、リスナーに叱られ、教えられ、励まされた記憶だった。
短い時間ではあったが、その姿に触れたことで、「救いだった」という言葉の意味が、私にはより深く感じられた。

人口減少によって地域メディアの経営環境が厳しさを増し、再編・統合や効率化が避けて通れなくなったとしても、地域情報基盤を考える上で失ってはならないものがある。それは、情報を伝える仕組みだけではない。平時から地域の日常に身を置き、人と人との関係を築き、最も厳しい局面では地域と共に困難に立ち向かう。その関係そのものである。

FMいわきには「いわきで、ひとつに」という言葉がある。今回の取材を終えて、その言葉が強く心に残った。

一つのコミュニティFMが、なぜ市民から「救いだった」とまで語られる存在になったのか。
日常のなかでいつもそばにいた人たちが、最も苦しいときにも、そこにいてくれた。
その記憶が、「頼られるメディア」という存在の意味を物語っているのではないだろうか。

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    • 政策広報戦略
    • 社会実装プロセス

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