
E-2024-026
学校教育現場へのAI活用が広がっています。AI活用による教員の負担軽減や子どもの学びの質向上が期待される一方で、AIに子どもたちのデータを扱わせることの懸念や危険性については十分な議論がされておりません。
こうした現状を受け、2025年3月23日、座談会「『AI時代の先生を考える』~子どものデータは誰のもの?」を開催いたしました。当日の講演の様子をお伝えいたします。
※2025年3月23日時点のご所属や法人名称を掲載しております。
※2025年3月に実施した、内田洋行教育総合研究所・東京財団政策研究所共催「『AI時代の先生を考える』~子どものデータは誰のもの?」のイベント概要はこちらからご覧いただけます。
▪️1.冒頭あいさつ 松本美奈 東京財団政策研究所研究主幹「AI時代の先生」研究代表 ▪️2.講演「子どものプライバシー権」 堀口悟郎 岡山大学学術研究院社会文化科学学域(法学系)教授 ▪️3.AI時代 子どもは先生に何を求めているか 松本美奈 東京財団政策研究所研究主幹「AI時代の先生」研究代表 ▪️4.パネルディスカッション |
冒頭あいさつ
松本美奈 東京財団政策研究所 研究主幹(「AI時代の先生」研究代表)
今、学校現場では「個別最適の学び」が進められています。子ども一人ひとりを理解するために、データの利活用が欠かせないと言われ、さまざまな場面でAIが導入されています。その結果、子どものデータが流出したり、知らないうちに企業の商品開発に使われたりする問題も起きています。
私たちはAIを道具として扱い、よりよい教育の実現を叶えてくれるはず、と楽観しがちです。これに対し、歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリ(Yuval Noah Harari)氏は「AIは道具ではなく、自ら学習し判断する“非生物の行為主体”だ」と指摘しました。AIは、私たちの理解を遥かに超えるスピードで発達し続け、いまや銀行の融資や軍事判断まで行っています。私たちはこのまま子どものデータをAIに委ねて良いものでしょうか。子どもはそれを望んでいるのでしょうか。そもそも、子どものデータは誰のものでしょうか。
皆さんと一緒に掘り下げていきます。
講演「子どものプライバシー権」
堀口悟郎 岡山大学学術研究院社会文化科学学域(法学系)教授
1.プライバシー権
プライバシー権とは、自分の情報を他人に勝手に収集・利用・公開されない権利です。日本では憲法13条がその根拠とされ、自己情報コントロール権という考え方が広まりました。現代では「保管・利用」段階での侵害が重要な問題となっており、AIによるプロファイリングがその典型例です。情報社会が進む中で、プライバシー権は単なる私生活秘匿にとどまらず、情報の使われ方全体を問う権利として再定義されています。
2.子どもの権利
子どもは理解力や判断力が未成熟であるため、自律だけでなく「保護」も重視されます。自己決定を支援する保護や、子どもの意見を聴く関係者の役割が重要です。教育現場では、プロファイリングによる「決めつけ」が個人像を歪め、子どもの成長機会を奪う危険があります。こうした点からも、子どもの権利には特別な保護が求められます。
3.EUのGDPR
現代のプライバシー問題の核心は、AIによる「プロファイリング」にあります。プロファイリングとは、個人のさまざまなデータをもとに、嗜好、健康状態、経済状況などを自動的に推測することを指します。たとえば、子どもの授業中の視線や表情、反応速度をAIが解析し、集中度や感情などを推測する実証実験が進められています。プロファイリングの結果は、真実に合致している場合もあれば合致していない場合もありますが、いずれにせよ重大な結果を招きます。というのも、真実に合致している場合には、センシティブな情報を取得されることになりますし、真実に合致していない場合には、誤った個人像に基づいた取扱いを受けることになるのです。
EUの一般データ保護規則(General Data Protection Regulation: GDPR)は、子どもの個人データに対して特別な保護を与えており、特にプロファイリングについては厳格な規制を定めています。また、EUのAI規制法は、教育機関において個人の感情を推測するAIの使用について、「許容し得ないリスク」を抱えていることを理由に、禁止しています。こうした法的規制が、安心して個人データを利活用できる基盤となっています。
