R_2022-142J
・はじめに ・グランドチャレンジの解決に向けたミッションへのアプローチ ・STI政策の手段の設計 ・新たな政策手段:インパクトとシステム思考の重要性 ・EUの政策手段 ・公的機関のキャパシティー ・結論と教訓 |
はじめに
欧州連合(EU)および欧州の多くの国々は、グランドチャレンジに取り組む具体的なミッションを念頭に、新たな科学技術イノベーション(STI)政策の目標の検討を始めている。
グランドチャレンジとは、必ずしも市場で解決できるとは限らない、長期的かつ複雑な課題を言う。そうした課題は社会的・組織的な側面も持ち合わせており、課題によっては複数の異なる技術と一定程度の行動変容が求められる。グランドチャレンジの例としては、気候変動、高齢化社会、持続可能な交通システムなどが挙げられる。
政策立案者がグランドチャレンジに向けたSTI政策の目標を検討する際には、課題の複雑さと目標の高さを鑑み、より実行可能な新しい考え方に基づいてSTI政策のガバナンスを構築する必要がある。
本稿では、STI政策のミッションへの新たなアプローチにおけるガバナンスの2つの重要な側面について論じたい。1つは、グランドチャレンジに取り組む、適切かつ入れ子構造の政策手段を設計することの重要性である。STI政策の新たな目標は、具体的な政策手段の設計に沿ったものである必要があるからだ。もう1つは公的機関のキャパシティー(およびキャパシティービルディング)の重要性である。STI政策を成功させるには、公的機関が政策手段を実行することが不可欠である。
グランドチャレンジの解決に向けたミッションへのアプローチ
これまでSTI政策が目指してきたのは、主に「人類の知のフロンティアの開拓」と「産業における技術競争力の向上」であった。グランドチャレンジへの取り組みは、これに続く3つ目の目標となる。この新たな目標は、長期的で複雑な課題の解決を目指すという点で先の2つの目標と異なるうえ、はるかに野心的なものであると言える。
ここで重要なのは、グランドチャレンジに向けたミッションの目標は、従来の2つの目標に代わるものとしてではなく、新たに加わった目標としてとらえるべきだということである。つまり、「知のフロンティア開拓」と「技術競争力向上」という従来の2つの目標は、引き続きSTI政策の理論的根拠の中核であり続ける。
グランドチャレンジのミッションにおける目標は、STI政策が複雑で長期的な課題解決に役立つとの理解に立っている点に新規性がある。すなわち、STI政策は解決を必要としている社会技術システムの変革に貢献できるという認識がベースにある。
グランドチャレンジに取り組むには、既存の社会技術システムの変革と再定義が求められる。例えば、都市交通を向上させるには、単に公営・民営の交通システムを改善するだけでなく、クリーンな技術を用いたゼロエミッションシステムを構築する必要がある。しかもクリーンな技術を用いるとなると、単に電気自動車を導入するのみならず、バッテリー充電システムの構築、バッテリーを安全に利用するための規制の制定、必要な時に充電できるだけの再生可能エネルギーの確保なども必要になる。言い換えれば、新たな社会技術システムが必要になるのである。
同様に、電動フェリーなどの電気推進船を導入するには、新型船を開発するだけでなく、運航を指揮する船長の訓練や免許の交付方法も検討しなくてはならない。ディーゼルエンジン船と電気推進船とでは操縦方法が大きく異なるためである。また、海上の安全に関する規制や、電気推進船の安全性を保証する手続きの整備も必要になる。
結局、新しい交通を導入するには、次世代の電気自動車、電気推進船、バッテリーなどの研究開発に資金を投じるだけでなく、規制、エネルギー供給、人材育成、免許の交付といった社会技術システム全般についても検討しなければならないのである。
グランドチャレンジに取り組むSTI政策の別の例として、グローバルサウスにおける「顧みられない病」への医薬品の供給が挙げられる。世界には、患者が貧しく治療費を払えないがゆえに治療がなされないでいる病が数多く存在する。治療薬を開発するには巨額の資金が必要であり、バイオ医薬品メーカーにとって、治療費を払えない患者のための薬の開発は市場インセンティブに欠ける。そのため、主にアフリカで見られるデング熱、シャーガス病、リーシュマニア症といった疾患については、安価な治療薬やワクチンが開発されておらず、患者が「顧みられない」ままになっている。実は新薬の主要な有効成分になり得る活性成分を含む新規化学物質は、すでにいくつか存在しているにもかかわらず、市場インセンティブがないために医薬品は開発されていない。グランドチャレンジに取り組むSTI政策は、こうした疾患の医薬品開発プロジェクトでさまざまな連携主体との協働を促し、グローバルサウス向けの医薬品の開発と承認に貢献することができる。
