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教員不足の解消のため、文部科学省は特別免許状の制度を活用して社会人らを教壇に送り込もうとしている。しかし、これは教育の質を度外視した悪手ではないか。国は教員の質を担保する方策を講ずるべきだ。
R-2022-036-2
「教員不足への場当たり的対応は悪手 国は質担保の役割を担え【前編】」はこちら
3教員免許状と採用試験は何を保証しているか」 ・「九九ができない教員」 ・1倍台の採用試験 4棚上げされた「国家免許化」 |
3 教員免許状と採用試験は何を保証しているか
「九九ができない教員」
教員免許状と採用試験に対する信頼自体が揺ぐ中で、数の確保だけを目指す方針転換がすんなり受け入れられるはずがない。実際、最近も自治体関係者からこんな愚痴を聞いた。
「九九ができない教員をとってしまった」
「偏差値で言うと、40台」
一体、教員免許状と採用試験は何を保証しているのだろうか。
戦後まもない日本で、教員は「超エリートの教養人」の職業として設計された。軍国主義教育に加担したとして師範学校での養成をやめ、「大学における養成」を打ち出したのは、敗戦4年後の1949年。公教育を担う教員養成を大学で行うという方針は世界初の政策で、欧米諸国を驚かせたという。ほんのひと握りの優秀な学生に、敗戦からの復興を担う人材の育成を託そうとしたのだ。
ところが、その先進性は失われている。世界の教員の主流は大学院修士レベル。学部卒業程度で教員になれる国は、日本とアフリカなどの発展途上国ぐらいになっている。複雑化した世界で生きなければならない子どもを育成する教員には、より高度な学びが必要というのが先進国の共通認識のようだ。
後塵を拝する現状には、教員の卵を育てる大学側の苦しい台所事情も関わっている。小学校教員の養成はかつて国立大学が中心だった。その規制を文科省が完全撤廃したのは2006年。少子化で学生確保に苦しむ私立大学にとって、「資格が取れる大学」は受験生への格好のPRになる。規制撤廃により、50校が190校にまで増えていた[1]。
そうした私大の46%が今、入学定員割れを起こしている。存続のためにはもっと受験生を集めなくてはならず、文科省調査によると、入学者の半数以上を総合型選抜(かつてのAO入試)や指定校推薦など、筆記試験を経ないで確保する事態が起きている。それでも教職課程で単位を積み上げ、都道府県教育委員会に申請すれば、免許状が交付される。
教職課程を巡る問題は他にも山積しているが、無闇な単位の積み上げによる「薄味化」はその最たるものだろう。
総じて、教員を目指す学生が取得しなければならない単位数は多い[2]。例えば、小学校教員の免許状を取ろうとすると、まず67単位が必要だ。その上、多くの大学は採用につながりやすいとして複数免許状の取得を推奨している。小学校教員を目指す学生の場合、幼稚園や中学校の英語教員などの免許状取得も目指すことになる。このほか大学の教養教育などを取ろうとすれば当然、全体の単位数は膨らみ、180単位を超す学生も少なくない。200単位超の猛者もいる。大学設置基準で卒業認定に必要な単位数は124単位なのだが。
その単位は学修時間とセットで、1単位当たり45時間の学修が必要とされる[3]。文科省は大学側に繰り返し教育力の向上を求めており、中核にあるのが「単位の実質化」だ。学生が単位数に見合う学修時間を確保するよう、一方的な講義ではなく、双方向型の授業に改善し、主体的に学べるよう課題を出すよう促している。
この原則論に従えば、4年間で180単位をとると、授業時間も含めて計8100時間、1年間で2025時間を学修に充てることになる。この数字の意味は、労働時間と比べるとわかりやすい。厚生労働省の毎月勤労統計調査によると、日本の一般的な労働者の総実労働時間数は減少傾向にあり、1700時間台で推移している。これでも「働き過ぎ」と言われるのだ。それを300時間以上も上回る。
単位数が多くなるほど、学生が授業を「こなすだけ」になるのは容易に想像がつく。実際、教員を目指す学生たちから、しばしば「予習復習が全くできない」と聞かされる。予習も復習もしないでやっつける授業の先に、教員免許状が出ているのが現実なのだ。