4.日本の個人情報保護法
日本の個人情報保護法は、かつて憲法との接続が意図的に避けられ、憲法上のプライバシー権とは切り離された法律であるかのように運用されてきました。GDPRが成立し、EUから「十分性認定」を得る必要が生じたことを契機として、日本の個人情報保護法もGDPRと同じく「プライバシー権の具体化法」と位置付けられるようになりましたが、なおもプライバシー権との関係は曖昧なままです。目的規定にプライバシー権は明記されていませんし、同意の定義や要件も明記されておらず、プロファイリングに関する直接的な規律も存在しなければ、子どもへの特別な保護規定も設けられていません。このため、教育現場における子どもの個人情報に対する保護は十分でなく、ただ形式的に本人や保護者から同意を取得しておく、という程度にとどまっているのが現状です。
AI法案の審議も進められていますが、EUのような厳格な規制とは異なり、企業への義務や罰則は設けられていません。教育現場での感情解析AIの導入も進行しており、規制が追いつかないまま実証事業が行われています。文部科学省のガイドラインなどが補完的役割を果たしてはいるものの、法的拘束力には限界があります。
アクセルしかない車は危なすぎて誰も乗らないように、プライバシー保護が十分に施されていないデータ利活用は社会に広まらないでしょう。教育データ利活用を推進するためにも、ブレーキ、シートベルト、エアバッグのようなプライバシー保護の「安全装置」が不可欠です。特に、プロファイリング規制と子どもへの特別な保護を明確に制度化することが、教育データ利活用の信頼性を高める道筋であると考えます。
AI時代 子どもは先生に何を求めているか
松本美奈 東京財団政策研究所 研究主幹(「AI時代の先生」研究代表)
AIによるデータ収集、管理で、教育をどうしたいのか。私たち大人が考えていく際に、忘れてならないのは、学校の主人公、子どもたちの意思です。子どもたちは学校に、先生に何を求めているのでしょうか。杉並区立天沼小学校6年生に「学校のどんな仕事をAIに任せたいか」を二軸で聞きました。「AIに任せたいか」「10年以内に実現すると思うか」—この二軸です。
(松本作成)
結論から申し上げると、大人の考えとは距離がありました。
掃除や集金といった作業は、AIで十分。ルンバがあるじゃないか。文部科学省をはじめ、大人が「教師の仕事」と考えている「授業準備」も、ネットで簡単に資料探しはできると見ています。
ところが、「学校の業務だが、必ずしも教師が担う必要がない」とされる「休み時間の対応」は「AIにはできない」、支援が必要な子への対応も「先生にしてほしい」とはっきり答えます。なぜか。AIには感情がないから、自分の気持ちをわかってくれない、子どもたちはそう感じているのです。
授業も同じです。算数のドリルならAIで良い。でも、国語や道徳のように「自分とは違う考え方に気づく」授業は、AIではできない。雑談の中で先生がふと語る失敗談や本音—そんな「人間らしさ」が子どもたちにとっては大切な学びの瞬間なのです。
特に女子は、AIに対して警戒心を前面に出し、人間の先生への期待を強く語っていました。「AIは経験に基づく話ができない」「雑談がない授業はつまらない」。テストの採点一つとっても、AIは型にはまった答えしか認めてくれないけれど、先生なら「面白い答え」にも目を留めてくれると信じています。
子どもたちは、AIを便利な道具として認めながらも、「人と人とのつながり」を大切にしています。AI時代だからこそ、「話しかけてくれる」「寄り添ってくれる」「一緒に悩んでくれる」—そういう先生を求めているのです。
AIができることと、AIにはできないこと。子どもたちは冷静に見極めています。そのうえで「やっぱり先生が良い」という気持ちを伝えてくれました。
薩摩博之氏(杉並区立天沼小学校長)のコメント
AIには感情がないから、自分の気持ちをわかってもらうのは難しい。子どもたちは素直にそう話していました。アンケート結果を見ても、やはり掃除や集金、授業準備といった“作業”はAIで良い。でも、休み時間や給食、部活動といった「人との関わり」はAIにはできないという声が多く、私たち大人が思っている以上に、その感覚ははっきりしていました。