すでに多くの政策立案者が、グランドチャレンジに取り組むSTI政策の野心的な目標を設定し始めている。取り組みは始まったばかりで、今はまだSTI政策においてミッション志向とは何を意味するのか、またどのように目標を設定し実行するのかといった事項が検討されている段階だが、学術界と政策立案者が極めて意義のあるテーマの下で共創過程に携わることができる、非常に興味深い段階と言える。
このテーマには2つの明確かつ重要な側面がある。1つは、グランドチャレンジに取り組むSTI政策のミッションとは、つまるところ「変革」(具体的には社会技術システムの変革)であるということだ。STI政策が新たなアプローチで目指しているのは、大規模で持続性のあるシステムの変更である。
もう1つは、極めて野心的なミッションを実行可能なものにし、十分に機能させるためのガバナンス体制と政策システムを設計するには、新しい考え方が必要になるという側面である。少なくとも、グランドチャレンジの目標達成に適した政策手段を設計し、政策手段の実行において公的機関が果たす役割の重要性を認識する必要がある。ミッションを遂行する公的機関のキャパシティーを「当然あるもの」と考えてはならない。この点については後述する。
STI政策の手段の設計
従来のSTI政策の手段は、研究開発資金の支援が大半を占めていた。科学的な活動に対する助成もあれば、市場に近い分野に関する応用研究、技術、開発に対する助成もあったが、いずれにせよ、知のフロンティアの開拓や競争力向上を目的とする科学技術プロジェクトや共同イノベーションプロジェクトに対する経済的な支援が主だった。
だがグランドチャレンジに取り組むのであれば、政策立案者は新たな政策手段を検討する必要がある。目標を達成するには、より広い範囲を対象とする政策手段が必要になるからだ。ミッション志向型のトランスフォーマティブ(社会変革型)・イノベーションに関する政策の理論的根拠を踏まえると、新たな政策手段はより包摂的なもの、すなわち新たなアクターを巻き込むものでなくてはならない。先に述べたとおり、官民の主体(大学や産業界など、従来の研究プロジェクトにおける主体)が参画するだけなく、患者団体、社会的企業、社会起業家などの非営利組織との協働も必要になる。一般的に、そうした非営利組織はイノベーションの創出に欠かせない。そのため従来は産業界、大学、公的研究機関で構成されていたイノベーションのコンソーシアムに、新たなステークホルダーを連携主体として参画させるのである。
最近行った実証的分析から、グランドチャレンジに取り組む政策手段に非営利組織が参画した例は非常に少ないことが分かっている。だが、グランドチャレンジは複雑な課題であり、特定の技術あるいは1つの分野の知識だけでは解決できない。そのためプロジェクトは分野の垣根を超えたものでなくてはならない。いわば「知識のバウンダリー・スパニング」が必要である。
また、グランドチャレンジにおいては、市場に速やかに浸透させられる製品や解だけでなく、必ずしも市場または市場に関連づいた形態の消費と関係しない解の開発が求められる。そのためグランドチャレンジに取り組む政策手段の設計にあたっては、より長期の時間軸を設定することも重要である。
先に挙げた医薬品開発の例を再び取り上げてみよう。グローバルサウスの貧しい患者向けの医薬品の開発では、市場との相互作用が働かず、多くの疾患が顧みられることなく放置されている。このグランドチャレンジに取り組むには、国境なき医師団など、現場に精通した非政府組織を巻き込み、現地で臨床試験を行う際に知識を提供してもらう必要がある。
実際に従来のSTI政策手段よりも長い時間軸を設定した例としては、スウェーデンイノベーションシステム庁(VINNOVA)が挙げられる。VINNOVAは助成金の支給に際して3段階のステージ間に「ゲート」を設けることで、従来の政策手段よりも長い時間枠を確保した。助成対象のプロジェクトは一定期間経過後に同庁により評価され、進捗が不十分と判断された場合は次のステージに進むことができない。つまり順調に進んでいるプロジェクトは引き続き助成を受けられるが、進捗不十分なプロジェクトへの助成は打ち切られるという仕組みである。
