
はじめに
経済産業省は「自然と健康になれる社会」を目指し、個人の健康に関するデータ「PHR(Personal Health Record)」を活用した新しいサービスづくりを進めている。現在開催中の2025年大阪・関西万博においても、経済産業省は、「令和5年度補正PHR社会実装加速化事業(情報連携基盤を介したPHRユースケースの創出に向けた課題・論点整理等調査実証事業)」として実施した事業から10件のPHRサービスを展示、関連HPから体験可能となっている[1]。また、万博の大阪ヘルスケアパビリオンの公式アプリは、大阪パビリオンと連動した個人の健康データやアバターを見ることが可能なPHRのアプリとなっている[2]。
本稿では、著者らの研究結果も含めた近年の研究レビューをもとに、PHRの普及とデータ共有に対する意識と制度的課題に関して述べる。
PHRに関する取り組みは、近年に限ったものではない。2000年代初頭以来の「どこでもMY病院」構想[3]において、電子カルテの情報をPHRによって患者本人が見られるようにするという方向性が示されていた。また、MicrosoftやGoogle等、PHRに取り組んできた企業は複数あるが、普及はまだ道半ばである。取り組みの長さや近年の政策としての関心の高さに比して(世界的に)普及が進まない理由としては、標準化の欠如やプライバシー法制の不整備[4]、医療従事者サイドでの負担[5] [6]がある他、政策的コミュニケーション不足に関する指摘[7]がドイツでもあり注目に値する。我が国においてもPHRに対する認知度は、まだまだ低く、2021年の総務省(委託先:NTT データ経営研究所)による民間PHRサービス利用者へのアンケートでは、66. 7%が「PHR」の名称について「全く知らない」と回答していた[8]。著者らが2023年に行った調査においても、88.4%がPHRについて馴染みがないと答えている[9]。なお、認知度の低さに関する報告はイタリア[10]等の他国でも存在する。
プライバシーとの関係では、カルテないしそれを電子化した電子カルテの情報は誰のものかというテーマが、個人情報保護法の成立も相まって2000年前後から議論されてきた[11]。近年に至るまでこの議論は継続されている面もあるが[12]、概ね、医師が診療を行うためのものであると同時に患者の機微な情報を記したものであり、状況によっては公益のためにも使われるものと言うべきであろうか。もしかしたらEUのように、データ主体、管理者、処理者と分けて整理した方が、理解しやすいかもしれない。フィンランドやエストニアなど北欧の諸国ではEHRのデータは政府が管理しており、PHRとして本人にも開示されているが、そうした仕組みは政府への信頼があり国民が不安を抱いていないという事情に基づく部分が大きい。
EMRやEHRと比して、PHRに関しては、データは患者本人のものであるという考え方が基礎となっている[13]。機微性の高い健康医療情報を本人が把握できるようにするのがPHRサービスであり、サービス事業者(や医療関係者)はデータの管理や、データに基づいたアドバイスをするのであって、そのデータは本人の許可なく第三者には共有されないのが原則である。
PHRデータの共有をめぐる3つの局面
幅広い個人情報を企業や外国政府などの第三者に「提供できる場合がある」としていた大阪万博のIDに関する個人情報保護方針の内容が問題となって、開催直前の2025年3月28日に修正がなされた[14]。PHRアプリにおけるデータの第三者提供の同意やユーザー主体でのデータ連携は、万博IDに関するものと同様に重要なテーマである。学術的には、自己情報コントロール権[15]とよばれるような権利の保障ということでもあるが、本稿では特に次の3つの目的に関連したPHRデータの共有の意義や課題につき確認したい。サービスに必要な1次利用としての提供、複数のPHRアプリをつなぐ相互運用のための利用、そして、公益目的での利用も含めたデータの2次利用の3つの局面である。
1)(サービスそのものとしての)1次利用
例えば、ダイエットのためのPHRアプリにおいて、食事の情報や運動の情報を、同様のダイエットを行っているユーザー間で共有したり、家族と共有したりすることがダイエットの効果を高めるためにも重要である。より機微な疾患の情報であっても、患者同士での共有を行うことや、入院中や在宅医療を受けている家族の情報を共有することがサービス自体として求められる場合もある。もちろん、管理栄養士や薬剤師、医師など、専門家からのアドバイス(や診断・治療)を受けるようなサービスであれば、そのための情報共有は前提となる。このような、サービス自体に必要な情報の共有(1次利用)は、そうしたPHRサービスを利用するにあたって当然に同意があってなされるものではあるが、裏を返せば、そうした関係者と情報共有したくないという層にはそのアプリは利用されないこととなる。
2) アプリ間の相互連携・統合
COVID-19におけるワクチンパスポートにおいても顕在化していた問題[16]であるが、PHRのアプリは濫立しやすい。体組成計やウェアラブルデバイスを用いた身体計測データは体組成計やウェアラブルデバイスのメーカーごとにアプリが作られるのが通常であるし、電子カルテや健康診断の情報も医療機関や検査機関等によって複数のアプリが用いられる。万博においても、参加のためのアプリが乱立しているとの指摘[17]があり、万博で紹介されているPHRアプリもそれぞれ別のアプリとなっている。