教職課程の学びに誰が携わっているのかも、懸念材料だ。多くの大学で、教職課程を担う非常勤教員の確保に奔走していると聞く。実際、教員の求人サイトを検索すると、教職課程の人材募集が数多くヒットする。例えば「jREC-IN」や「求人ボックス」というサイトで「教員養成」「大学」と検索すると「生徒指導法」「進路・職業指導」「教師論を担当できる教員」など科目担当を募集していることがわかった[4]。
教職課程に対応し、採用者の側の事情にも配慮して、より採用されやすい学生を輩出するためには、科目を細分化し、教員を張り付けなくてはいけないという現実があるようだ。
文科省の有識者会議は今年3月、全ての新規採用教員が10年目までに2年以上、特別支援学校などでの指導を経験すべきだとの提言案を取りまとめた[5]。こうした動きを受け、採用率を上げたい大学は、特別支援学校の免許状取得も促すことになるだろう。
単位は英語で「credit」。信用という意味もある。薄味化した単位の何を信用したらいいのだろうか。
1倍台の採用試験
であればいきおい、免許状と両輪をなす自治体ごとの採用試験の重みが増してくる。だがこちらはすでに、ほとんど機能していないと言って過言ではない。それを如実に物語るのが、都道府県の試験の倍率の低さだ。
とりわけ低倍率が目立つのは、小学校教員の採用試験。2022年度の都道府県実績をみると、半数近くの23自治体で倍率が1倍台を記録していた(右表)。最も低かったのは秋田県と大分県で、いずれも1.3倍。ただ、この数字はあくまで最終倍率であり、実は数字のトリックが隠されている。
採用試験は通常、教室で授業ができる学力の有無を試す1次の筆記試験と、論文や面接、実技、集団討論などの2次試験で構成されている。このうち公表されているのは2次の最終倍率で、1次試験倍率が1倍台のところはもっと多い。受験生が1次でふるい落とされれば最終倍率は下がるはずなのにそうでないのは、抜け道があるからだ。
例えば東京都の1次試験倍率をみると、ここ10年間、1倍台が続いている。2019〜2021年度は3年連続で1.1倍。「名前を書けば突破できる」と揶揄される数字だった。2022年度の試験は少し持ち直して1.5倍、ところが最終は2.4倍となった。抜け道というのは、1次試験を免除される学生たちの存在だ。大学推薦で東京都教育委員会が開く教員養成塾に参加した学生たちだ。他に臨時教員として働いた実績を持つなどして免除された人も含め、毎年600〜700人が筆記試験なしで2次試験に進んでいるのだ。
この大学推薦とて安心はできない。「優秀な学生には出さない」と大学関係者は口を揃える。「1、2番手グループは自力で試験を突破できる。下駄を履かせなければ合格できない3番手以下を送り込む」(都内の私大教員)。どの自治体も似たり寄ったりのようで、採用試験も質を担保するあてにはならない所以だ。[6]
実際、東京都内のある自治体に採用された過去3年間の教員の出身校リストを見ると、偏差値40台どころか、最低の「F」ランク大学も目立った。偏差値は、ある試験の受験者の中での相対的な「位置」に過ぎない。大学の価値や学生の能力とは基本的に無関係ではあるが、現状で入学者の学力を推定する数字としては偏差値しかなく、あえて紹介すると、そんなうそ寒い実態も窺える。
4 棚上げされた「国家免許化」
採用試験の倍率の低さの裏には、教員の労働環境の悪化による不人気職種化という流れがある。文科省データから労働時間だけをとっても、1966年から2016年の半世紀で、小中学校とも2割前後も増え、時間外労働が常態化している。学生たちには魅力に乏しい職種と映るようで、優秀な人材を呼び込みづらくなっている。
その意味で、教員の働き方改革は喫緊の課題だ。教育は国家百年の計、国全体の未来を見渡してそれを行う責任者は、まず国のはずだ。
教員の働き方の抜本改革を目指し、ようやく文科省が近々、実態調査を始めるという。2016年以来となる調査は、具体的には教員の労働条件の大元である給特法(公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法[7])の改正の形で現れるだろう。現状で、教員は時間外労働が正確に給与や処遇に反映されない法的な制約があるからだ。労働時間を正確に把握し、給与に反映させるのは、法治国家として当然の義務。それを実現すれば、教員の採用に好影響を与え、質の担保の一歩となるのは確実だ。だが、それだけでは不十分と言わざるを得ない。