授業準備についても、子どもたちは印刷や資料探しのような作業をイメージしていて、私たち教員が行う教材研究や授業設計までは考えていないようでした。子どもたちのそうした考えとてもリアルにAIの限界を捉えていると感じました。
結局、子どもたちが求めているのは「人と関わる安心感」なんだと思います。
パネルディスカッション
堀口 悟郎(岡山大学学術研究院社会文化科学学域(法学系)教授)
井出 隆安(杉並区元教育長/東京財団政策研究所「AI時代の先生」研究協力者)
後藤 教至(文部科学省総合教育政策局教育人材政策課長)
薩摩 博之(杉並区立天沼小学校校長)
松本 美奈 (東京財団政策研究所 研究主幹(「AI時代の先生」研究代表))
▪️「子どものデータは誰のものか」を考える前に
松本美奈 子どものデータは誰のものなのか。この質問に答えなければなりません。誰のものなのか、誰がどう守るのか。守るのは、すでにたくさんの仕事を抱えている教員か。その力は教員にあるのか、なければ誰がどう育てるか、財源はどうするか。子どものデータは誰のものかを考えようとすると、たくさんの質問が生まれてきます。
データの利活用の問題も出てきます。誰がどう使うことが許されるのか。教育のため、子どものため、未来のためという名目のもとに全てが許されるのかという問題については、いまだに明確なルールや合意が確立されていません。地域間、学校間の格差が埋まっていない中で、技術革新だけが進んでいるように見えます。
AI利活用は手段で、そもそもは、個別最適の学びが目的です。その個別最適の学びに意味があるのか。たしかに、それ自体は価値があるでしょう。けれども、一人一人の能力を伸ばした先にあるのは、偏差値輪切りの入試です。中学校や高等学校、大学などの入試、その後の就活にすら偏差値が顔を出します。いまだに大学名でスクリーニングをかけている企業が存在しています。時間内で全てを議論できるわけではないでしょうが、時間の許す限りディスカッションを進めていきます。まずここまでのお話を受けて、一言ずつ感想をいただきましょう。
▪️指導力のない教師よりAI?
井出隆安 二つの疑問が浮かびます。そもそも学力は誰のものなのか。本人のものに決まっているでしょうが、その学力は個人のものとして尊重され、管理されているのか。
二つ目は、AIに仕事を任せるという点です。松本さんが調査してくれた天沼小学校の子どもたちが考える授業準備とは、理科の実験のビーカーを揃えるといった物理的な準備のことだと思っているかもしれません。しかし、本来の授業準備とは、授業を組み立てる上で教材の妥当性を検討し、児童の学習の順序を設計することです。何より大事なのは、「指導と評価」を見通した計画を立てることです。何をできるようにするのか、理解を通してどう変化が生まれるのか、さらなる課題が見えてくるのか。こうした深く、広い視野で構成された内容こそが授業準備なのです。
もしかすると、この授業準備こそAIの方が今の先生たちより優れているのではないか。教師の指導力が落ちているという指摘が続く中、AIによる授業準備の方が、指導書をなぞっただけの計画よりも、はるかに奥行きのある深い学びを提供できる可能性があります。教師はAIが構成した授業を媒介するだけのファシリテーターの役割にとどまるかもしれない。そうなると怖い気もしますが、私は十分に可能性があると思っています。
後藤教至 学校の業務や教育指導とAIの関係について、今回を含め3回にわたり議論してきましたが、その中でAIと相性のよい部分と、そうでない部分が見えてきたように思います。AIは適した場面で上手く使えばよいと私は考えています。
井出先生のお話のように、授業準備や指導においても、AIの活用は十分考えられます。現在、新しい学習指導要領に向けた議論が始まっていますが、教科書中心の一斉授業よりも、子ども一人ひとりをきちんと見取り、そのうえで主体的・探究的に学べるような仕掛けを構築する力が、教師に求められています。
AI時代だからといって人間の教師が不要になるとは思いません。ただし、テクノロジーを理解し、共に活用する「パートナー」として使いこなせる力が教師には必要です。そのために、国も大学も教育委員会も、そして学校現場の先生たちも一緒に努力していく時代だと考えています。