これらのアプリ間での連携をできるようにすること(API (Application Programming Interface)連携)や相互運用性を担保すること[18]や、別々のアプリの状態ではなく一つにまとめることは、ユーザーの利便性を高めるために重要である。例えば、iOSのヘルスケアアプリやandroidのヘルスコネクトアプリにおいては国際標準規格であるHL7 FHIR[19]を用いることなどによって、連携・統合を可能としている。日本では、マイナポータルとのAPI連携の取り組みも進められている[20]。
相互連携や統合に際して、万博の公式アプリであれば万博IDを活用し、万博協会に集約していく考え方もあるが、PHRに関しては自己主権型アイデンティティ(SSI)[21]の考え方もしくはTrusted Web[22]で示されているような手法の取り入れもありうる。いずれにせよ、
本人中心にアプリ・データの整理ができることが望ましい。
3) データの2次利用
PHRで収集されたデータを他のデータと接続する等して、研究や商品・サービスの開発などに2次利用する、あるいは公衆衛生などの政策立案に用いるといった、本人に必ずしも直接的なメリットがないような利用への期待は多く存在する。また、そうした利活用によるマネタイズができないことにはPHRサービスの持続可能性が乏しい場合もある[23]。ただし、本人の意に反するような利活用は信頼を損なうものであり、一部国家においてはヘルスケアデータに関して「公益」目的での強制的な利用もなされているものの、日本においてはそのような利用に関する支持は得られ難いだろう。もっとも、健康・医療・福祉のためといった公益目的でのデータ提供に関しては、同意が得られる可能性は比較的高い[24] [25]。
PHRデータの共有に対する個人の意向とPHR普及に向けた課題
これまでの複数の研究によると、国際的に「信頼でき、価値があると感じられれば人々は健康情報を共有するが、セキュリティ面を含めて、プライバシーへの不安や制度・技術面の不備があると躊躇(ちゅうちょ)する」という共通した傾向がある[26] [27] [28] [29]。また、医療提供者や家族に関しては信頼が高いが、政府・公的機関や企業への信頼は低く、データを共有したがらないという結果が多い[30] [31]。これは、医療提供者や家族への提供の多くは上記1)の1次利用に用いられることが多く、利用目的が明確なことも関係しているだろう。複数の研究が、一般的に人々の2次利用に関して後ろ向きの姿勢を示している[32] [33]。各国において、金銭的インセンティブを与えれば提供してもよいと考える群、公益目的であれば提供してもよいと考える群、どのような目的であれプライバシーが心配なので提供したくないと考える群がそれぞれ存在している。そうした中で、公益目的での利用を進めたいと公的機関が考えるならば、政策的コミュニケーションの強化は不可欠といえる。PHRへの理解に関しては一般国民だけでなく、医療従事者においても不足しているとする報告[34]もあり、政策的コミュニケーションは1次利用の推進の観点からも重要である。
また、PHRの普及に向けては、表1に示した要因が関与していると考えられる[35] [36] [37] [38] [39]。これらの要因に鑑みても、データ共有の意向の確認や透明性の担保等によって信頼を得ることが求められ、そのための情報提供が重要となる。
表1:PHRの普及・利用に影響を与える主要要因(著者作成)
おわりに
現在、万博のテーマウィーク「健康とウェルビーイング」(2025年6月20日(金曜日)から7月1日(火曜日)まで開催)[40]に当たるが、万博会場内のEXPOメッセ「WASSE」及びFLE(フューチャーライフエクスペリエンス)会場、その他万博会場内外において、PHRその他の今後のヘルスケアサービスの取り組みが示されている[41]。著者が登壇する予定のステージもあるが、是非この期間中に万博にご来場の方には、PHRに関しても注目してもらいたい。その際に、自分はどのようなPHRであれば使いたいか、そして、どのようなデータをどのような目的であれば誰に提供してもよいと思うか、一度考えてみてもらえれば幸いである。
参考文献
[1] PHR CYCLE | ホーム
[2]大阪ヘルスケアパビリオン | 大阪・関西万博(EXPO2025) | 協賛活動 | 企業情報 | TIS株式会社
[3]厚生労働省「どこでもMY病院」構想の実現
[4] Flaumenhaft Y, Ben-Assuli O. Personal health records, global policy and regulation review. Health Policy. 2018 Aug;122(8):815-826. doi: 10.1016/j.healthpol.2018.05.002. Epub 2018 May 14. PMID: 29884294.
