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2%目標達成の後:長過ぎた「実験」の帰結
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2%目標達成の後:長過ぎた「実験」の帰結

August 3, 2022

R-2022-029

消費者物価上昇率は2%超が続く
デフレに関する理解の変化
財政の維持可能性に関する理解の変化
政府・日銀共同声明の実効化を

消費者物価上昇率は2%超が続く

日銀が「異次元緩和」を開始して10年目に入った今年4月、消費者物価(除く生鮮食品)の前年比はエネルギーや食料品の値上がり等を背景に初めて目標の2%を上回った[1]。過去20年余り、日本のインフレ率が2%を超えたのは、同じくエネルギー、食糧の国際市況が高騰した08年の6~8月の3ヶ月間だけであり、しかもこの時は直後に世界を襲ったリーマン・ショックの影響から、たちまちデフレに舞い戻ってしまった。これに対し今回は、既に6月まで3ヶ月2%超が続いているだけでなく、円安の影響などから今秋に掛けてインフレ率はさらに高まっていくと予想されている。物価指数の動きからみる限り、金融危機の直後98年から始まった本格的な日本のデフレが終焉に最も近づいていると言うことができよう。

しかし今、異次元緩和開始の1年後、14年の春頃にみられた「デフレ脱却」期待(この頃のインフレ率ピークは、消費増税の影響を除くと14年4月の+1.5%に過ぎなかった)の高揚感のようなものは全く感じられない。人々の間には物価高への不満が高まり、政府も物価高対策に四苦八苦しているのは周知の通りである。他方で、異次元緩和スタート前後には、極端な金融緩和がハイパーインフレに繋がるとの批判のほか、インフレに伴う金利上昇が財政危機をもたらすといった不安が聞かれた。これに対し現在は、米国を中心に海外で金融引き締めが加速する中、一部に利上げが必要との声が聞かれるものの、金利上昇へのリスクはあまり意識されていないようだ。

こうした変化の背景には、当初は2年程度で2%目標を達成できると豪語した「実験」的な金融政策が結果的には10年近くも続く中で、デフレに関する理解や財政の持続可能性に関する見方が大きく変わってしまったことがあると考えられる。以下本稿では、この10年間で物価とインフレ期待や賃金の関係、さらには金利水準と財政の持続可能性に関する理解がどのように変化したのかを確認していきたい。同時に、「どうせ物価は上がらない」という思い込みに潜むリスクについても議論したいと思う。

デフレに関する理解の変化

インフレ率が2%の目標を超えたことを受けて、日銀の黒田総裁は6月初めに「金融政策の考え方-『物価安定の目標』の持続的・安定的な実現に向けて」と題する講演[2]を行なった。この中で総裁は、日本のインフレ率は2%強と8~9%に達する欧米に比べ低いことに加え、①物価を押し上げている資源価格の上昇は、交易条件の悪化を通じて日本経済にマイナスに働くこと、②物価の持続的上昇には賃金の上昇が不可欠だが、まだ明確な賃金上昇の動きは確認されないことを挙げ、金融緩和政策の転換は適当でないとの見解を示した。これらの点に関しては筆者も完全に同意するが[3]、その反面、「ここで述べられていることは、10年前に黒田総裁や『リフレ派』が主張していた物価変動の理解と大きく変わってしまっている」との違和感を覚えさせるものでもあった。

と言うのは、異次元緩和がスタートする直前の10年前の時点で、岩田規久男日銀元副総裁らに代表されるリフレ派と吉川洋東大名誉教授らに代表される反リフレ派の間には、物価形成のメカニズムについて、次の2点で根本的な対立があったからである。まず第1は、日本経済の長期低迷とデフレの関係であり、リフレ派が「デフレこそ長期低迷の原因」と主張していたのに対し、反リフレ派では「デフレはあくまで結果」との理解が一般的であった。そして第2に、物価を決定する要因としてリフレ派が「インフレ期待が最重要」としていたのに対し、反リフレ派は賃金の影響を重視していた[4]

