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【論考】対談(河北博文×小黒一正)インフレ時代の医療費はどう決めるべきか 医療費成長率調整メカニズム ―マクロ経済スライドの導入の意味―
May 28, 2026
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デフレからインフレへ――経済環境の転換は、日本の医療制度にも抜本的な見直しを迫っている。消費者物価や賃金が上昇するなかで、診療報酬の改定はその変化に十分追いついているとは言い難い。一方、医療費が経済成長を上回って拡大すれば、国民負担の持続可能性は揺らぐ。もはや論点は「抑制か拡大か」ではない。医療費をどのルールで決め、給付と負担をどう結びつけるのか。その制度設計が問われている。 |
プロフィール
河北博文
社会医療法人 河北医療財団 理事長。公益財団法人日本医療機能評価機構 代表理事。長年にわたり病院経営と医療政策の双方に携わり、日本の医療提供体制の改革に取り組んできた。一般社団法人日本病院会副会長などを歴任し、皆保険制度の持続性や医療提供体制の再編、地域医療構想、医療の質評価の在り方など幅広い分野で提言を行う。近年は、インフレ経済への転換を踏まえた医療財政の再設計や、医療と介護を一体で捉えた制度改革、医療インフラの整備コストと診療報酬の分離といった構造的課題にも積極的に発言している。
小黒一正
法政大学経済学部教授。人口動態と財政・社会保障の関係や世代間問題を専門とする。財務省や財務総合政策研究所主任研究官など政府での実務経験も持ち、社会保障とマクロ経済の関係もテーマに研究・提言を行う。近年は、中長期的な名目GDP成長率と医療費の伸びを連動させる「医療費成長率調整メカニズム」(別称「医療版マクロ経済スライド」)を提案する等、インフレ下の医療財政の在り方に関する議論も主導している。
インフレ下で追いつかない診療報酬
小黒一正 いま日本はデフレからインフレ経済へ完全に転換しつつあります。足元ではホルムズ海峡をめぐる情勢もあり、時間を置いて再びインフレが加速する可能性もある。高市政権には難しい舵取りが求められています。
目下、政府の課題は物価高対策と財政健全化の両立です。そこでまず、現在のインフレと医療制度を河北先生はどう見ておられるでしょうか。
河北博文 私が医療政策に関わり始めたのは1982年です。それから44年、日本はバブルとその崩壊、長いデフレを経験しました。インフレもデフレも見てきました。
病院経営者として振り返ると、バブル期は非常に厳しかった。当時は金利が6%、7%の水準で、経営は赤字続きでした。さらにその前、1974年のオイルショック後には、1年間で2回の診
療報酬改定が行われ、合計で33〜34%引き上げられた時期もあります。
その後、いわゆる「失われた30年」のデフレに入ると、病院経営は比較的安定しました。同じことを続けていれば成り立った面があったからです。
小黒 デフレが終わり、インフレ経済に転じたことで、医療業界には大きな転換が求められている。これが現状ですね。
物価上昇のなかで、医療機関は施設の建て替えや賃上げなどに対応しなければならない。一方で診療報酬の引き上げは必ずしも十分とは言えず、コスト上昇との挟み撃ちに置かれています。
河北 まさにその通りです。デフレ期とはまったく異なる環境に、病院は対応を迫られています。
物価連動で医療費を決める新ルール「医療版マクロ経済スライド」
小黒 そうしたなかで象徴的だったのが、2026年度の診療報酬改定です。本体は3.09%と、30年ぶりの大幅引き上げとなりました。また、一般会計122兆円のうち、医療費の公費負担の伸び率は2.9%に達しています。
ただ、それでも診療報酬の引き上げ幅は十分ではないという意見もあります。
2025年度の名目GDP成長率は政府予測で3%弱ですが、足元では4%を超えており、その主な原因はインフレです。2026年度の名目GDP成長率の予測は3.4%ですが、医療費の伸びが3%弱にとどまれば、26年度も実質的には医療費(対GDP)が圧縮されます。
医療の持続可能性を考えれば、中長期的な名目GDP成長率に沿って医療費を伸ばすことが条件ですが、診療報酬を物価に連動させる仕組み、いわゆる物価スライド制の導入が必要です。私たちはこれを「医療費成長率調整メカニズム」(以下、「医療版マクロ経済スライド」)と呼んでいます。
河北 物価が上がれば医療費も伸び、下がれば抑制される。そういう仕組みですね。定量的な決め方として、私も賛成です。
小黒 デフレ期には、10年平均でも名目GDP成長率は1%に満たない伸びでしたが、インフレに転じた現在は3%程度です。
では、医療費の伸びをどう決めるか。年金の財政検証の仕組みが参考になります。例えば、5年程度の期間ごとに、名目GDP成長率を予測し、それを基準に医療費の伸びを設定し、GDP比での安定性を検証する。そうした枠組みです。
ホルムズ海峡のような事態でエネルギー価格が急騰すれば、インフレ率と名目GDPは想定以上に伸びる。その場合、従来の医療費の伸びでは不足する可能性があります。こうした局面では、遡って調整する仕組みも必要ではないでしょうか。
医療版マクロ経済スライドの制度設計は、実務的に十分可能だと考えています。
