| ヤングリーダー奨学基金プログラムは、日本財団が1987年に将来の世界を担うリーダーの育成を目指して立ち上げ、1997年からは東京財団が運営を行っている、世界の大学の人文社会科学分野の大学院生を対象に奨学金を給付する奨学制度。日本を含む世界44か国の69大学・大学連合に各々100万米ドルの基金を寄贈し、17,000名を超える奨学生(Sylff「シルフ」フェロー)を輩出してきた。Sylffフェローは卒業後、外相や中央銀行総裁などを務めたり、学術研究、ビジネス、非営利セクターなど様々な分野の第一線で活躍している。 |
※ライプチヒ大学のSylffフェローについては「『音楽の都』で育つ民主化の指導者たち」をご覧ください。
ライプチヒから特急ICEで2時間の古都ワイマール北西約7キロ。ブーヘンヴァルト強制収容所に足を延ばした。
正面入口の時計は午後3時15分で止まっている。1945年4月11日、米軍による解放の時刻だ。正門に掲げられた「Jedem das Seine」(それぞれの者にはそれぞれのものを)」という皮肉な標語をくぐると、バラックの基礎と処刑場、焼却炉などの遺構があった。
鉄条網の外側には親衛隊(SS)の家族のために造られた動物園の跡地があり、熊が飼われていた事実が、異様な日常を物語る。
ナチス時代の1937年7月、設置された収容所には約23万人が収容され、5万5千人が命を落とした。飢餓、強制労働、人体実験――「労働収容所」という名のもとで行われたのは、死へと追い込む体系的暴力だった。
封印されたスターリンの「粛清」
だが、現地で突きつけられるのは、それだけではない。戦後、この収容所はソ連の国家保安委員会(KGB)の前身である秘密警察、ソ連内務人民委員部に接収され、「特別収容所第2号」として再び使われた。反共産主義者や社会民主主義者、さらには密告や疑念だけで拘束された市民が送り込まれ、約2万8千人が収容、約7千人が死亡した。
注目すべきは、この事実が長らく歴史の表舞台から消されてきたことだ。冷戦下のドイツ民主共和国は、自らを「反ファシズム国家」と位置づけ、ナチスの犯罪を強調する一方で、ソ連による強制収容と死の歴史を徹底して封印した。ソ連は東欧諸国において、共産主義体制維持のため政治的自由を制限し、政権批判を行う市民や反共主義者とみなされた人々を「政治犯」として弾圧した。それは、スターリン体制下で行われた「大粛清」の延長線上にある統治手法であった。統一後、こうした実態が徐々に明らかになりつつある。
カチンに通じる裁判なき予防拘禁
このスターリン主義による弾圧の象徴が、ポーランドで起きたカチンの森事件である。1940年、ソ連秘密警察はポーランド将校や知識人ら約2万2000人を組織的に処刑した。国家にとって潜在的な「敵」を、裁判を経ることなく排除するという発想は、戦後ドイツ占領政策にもそのまま持ち込まれた。すなわち、法的手続きなき予防拘禁体制による反体制派の一掃である。
ブーヘンヴァルトで収容された人々の多くも、具体的な犯罪ではなく「危険性」や「疑い」によって拘束された。弁護人もおらず、判決もない。外部との連絡は断たれ、家族には所在すら知らされない。収容所は単なる拘禁施設ではなく、占領地域における敵対勢力の排除装置として機能していた。飢餓と疫病、医療の欠如によって命を奪う仕組みは、暴力を可視化しないまま人間を消耗させる、極めて現代的な統治の形でもあった。
ベルリンに移動して中央駅から郊外向け急行電車で北へ約30分。ブランデンブルク州オラニエンブルク駅に着いた。そこから20分歩き、ザクセンハウゼン強制収容所を訪ねると、同じソ連による抑圧と犯罪が繰り返されていた。
ナチスの「模範収容所」として設計されたこの施設では、20万人以上が収容され、ユダヤ人ら5万人以上が犠牲になった。だが、その歴史は1945年で終わらなかった。ここもまたNKVDによって「第七特設収容所」として再利用され、約6万人が収容され、少なくとも1万2千人が命を落とした。特に1946年から47年にかけての「飢餓の冬」には死亡者が急増した。約3万人が裁判を経ない「予防拘禁」とされ、ナチ関係者に限らず、行政官や一般市民までもが対象となった。