薩摩博之 今の井出先生から、大変耳の痛いお話をいただいたと感じております。思うのですが、私たちが教員生活を続けるなかで、教材選びや授業の構築をじっくり考え、指導力をつけてきたのですが、AIがそれを瞬時に出してしまうような時代の到来が予想される中、本質を理解していない教員が指導できるのか非常に不安になります。
堀口悟郎 天沼小学校の子どもたちの声は大変興味深いものが多かったです。AIなのか人間なのかの分類だけでなく、人間が良い、人間の先生が良い、うちの先生が良い、という三つに分けられるのかもしれないと考えておりました。子どもたちの声は、おそらくうちの先生が良いという調査結果だったのかなとも思います。好きな先生だからその人の雑談を聞きたいし、休み時間も一緒にいたい。逆に嫌いな先生だったら、AIの方が良いという回答になったのだろうと思います。
授業にしても人間なら誰でも良いわけではなく、専門的な知識技術を持った教員に任せたいのだろうと思います。さらに「うちの先生が良い」といわれるには、信頼や愛着もあると感じます。天沼小学校の調査結果は、「うちの先生」まで行っているケースとして捉えることができます。
私も大学教員として教育に関わっていますけど、あぐらをかいてはいけないと思いました。それは井出先生のご指摘のように、AIが得意とすることが非常にたくさんあります。チャットGPTが発表したディープリサーチというのはものすごいサービスで、例えば「学問の自由に関する英語圏の文献をリストアップしてください」とか言うと、「その質問はまだ甘いです。そのうちのどの分野か特定したらもう少し正確に調べられます」とダメ出しがまずある。「失礼しました。じゃあ憲法関係でお願いします」と言うと、詳細な文献レビューが返ってくる。いずれ人間の研究者では到達できないところまで、AIが進んでいくだろうと思います。
その時、感情、経験、信頼、愛着が、どこまで人間のプライオリティとして残されるかという問題が生じるのではないでしょうか。人間の教師が不要になるわけではないけれど、人間の教師の役割が変わるのかもしれない。それが井出先生の仰ったようなファシリテーター的なものに留まるのかどうかは、議論したい論点だと感じました。
個人情報保護も問題です。先ほど松本さんが整理されたトピックにも挙げられていました。誰が責任を持つべきなのかも、是非皆様と議論していきたいと思いました。
▪️問われる教師の「能力」
松本 共通のワードを後藤さん、堀口先生からいただきました。AIを「使いこなす」です。使いこなすには使う側の能力が必要です。
教育現場でAIを利活用する場面を、データの収集、分析、活用、管理、と大まかに分けて考えていきましょう。まず、データの収集。薩摩先生、どう収集されていますか。
薩摩 準備を進めているところです。メールなどで配信し、データの収集について同意をいただき、ご意見があればお知らせいただく形です。
井出 同意について付け加えます。教育委員会は行政ですから、区の基本条例、情報基本条例に従って行います。基本条例、個人情報保護条例も、情報間のリンクを禁止しています。イントラの内部で収集した情報と、外部の情報とリンクさせてはいけないということです。リンクさせたら、全部出ていってしまいますから。
イントラの中の情報同士のリンクも禁じられています。自治体は多くの情報を持っています。住民基本台帳の情報、課税台帳、年金、健康保険などを持っていますが、その個々の情報同士をリンクさせて使ってはいけないのです。
松本 学校、自治体はたくさんの情報を集める仕組みはあるけれど、リンクできないのですね。とはいえ、今ではそこに企業もかかわっています。危険はないのでしょうか。
井出 議論になるのは、子どもの学習ログです。学習アプリをバージョンアップする時に、蓄積されたログを持っていかれることがよくありました。30年ほど前、個人学習用のプログラムを開発している頃、提携している会社が過去データを元にバージョンアップしていくことになるので、過去データを提供して欲しいと言われました。私はその時、個人情報保護法に抵触するからダメですと断りましたが、今はどうでしょうか。十分に危険性はあるかと思います。
松本 収集のところですでに問題が出てきました。次に分析、利活用の場面です。後藤さんからは「パートナーとして使いこなす」という発言がありました。パートナーとして使いこなすとはどういうイメージでしょうか?