最近私たちが行った北欧4カ国のSTI政策手段の比較では、デンマークとフィンランドの助成プログラムが、グランドチャレンジとの関連性、ミッション志向性、政策の理論的根拠の点で入れ子構造が不十分であった。一方、ノルウェーとスウェーデンの政策手段は設計に新しさがあり、グランドチャレンジに取り組む政策手段の考え方という点で、より革新的であった。また、より広範な社会技術政策システムに適合し、しっかりと組み込まれていた。以上が、北欧4カ国の政策手段に関する比較の質的分析の結果である(Borrás, S. and S. Schwaag Serger (2022))。
新たな政策手段:インパクトとシステム思考の重要性
グランドチャレンジへの取り組みにおいて政策手段が目指すのは、新たな科学技術イノベーションだけではない。科学技術イノベーションによって得られた知識と成果を特定の領域に応用し、インパクトをもたらすことも重視している。そのため、従来の政策手段が知識創出のためのインプットに重きを置いてきたのに対し、新たな政策手段では実行可能な解を見出すことを重視する。単に研究開発への助成を行うだけでなく、成果が関連ある分野や領域に組み込まれるように研究開発のインパクトを根本的に高めるような政策手段が取られるのである。したがって、グランドチャレンジに取り組むSTI政策手段は、より分野に限定されたものになる。また、成果を応用し、インパクトをもたらすことを重視するため、政府内の異なる部署間、あるいは異なる連携主体間の相互作用がより重要になる。グランドチャレンジに向けたSTI政策では、政府全体による対応が必要であり、政府内、および政府と民間の非営利組織との間で協調することよって、新技術がもたらすインパクトと技術の取り込みにかかわるさまざまな側面が速やかに実現される。そこで必要となるのがシステム思考である。
まずはどのような目標や具体的なミッションに取り組みたいのかを考える。プロジェクトが野心的なものである場合、具体的で実行可能かつ実現可能な小目標を設定する必要がある。ただし具体的すぎて技術に特化したものになってはならない。もう少し広い視点から考えたい。こうした目標を政府がトップダウンで決めるべきなのか、あるいは研究者や企業がプロジェクト内で課題と解を定義するボトムアップ方式で決めるべきなのかについては、現在はまだ議論が分かれている。
グランドチャレンジに取り組むSTI政策の手段はインパクト志向型であるため、研究開発の資金援助や支援だけでなく、新たな知識を速やかに普及させ現実の世界にインパクトをもたらす際に障壁となるさまざまな規制、組織、行動、その他の課題への対応も必要となる。
そのためには、新技術を開発し市場に投入するキャパシティーを持つ民間企業はもとより、市場の主体ではない組織、すなわち民間の非営利組織の参加が不可欠となる。先に述べたとおり、民間の非営利組織は公衆衛生などの分野で重要な役割を果たしている。例えば患者団体の中には、特定の疾患に関して豊富な知識を持ち、高度に組織化されたものもある。そうした組織が持つ知識は非常に有用であり、活用すべきである。
インパクト志向型のSTI政策手段にかかわる民間の非営利組織の例としては、再生可能エネルギーの活用に取り組むコミュニティが挙げられる。余剰電力を蓄えるバッテリーにはさまざまな種類があるが、欧州の小規模な自治体や島には、太陽エネルギーを用いた新技術や新型バッテリーの活用・実験に住民主導で取り組むコミュニティが数多く存在する。再生可能エネルギーを生産する新技術を導入したり、実証実験に参加しているコミュニティは、グランドチャレンジに取り組むにあたって非常に重要な知識源となる。STI政策においては、そうした民間の非営利組織をさまざまな形で巻き込んで新たな知識を創出・応用し、インパクトをもたらす必要がある。
グランドチャレンジに向けたSTI政策にはリスクと機会があるが、政策の実行過程では緊張も生じる。経路依存性が存在する場合もあるだろう。例えば、市場で成功している既存の企業は、自社の市場シェアを奪う新技術を歓迎しないかもしれない。政策によって一部の反発は抑制できるだろうが、それには限界がある。STI政策は主に新たな知識の創出と取り込みに重点を置いているからである。だが「敗者」への配慮に欠けては、グランドチャレンジに取り組むうえで必要な変化が起こらない可能性がある。そこで必要になるのがシステム思考である。体系的な対応を取るためには、適切なポリシーミックス(複数の政策手段を同時に用いること)を検討することが重要になる。例えば、新技術に対する資金援助と試験の実施に重点が置かれる一方で、技術のスケールアップを認めない安全規制によって、技術の取り込みが阻害されるということもあるかもしれない。そこでシステム思考によって、STI政策手段において新技術の取り込みとスケールアップを可能にする適切なポリシーミックスを構築するのである。
EUの政策手段