河北 有力な提案です。ただし前提があります。皆保険制度を維持することを明確に確認する必要があります。
皆保険は、日本で生活する人に医療を受ける権利を保障する制度です。1961年の導入以降、国にはその財源を担保する責任があるということです。
小黒 おっしゃる通りです。
河北 もう一つ重要なのは、言葉の定義を明確にすることです。とりわけ「医療費」です。現状の議論は、その定義が極めて曖昧なまま進んでいます。
皆保険導入以降、制度改革は重ねられてきましたが、そのたびに「医療とは何か」「医療費とは何か」という基本概念が共有されないまま議論が行われてきました。その結果、多くの妥協が積み重なってきた。
物価スライドの議論も同じです。皆保険や医療費に加え、「GDP」まで含めて定義を整理し、国民の共通認識にする必要があります。
この整理を欠いたままでは、医療版マクロ経済スライドは骨抜きになる。逆に、定義を共有できれば、有効な改革になり得ます。
制度設計の核心は「負担と見える化」
小黒 おっしゃる通り、これまでの議論は言葉の定義が曖昧なまま進み、混乱を招いてきました。
自民・維新の連立合意書には社会保障改革の13項目が掲げられています。その第1項目には、「インフレ下での医療給付費の在り方と、現役世代の保険料負担抑制との整合性を図るための制度的対応」とある。これは医療版マクロ経済スライドに近い考え方です。
現行制度では診療報酬は2年に1度の改定です。しかし隔年改定では、デフレからインフレへの転換局面で物価上昇に追いつかない。他方、基準なく引き上げれば現役世代の保険料負担が増える。
そこで、中長期的な名目GDP成長率に連動して医療費を伸ばせば、保険料率の上昇を抑えられる。インフレ下で医療費をどの水準まで伸ばせば現役世代の負担を抑えられるのか――それを“見える化”する政策が医療版マクロ経済スライドです。
河北 連立合意の趣旨と医療版マクロ経済スライドを踏まえれば、最も重要なのは制度の仕組みを国民に明確に説明することです。その際、「保険料率は変わらない」と打ち出せる準備が必要です。
賃金が上がれば保険料負担は増える。しかし保険料“率”は変わらない。この違いをどう説明するかが重要です。
保険料額は増えても、それは所得の伸びに伴うもので、負担率が上がるわけではない。この点の理解がなければ議論は始まりません。
したがって、保険料率が変わらないことこそ負担増にならないというメッセージを、政治が明確に示す必要があります。これが大前提です。
「不老長寿」は医療か――保険制度の哲学
小黒 突き詰めれば、どこまでを医療として保障するのかという問題に行き着きます。医療費のルールを考えるうえで、その前提となる医療の範囲について、どのように考えるべきでしょうか。
河北 まさにそこが本質です。その問いは、つまり「医療とは何か」、「皆保険をいかに維持するか」に答えることでもあります。
医療とは何かに答えることは、まず、人間の生と死をどう捉えるかということです。ですから、医療費の問題は、単なる財政の問題ではありません。しかしここからスタートしなければ、皆保険の維持というテーマは図れません。
この観点から言えば、細胞治療のような領域を保険医療に組み込んで良いのだろうかと、私は慎重に捉えざるを得ません。不老長寿を求める発想に近く、医療の本来の役割とは異なると思えるからです。
医療の歴史を見れば、人類に大きく貢献したのは、抗生物質、レントゲン、生活習慣病への薬物治療、この3つしかありません。これらは、総じて人間が本来持つ機能を支える、あるいは抑えるための医療です。
5300年前に生きていた「エッツィ・ジ・アイスマン」というミイラの解剖からも分かるように、人間の体は本来、血中の糖代謝を高く保つようにできています。また、塩分を再吸収する力があるから、体内でさまざまな伝達が可能になっている。ところが、飽食の時代となり、古代の自然環境の中で人間が生きるために必要だった機能は、病気として現れるようになった。それが、生活習慣病です。
このように人間の機能を制御する医療には意義があります。
しかし細胞治療は、人間に備わっていない機能を人工的に作り出す行為です。iPS細胞の研究者である山中伸弥氏も、その応用には慎重であるべきだと述べています。
ですから、人間は自然の中で生きる存在であり、皆保険制度における医療の役割は、人間が持つ機能を補助し、調整する範囲にとどめるべき、というのが私の考えです。
言い換えれば、生まれ、成長し、老い、死に至る。この過程を支えることが医療の役割であり、皆保険制度もその前提に立つべきです。
したがって、皆保険制度の持続性を考えるのであれば、どこまでを医療として保障するのか、その線引きを明確にしなければなりません。
医療版マクロ経済スライドも、単に医療費を抑制する仕組みではなく、医療の範囲をどのように定義するかという問題と不可分です。
この哲学を共有しなければ、制度は持ちません。
小黒 「足るを知る」という視点から、捉えなおさなければならないのですね。
河北 その前提があって初めて、医療費のルールも、皆保険の持続性も意味を持つのです。
※本文中写真提供:小黒一正
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