後藤 決まったイメージがあるわけではありません。ただ、使いこなすには、使う側、先生にも相応の力が必要になると思います。統計分析に対する理解が中核になってくる。それを学部の4年間で全部やるのは、無理があるかなという気がします。
今、次の学習指導要領と並行して、教職課程のあり方についても議論しています。子どもが主体的・探求的に学んでいく姿を創出するには、先生の臨床研究能力が必要だと思います。そのために、大学や大学院が教育委員会や学校現場ともっとコラボして、先生方のレベルアップを支えていくべきです。
松本 レベルアップ…。先ほど井出さんからも教員の能力低下という発言がありました。
井出 とはいえ、私は人間の教師を否定してないのですよ。教育についてはAIと共存していくことができるだろうけれども、陶冶のつまり教育のもう1つの重要な側面である人間としての陶冶、これをどう支えていくか。今後かなり精密なAIが出来上がったとしても、これは難しいだろうと見ています。なぜかといえば、人は人によって人になる、人と人との関わりこそ教育だと、まあ言ってみれば、古くから言われています。陶冶の部分をどのように充実させていくかは、AI時代の先生を議論する際に忘れてはいけない論点だと考えています。
天沼小学校で子どもと先生の関係を見せてもらいました。子どもたちは、完璧な人間に心を寄せているのではなくて、悩みもあるし、愚痴もこぼす、ご飯は2分で食べなきゃならない、そういう先生と一緒にいることによって人間的な感化を受けている。いずれもAIにはできないことで、そこを子どもたちは求めて、感じ取っている。
ところが、今の大半の先生は、そこが一番弱いんじゃないでしょうか。子どもと共感する、児童理解を深めるとは言うけれども、ちっとも子どものことを考えてない。子どもの言っていることを理解できてない。
教師の指導力が下がってきているということの1つは、教養のレベルが下がっていることと、人間的な深みや雰囲気といった一番大事な部分の問題があるのではないかと思います。社会全体の仕組みが劣化してきているから、教員に限ったことじゃなく、世の中全体劣化してきていますが。
松本 世の中全体が劣化しているから、仕方ない、という話ではないですよね。
後藤 構造的な話をすれば、背景には教員の年齢構成があります。この10数年間、大量退職が続いているため、採用数も全国で3万6000人を超えています。就職氷河期の平成12年、全国の公立学校教員採用が1万1000人だったので、3倍を超えています。
一方で18歳人口、22歳人口が減少している中で、採用は3倍に膨らんでいるわけですから、今新たに採用された方の質は、倍率が10数倍あった時と比べてどうかというと、だからしょうがないといっている場合ではないでしょう。そういう状況の中でどうやって現状に対応できる指導体制を作れるかが、文部科学省に求められた課題だと思っています。
その中でのチャンスは、新規で採用する先生が、大卒の22歳とは限らないことです。毎年約9万から10万人が教育免許を取得しているのですね。今は教職課程に関わってない大学・学部・学科の協力で、学生が教師という仕事に対して挑戦できるような環境づくりをできないか。先ほどの中教審の議論の中でも考えていきたいと思っています。
▪️子どものデータは誰のもの
松本 本日のクライマックスです。子どものデータは誰のものか。堀口先生に締めていただきましょう。
堀口 法学の観点から申し上げますと、所有権と同じように考えるのは誤りです。例えば、私の目の前にあるペットボトルは私のものです。形あるものを私が独占的に持っている、排他的に持っているということです。だから皆さんがこのペットボトルを奪えば、違法です。ところが、データとか情報というのは所有権の対象ではないのです。無体物に所有権は成立しません。データはクラウド上でいくらでも共有できるものですから、誰かが独占する、排他的に持っている、管理するということはそもそもできません。
プライバシー権という発想は、子どもの所有権があるとは言えないものを、「子どものものと見なす」ということを含意しているのです。
例えば先生がテストして採点した採点のデータは、先生が作り出したものですから、所有権の発想でいえば先生のものです。でもプライバシー権の発想から子どものものと見なすわけです。先生は他人のものを預かっているのですね。そこに責任が発生します。
責任は人間しか負えません。いくらAIが優れていても、AIは責任を負えません。けれども、教育現場の場合、誰か1人に責任を丸投げしてはいけないと私は思います。
今、プライバシー保護の領域でよく言われるのはプライバシーガバナンスです。国が責任を果たすことが非常に重要です。個人情報保護のルールを明確に示し、1人の教師が個人情報保護について責任を背負わされることがないようにしていく。預かった側の責任を果たす体制をしっかり作ることが、子どものデータを用いている上で最重要なことです。
◆ 研究プログラム紹介ページ
AI 時代の先生~教職の制度設計を再構築する
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