ここでミッション志向型アプローチに移行しつつあるEUの現状を簡単に説明しておきたい。EUは2021年から2027年の間に取り組むべき5つのミッションを特定し、地域、国、地方の各レベルで必要な資源(資金提供プログラム、政策、規制など)の確保に取り組んでいる。自治体などの公的アクターとともに市民や民間の主体(研究機関、農家、土地管理者、起業家、機関投資家)を動員することにより、幅広いステークホルダーを巻き込んで、新たな知識のみならず、社会と市場にインパクトをもたらす解の創出を目指す――これがEUのミッション志向型アプローチである。
現在EUはミッションをどう実現していくのかという課題に直面している。何しろまったく新しいアプローチであるうえ、まだ取り組みが始まって間もない。ガバナンス体制はどうなっているかというと、各ミッションにおいては、欧州委員会の職員がマネージャーを務め、個人の資格で任命された10人の専門家から成るミッションボードが設置されている。10人のうちの1人(主に知名度とカリスマ性を備え、要職を経験した元政治家)が委員長に任命される。
この体制はミッションボードによるアジェンダ推進を可能にすべく構築された。具体例として、スマートで気候中立な都市を築くことを目指す都市ミッション(Cities Mission)を取り上げてみよう。このミッションはネットゼロ都市(NetZeroCities)と呼ばれるネットワークを基礎にしたもので、現在、選定された欧州の100都市が気候都市契約書(Climate City Contract)の策定を進めている。選ばれたのは、いずれもネットゼロ達成に向けた具体的な計画やプログラムに取り組む意欲を持つ都市ばかりである。
例えばコペンハーゲンは、多様な主体を動員し、さまざまな政策手段を用いてミッションの達成を目指している。都市ミッションでは、EUと国・地方自治体による多層的ガバナンス体制が敷かれているが、これは非常に新しい手法であるため、実行段階でのフォローアップが必要になるだろう。選定された100都市のうち、いくつかの都市は非常に積極的に活動に取り組んでいるが、計画の実現に苦労しそうな都市もある。計画をどう実行し、多層的ガバナンスのミッションがどう機能するのかは、都市によって違いが生じることが予測される。
公的機関のキャパシティー
ここまで、政策手段やその設計方法、およびガバナンス体制における調整方法について述べてきたが、ここからはグランドチャレンジに向けたSTI政策の課題を組織的な観点、すなわち政策を実行する個々の組織のレベルから論じたい。学術文献では、野心的なSTI政策の目標の達成に向け、公的機関のキャパシティーに注目したものが増えている。
一般的に、地方自治体、規制当局、公益企業といった公的機関には、グランドチャレンジに取り組み解を提供することが求められている。しかし各機関はそれに必要な組織的キャパシティーを備えているのだろうか。新たな政策アプローチにおいて、公的機関にはさまざまな資源を動員することが期待されている。政策の実行に関する議論は、多くの場合、政策手段とポリシーミックスに終始しがちだが、新たなアプローチと政策手段を実行する組織のキャパシティーもまた重要である。
そこでコペンハーゲン・ビジネススクールは、「キャパシター(CAPACITOR)」という研究プロジェクトを立ち上げた。これは特に重要なグランドチャレンジの1つである「持続可能な社会への移行」に取り組む公的機関のキャパシティーを検証するプロジェクトで、公的機関が移行に向けてグリーンテクノロジーをどう活用しグリーンイノベーションを創出しているのかを調べるものである。
調査対象は、地方自治体、国の規制当局、および公営の公益事業である。これらの組織は、持続可能な社会への移行に向けた社会技術システムのガバナンスにおける重要な主体であり、そのキャパシティーによって移行の成否が決まる。私たちは各組織に対し、何が自らのキャパシティーだと考えているのか、自らのキャパシティーをどの程度認識しているのか、また、それをどう開発し、活用しようとしているのかについて尋ねた。ここで言うキャパシティーの意味だが、私たちは広範な文献レビューに基づいてキャパシティーの概念を発展させ(Borrás, S., et al. (forthcoming 2023))、「公的機関が変化の仲介役として目的意識を持ってさまざまな役割を果たすと同時に、自由に使える内外のリソースを動員するためのダイナミックなスキルを開発することにより得られるアウトカム」を「変革的キャパシティー」と定義した。役割、資源、スキルを組み合わせたこの定義に基づくことで、社会変革に必要なキャパシティーを詳細に検証することが可能になる。