[5] Yousef CC, Salgado TM, Burnett K, Aldossary I, McClelland LE, Alhamdan HS, Khoshhal S, Aldossary I, Alyas OA, DeShazo JP. Perceived barriers and enablers of a personal health record from the healthcare provider perspective. Health Informatics J. 2023 Jan-Mar;29(1):14604582231152190. doi: 10.1177/14604582231152190. PMID: 36645335.
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[8]厚生労働省「民間PHRサービス利用者へのアンケート調査結果等
[9] Sassa, M., Eguchi, A., Maruyama-Sakurai, K. et al. Heterogeneity in willingness to share personal health information: a nationwide cluster analysis of 20,000 adults in Japan. Arch Public Health 83, 109 (2025). https://doi.org/10.1186/s13690-025-01599-z
[10] Scaioli G, Martella M, Lo Moro G, Prinzivalli A, Guastavigna L, Scacchi A, Butnaru AM, Bert F, Siliquini R. Knowledge, Attitudes, and Practices about Electronic Personal Health Records: A Cross-Sectional Study in a Region of Northern Italy. J Med Syst. 2024 Apr 17;48(1):42. doi: 10.1007/s10916-024-02065-z. PMID: 38630322; PMCID: PMC11023976.
[11] 医療機関等における個人情報保護のあり方に関する検討会|厚生労働省
[12] 梅林啓「「カルテの情報」は誰のものか」東京大学法科大学院ローレビューVol.19(2024.12)
[13]Kim J, Jung H, Bates DW. History and Trends of "Personal Health Record" Research in PubMed. Healthc Inform Res. 2011 Mar;17(1):3-17. doi: 10.4258/hir.2011.17.1.3. Epub 2011 Mar 31. PMID: 21818452; PMCID: PMC3092992.
[14] 大阪万博:万博の個人情報規約改訂、指紋やパスワードなど削除…第三者提供先も限定 : 読売新聞
[15]【誌上対談】自己情報コントロール権をめぐって
[16]デジタル証明書:科学的なコロナ対策の要 | 研究プログラム | 東京財団
[17] 大阪万博:大阪万博でアプリ「乱立」、公式・協賛だけで7種類…来場者「一つにまとめて」 : 読売新聞
[18] Lehne, M., Sass, J., Essenwanger, A. et al. Why digital medicine depends on interoperability. npj Digit. Med. 2, 79 (2019). https://doi.org/10.1038/s41746-019-0158-1
[19]Index - FHIR v5.0.0
[20] PHR(Personal Health Record)サービス の利活用に向けた国の検討経緯について
[21] Preukschat, Alexander (2021). Self-sovereign identity : decentralized digital identity and verifiable credentials. Drummond Reed, Christopher Allen, Fabian Vogelsteller, Doc Searls. Shelter Island, NY. ISBN 978-1-63835-102-3. OCLC 1275443730.
[22] Trusted Webとは | Trusted Web
[23] ファルマシア・59巻・2号・99頁
[24] パーソナルデータの活用に関する一般消費者の意識調査
[25]Bito S, Hayashi Y, Fujita T, Yonemura S. Public Attitudes Regarding Trade-offs Between the Functional Aspects of a Contact-Confirming App for COVID-19 Infection Control and the Benefits to Individuals and Public Health: Cross-sectional Survey. JMIR Form Res. 2022 Jul 20;6(7):e37720. doi: 10.2196/37720. PMID: 35610182; PMCID: PMC9302613.
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[30] 前掲注8
[31] Belfrage S, Helgesson G, Lynøe N. Trust and digital privacy in healthcare: a cross-sectional descriptive study of trust and attitudes towards uses of electronic health data among the general public in Sweden. BMC Med Ethics. 2022 Mar 4;23(1):19. doi: 10.1186/s12910-022-00758-z. PMID: 35246118; PMCID: PMC8896318.
[32]前掲注8
[33] Cascini F, Pantovic A, Al-Ajlouni YA, Puleo V, De Maio L, Ricciardi W. Health data sharing attitudes towards primary and secondary use of data: a systematic review. EClinicalMedicine. 2024 Mar 18;71:102551. doi: 10.1016/j.eclinm.2024.102551. PMID: 38533128; PMCID: PMC10963197.
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[39]その他前掲注26,29等
[40]健康とウェルビーイング|大阪・関西万博テーマウィーク
[41]【大阪・関西万博で体験】PHRがもたらす新時代のウェルネスライフ|METI/経済産業省