ザクセンハウゼンでもソ連「犯罪」
重要なのは、これらが個別の逸脱ではなく、ソ連占領政策の抑圧的側面として体系的に行われていた点だ。占領地域において政治的安定を確保するため、潜在的反対勢力を事前に拘束・隔離する―その論理はカチンに始まり、戦後ドイツの収容所へと連続している。
にもかかわらず、この歴史は長く沈黙を強いられてきた。東ドイツではソ連による行為は「解放」として語られ、収容所の存在は公的記憶から排除された。ザクセンハウゼンもブーヘンヴァルトも、ナチスの犯罪を伝える場として整備される一方で、戦後のソ連による抑圧収容の実態にはほとんど光が当てられなかった。
転機は1990年のベルリンの壁崩壊によるドイツ統一だった。ソ連解体に伴うソ連の資料の一部公開、生存者の証言、そして集団墓地の発掘によって、隠蔽されていたソ連の政治弾圧による犯罪が、ようやく明るみに出始めた。統一から36年を経た現在、研究は進展しつつあるが、なお多くの記録が欠落し、全容解明には至っていない。
それでも現地に立てば、二つの時代の重みが否応なく迫ってくる。ナチスの暴力は、ガス室や銃撃という形で歴史に刻まれた。一方、スターリン主義の抑圧は、飢餓や沈黙の中で人命を奪った。前者が「見える死」だとすれば、後者は「見えにくい死」である。
ブーヘンヴァルトの森は静かだ。しかしその静寂の下には、ナチスとスターリン主義という二つの体制による死の記憶が折り重なっている。ポーランドの森で響いた銃声と、ドイツの収容所で続いた沈黙の死。それらは断絶した出来事ではない。国家が「敵」を定義し、法の外で排除するという同じ論理に貫かれている。
歴史は終わっていない。むしろ、ようやく語られ始めたばかりなのである。裁判なき拘束、外部との遮断、劣悪な環境による死―それはスターリニズムによる組織的抑圧だった。ここにあるのは、「解放」の名のもとに始まったもう一つの「犯罪」だ。
スターリニズムの統治
近年の資料公開により、この収容の多くが恣意的であったことが判明した。拘束理由は曖昧で、「反体制の可能性」や密告だけで人々は連行された。法に基づく正式裁判ではなくスターリン主義的な見せしめ裁判の末に、家族にも行方は知らされず、情報は遮断され、社会から切り離されて消えた。
これは偶発的な過ちではない。恐怖によって社会を沈黙させる、「粛清」という名のスターリニズムの統治そのものだった。
しかし、この歴史もまた長く隠されてきた。東独ではザクセンハウゼンはナチスの犠牲者を追悼する場として整備されたが、戦後のソ連による抑圧と非人道的な死は語られなかった。統一ドイツとなって初めて、「もう一つの収容所の犯罪」が公に検証され始めた。
ブーヘンヴァルトとザクセンハウゼン―二つの収容所は、いまやホロコーストだけでなく、冷戦期に封印されたソ連の戦後犯罪をも告発する場所となっている。
二つの収容所の「二重の記憶」
それは共産主義という理念そのものの問題ではない。だが、「一党独裁と権力集中」が極限まで進んだとき、国家は法を排し、人間の尊厳を容易に踏みにじる。その典型がスターリズムのソ連であり、東欧全体に及んだ。
同じ場所で、異なる体制のもと、繰り返された拘束と死。二つの収容所に刻まれた「二重の記憶」は、20世紀が残した最も重い教訓の一つである。(文責: 岡部伸)
▼<岡部伸の世界探訪ドイツ①~③>はこちら
【人材育成】「音楽の都」で育つ民主化の指導者たち——ライプチヒ大学Sylffフェロー <岡部伸の世界探訪ドイツ①>
【人材育成】冷戦終結導いた「月曜デモ」<岡部伸の世界探訪ドイツ②>
【人材育成】自由勝ち取った東独で反移民政党台頭<岡部伸の世界探訪ドイツ③>
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