私たちはグランドチャレンジに向けたSTI政策のミッションに関して、より具体的な質問を作成した。「公的機関(例えばシティーミッションの100都市)は取り組みを成功させられるだけの資源(資金、人材、市民の負託、ネットワーク等)を持っているか」「グランドチャレンジに取り組むために調整・分析を行い行動するだけのスキル(手続き、手順等)が組織内にあるか」「どの程度の意欲を持っているか(新たな知識やクリーンな技術を導入するにあたって、変化の仲介役として具体的にどのような役割を果たすのか)」といった質問である。役割を果たす意欲はあるものの資源とスキルがないという自治体もあれば、豊富な資源と高いスキル、手続きの仕組みを持ちながら、意欲に欠け、自らが変化の仲介役だという認識を持たない自治体もあるだろう。このように、グランドチャレンジに取り組むSTI政策の実行においては、役割、資源、スキルという3つの重要な要素の相互作用によって公的機関のキャパシティーが決まるのである。
電動フェリーの例を見てみよう。バッテリーで動く電動フェリーはグリーンイノベーションである。デンマークには移動手段をフェリーに頼る島が数多く存在するが、ディーゼルエンジンのフェリーは温室効果ガスを大量に排出するため環境への負荷が大きい。そこでまず、電動フェリーの製造が可能かどうかの検討が始まった。電動フェリーの開発には、自治体、規制当局、研究機関、公営の公共事業といった主要な公的機関が参画した。これらの組織には、グリーンイノベーションの実現に向けて、新たな役割、リソース、スキルという変革的キャパシティーが求められた。
その典型的な例が、CO2排出量を年間2,000トン削減したエーロ島の電動フェリー、エレン号だ。私たちはキャパシタープロジェクトでエレン号の事例を分析し、デンマークの小島がどのようにして長時間(1時間半)運航可能な電動フェリーというイノベーティブな乗り物を実現したのかを検証した。まず、バッテリーが非常に大きいため、船体はいちから設計し直された。また、プラグイン式のバッテリーがなかったため、こちらも新たに作られた。さらにフェリーは安全性に関する承認を受けて航行する必要があったため、海上の安全を担う海事庁が承認手続きを全面的に見直す必要に迫られ(従来の手続きはディーゼルエンジン船を対象としたものだった)、新たな承認手順を作成した。フェリーの充電に必要な再生可能エネルギーの供給についても検討された。フェリーが停泊している10分間で充電を終えなければならないため、急速充電ができるよう必要なエネルギーを港の近くに蓄える仕組みが構築されたのである。
エーロ島の電動フェリーの事例からは、プロジェクトに参画したすべての公的機関が、イノベーションの創出において役割を果たす意思を持っていたことが分かる。最大のリソースは島の船員養成学校の専門家ネットワークだったが、すべてのリソースを調整し動員した自治体の能力は、成功の重要な要因の1つであった。この変革的イノベーションにおいてガバナンスがうまく機能したのは、主体が必要なキャパシティーを備えていたからである。つまり、デンマーク政府やEUによる電動フェリー研究開発への資金援助はもとより、電動フェリーの実現に必要な解をもたらすアクターのキャパシティーのエコシステム全体が重要であった。
結論と教訓
グランドチャレンジに取り組むSTI政策のミッションの肝は「変革」である。グランドチャレンジに取り組むには、実行可能なミッション遂行方法と社会技術システムのガバナンスを考える必要がある。そのためには、政策手段とポリシーミックスが目的に合致していること、それらがインパクト志向型のシステム思考に基づいて設計されたものであることが重要である。加えて、変革的キャパシティーを持ち、現実的な解を提供してくれる公的機関の存在も欠かせない。
参考文献
Borrás, S., et al. (forthcoming 2023). The Transformative Capacity of Public Sector Organizations in Sustainability Transitions: A Conceptualization.
Borrás, S. and S. Schwaag Serger (2022). "The design of transformative research and innovation policy instruments for grand challenges: The policy-nesting perspective." Science and Public Policy.