ここでリフレ派の見解が正しいとすれば、大胆な金融緩和によってインフレ期待が高まればデフレからの脱却が可能になり[5]、デフレ脱却さえ実現すれば日本経済は復活するというバラ色のシナリオが描けることになる。こうした期待から異次元緩和が開始された訳だが、周知のようにバラ色のシナリオが実現することはなかった。そこで日銀が16年9月の「総括的検証」でまず認めたのはインフレ期待が適合的、すなわちforward-lookingではなくbackward-lookingであり、インフレ期待の変化には時間が掛かるという事実だった。このため、インフレ期待重視という姿勢自体は改めることなく、デフレ脱却には粘り強く金融緩和を続けることが必要として、当初の2年程度で目標達成という短期決戦路線から持久戦路線へと転換していったのである。

そして今回、安定的な物価上昇には賃金の上昇が重要と認めるに至った。事実上、物価の決定メカニズムについて反リフレ派の見解を受け容れたことになる。しかも、先の黒田総裁の講演では述べられていないが、日本で賃金がなかなか上がらない背景には、労働生産性が上がっていないこと、すなわち日本経済の長期低迷があるというのが経済学者やエコノミストの一般的な理解であろう。それは、デフレが長期低迷の結果だということを意味する。実際、リフレ派は「物価が下がると思えば、家計も企業も支出を先送りする」ことを強調して、デフレが不況の原因だと主張していたが、物価が上がり始めた今も、支出が大きく盛り上がる様子はみられていない[6]。そう考えると、確かに①、②といった物価高の原因や政策対応のあり方に関する黒田総裁の認識自体は正しいとしても、それは当初異次元緩和の背後にあったリフレ派の論理を完全否定するものだったということになる。

財政の維持可能性に関する理解の変化

このように、異次元緩和という実験が10年も続いているうちにデフレに関する認識は大きくすり替わってしまった。一方、異次元緩和開始直後には、ハイパーインフレを招くといった極論はともかく、金融緩和の「出口」において、政府財務の維持可能性に重大なリスクをもたらすことが多くの専門家によって指摘されていた。2%目標が実際に達成されれば利上げが行なわれることになるから、それが巨額の債務を抱える日本政府にとって大きなリスクとなることは明らかだろう。

ここで話を複雑にしてしまったのは、日銀が巨額の長期国債を買入れたことだ。日銀が買入れた国債の利回りは大部分がゼロ近傍だが、利上げを始めれば代わりに発行した500兆円を上回る日銀当座預金に利子を支払わなければならない。このため、2%目標が達成されて利上げが始まれば、日銀が大幅な赤字となり債務超過に陥るリスクが指摘されている。この議論が最も盛んだった15~16年頃でも、日銀の債務超過は数兆円オーダーになると試算されていたから、その後の国債買入れ増加を考慮すれば、その金額はさらに大きくなっているだろう[7]。しかし、安倍元首相が「日銀は政府の子会社」と述べたように、この問題を過度に重視する必要はない。有力政治家としてこの発言が適切だったか否かは別にして、現在の経済学では政府と中央銀行の連結バランスシートを考えるのが通例であり、例えば政府の財務が中央銀行に十分な額の資本注入を行える程度に強固であれば、中央銀行の債務超過自体は問題にならない[8]。政府債務の維持可能性こそが問題の要なのである。

この点でもリフレ派は超楽観論だった。デフレさえ脱却すれば、日本経済は本来の実力を取り戻し、高成長を実現できる。税収も大幅に増えて、増税など行わなくとも財政の健全化は達成できると考えていたからだ。しかし、ここでも異次元緩和の実験が彼らの楽観論を打ち砕くことになった。アベノミクス期の実質成長率はコロナ前でも平均1%前後と以前から全く高まらなかったため、2度にわたる消費増税に実施にもかかわらず、政府債務残高/名目GDP比率は12年度の226%から21年度の263%(IMF試算)まで上昇してしまったのである(詳しく言えば、コロナ前までは微増、コロナ禍に急増の結果である)。

こうした中で、元々は金融政策万能論だったリフレ派の面々が臆面もなく積極財政論に転向し、政治家の多数が経済学者の間では圧倒的な少数派であるMMTの信者となるなど、財政に対する危機感が全く感じられないのは異様な光景と言わざるを得ない。もちろん、昨年前半までであれば、低成長、低インフレ、低金利の「日本化」(Japanification)が世界を覆ったとの認識の下、「低金利が当分続くのであれば、財政政策を積極的に活用すべき」との見方がマクロ経済学の主流派の間にも拡がっていたのは事実である[9]。だが、足許ではインフレが世界的に加速し、先進国、新興国を問わず金融引き締めが強化されるなど、環境が大きく変わったことは誰もが知る通りである(例えば、欧州ではイタリアなど南欧諸国の財政赤字が金融引締めへの制約条件となることが意識され始めている)。にもかかわらず、日本国内では超金融緩和があまりにも長期化した結果、市場の金利リスクへの感覚が麻痺し、それ以上に政治家の間に財政に関するモラル・ハザードが強まってしまったということだろうか。