ここで「質」というのは、文科省が繰り返し使う「教員の資質能力の向上」ではない。資質とは持って生まれた才能であり、言葉遣いにかねてから違和感を抱いてきた。実際の教壇における教員の質の担保、それに向けた教職制度を再構築するうえで問題にすべきは、システムの改善だろう。現在は文科省が教職課程の内容を決めているが、学生に「生涯学び続ける高度専門職業人」としての基礎力がついているかどうかの診断は大学に丸投げだ。都道府県教育委員会は大学からの申請を受けて、免許状を出しているだけであり、質の担保の観点から、信頼できる免許状とはいえない。教職の内容を設計している文科省自身が責任を持って試験をし、教員養成が制度として機能しているか、その下で学生が本当に力をつけているかを測るシステムが必要だろう。
その考えは、すでに文科省から出されている。2012年12月、文科省の諮問機関「中央教育審議会」(中教審)が打ち出した「教員採用試験の共通問題の作成」だ。各都道府県による採用試験問題作成の負担軽減や、次々に現出する新たな教育課題に対応した試験が不可欠といった観点からのものだが、実施主体として独立行政法人教員研修センター(現在の教職員支援機構)と明記するなど、具体化に向け踏み込んでいる。
これは、同年5月に行われた自民党教育再生実行本部第四次提言の「教員の国家免許化」、同じく教育再生実行会議の第七次提言「共同試験の実施」を受けての動きとみられる。文科省の「課程認定」と自治体教育委員会の「免許授与」の二重性を制度的に統合する趣旨もあり、「優れた人材の確保」の有力な方策として検討されていた。二重のチェックといえば聞こえはいいが、実際は誰も責任を取らない仕組みであることが問題視されたのだ。
一体、これらの議論はどこへ行ってしまったのか。現在、教員の採用などについて審議中の中教審でも、「国家免許化」「共同試験」に関する目立った記述はない[8]。
教員の「国家免許化」となれば、国民教育の前面に国が立つことになり、戦前の反省などから強い反発を感じる人が少なくないことは理解できる。これに対し、教育行政の責任者や学者、校長会代表、教員組合代表らで専門機関を設け、試験の作成・実施機関とする考え方が学識者レベルでは出されている。今の大学入学共通試験のような「共同試験」。つまり、1次試験は国が責任を持ち、2次試験は都道府県に任せる設計だ[9]。
人の命に関わる医師になるには、医学部で6年間学び、国家試験に合格して免許を取ることが絶対条件だ。まだ議論は始まったばかりだが、文化庁は外国人を対象にした日本語学校の教員を国家資格化し、実習も含めた国家試験導入を目指している。実現すれば、日本語教員は国家資格に値する「高度専門職業人」だと認められることになる。こうした事例を踏まえ、国は、公教育を支える教員の労働環境を整える一方、「質」を向上するためのシステムづくりに力を尽くすべきだ。
[1] 調査協力:お茶の水女子大学博士課程 中村まい(本プロジェクト・リサーチアシスタント)
[2] 中央教育審議会 令和の日本型学校教育を担う教師の在り方特別部会・初等中等教育分科会教員養成部会合同部会配布資料・参考資料4 2022年
https://www.mext.go.jp/content/20220707-mxt_kyoikujinzai02-000023769-24.pdf
[3] 大学設置基準第21条「単位」 「1単位の授業科目を45時間の学修を必要とする内容を持って構成することを標準」と定めている。大学関連の法律等では「学修」と表記されている。
[4] いずれも最終閲覧時間 2022年8月11日11時40分
[5] 「特別支援教育を担う教師の在り方等に関する検討会議」2022年3月31日
https://www.mext.go.jp/content/20220331-mxt_tokubetu01-000021707_1.pdf
[6] 拙稿「何が教師不足をもたらしたか」 https://www.tkfd.or.jp/research/detail.php?id=3944
[7] 給特法 給料月額の4%分を上乗せする代わりに時間外手当を支給しないと規定する法律。1971年制定。
[8] 中央教育審議会「令和の日本型学校教育」を担う教師の在り方特別部会(第7回)・基本問題小委員会(第7回)・初等中等教育分科会教員養成部会(第130回) 合同会議資料. 2022年6月27日.
https://www.mext.go.jp/kaigisiryo/2022/1422489_00001.html
[9] 佐藤学「みんなで異見交論 国家試験導入で教師の質向上」 文部科学教育通信2022年 534、535号