政府・日銀共同声明の実効化を

もちろん、賃金が上がらない日本では、前述のように直ちに利上げを考える状況にない以上、財政への危機感が高まらないのも当然という面はある。しかし一方で、欧米でも昨年前半までは現在のような高インフレは全く意識されていなかったという事実も忘れてはならない。過去1年余りの欧米の経験は、多くの経済学者・エコノミストにとって我々の物価の決定メカニズム(インフレ動学)への理解の不十分さを再認識させるものであった。驚く人も多いかも知れないが、「経済学に信頼に足る物価決定の理論は存在しない」というのは経済専門家の間の公然の秘密なのだ。実際、物価の予測に多く用いられるフィリップス曲線は単なる経験則で理論とは言えない(しかも、経験則自体が極めて不安定なことで知られる)。また貨幣数量説も、本来相対価格の決定理論である新古典派の体系を閉じるために恣意的に導入された式(財・サービスの需要のようなミクロ的基礎を持たない)に過ぎないのである[10]

こうした点を考えると、「直ちに利上げに備えよ」とまで言うつもりはないが、経済安全保障の観点も含めた脱グローバル化の流れ、脱炭素などを背景に低インフレの時代は世界的に終わりを迎えつつあるのかも知れない。いつまでも「どうせ物価は上がらない」と決め込むのは危険ではないか[11]。そうした観点から、まず取り組むべきは異次元緩和スタート直前の13年2月に政府と日銀の間で交わされた「共同声明」[12]の実効化だと筆者は考える。と言うのも、この文書には、日銀が2%のインフレ目標を「できるだけ早期に実現することを目指す」と書かれているだけでなく、政府に対しても「日本経済の競争力と成長力の強化に向けた取組みを具体化し、これを強力に推進する」ことと、「財政運営に対する信認を確保する観点から、持続可能な財政構造を確立するための取組みを着実に推進する」ことが明確に謳われているからだ。

先にみたように、安定的な物価上昇がなかなか実現しないのは、「デフレは経済長期低迷の結果」という面があることを考えると、明確なデフレ脱却実現のためにも競争力と成長力の強化は不可欠である(金融緩和のみに頼った10年間の実験がそのことを証明した)。同時に、持続可能な財政構造の確立なしに2%目標が達成され、金利正常化が始まるのも危うい。財政の健全化には一定の時間が掛かるとしても、財政運営への信認を確保するためには、中長期的に明確な目標を早期に掲げることが極めて重要である。


[1] 最近の物価上昇に関しては、拙稿ジワリ上がり始めた日本の物価 | 研究プログラム | 東京財団政策研究所 (tkfd.or.jp)を参照。

[2] 【講演】黒田総裁「金融政策の考え方─「物価安定の目標」の持続的・安定的な実現に向けて─」(きさらぎ会) : 日本銀行 Bank of Japan (boj.or.jp)。この講演は、「消費者の値上げ許容度が高まった」と述べて、厳しい批判を浴びたものである。

[3] 筆者が主張しているのは、為替レートの過度の変動を防ぐためにイールドカーブ・コントロールの運用を弾力化することが望ましいということであって、金融政策の転換ではない。この点に関しては、米国利上げと日本の金融政策―YCC弾力化の可能性 | 研究プログラム | 東京財団政策研究所 (tkfd.or.jp)を参照。

[4] リフレ派が明確な派閥を形成していたのに対し、反リフレ派には強固なまとまりが存在しない。ただ、物価に関する理解に関しては、13年初に刊行された吉川洋『デフレ-ション』、日本経済新聞出版社に集約されている。

[5] デフレ脱却に関しては、実はもう一つ、ゼロ金利の下でもマネタリーベースを増やすことでインフレ期待を高めることが可能か否か、という論点があった。しかしこの点については、既に10年前の時点で「不可能」ということで学問的には決着が着いていた。したがって、岩田規久男氏のような狭義のリフレ派はともかく、黒田総裁や日銀のスタッフ達が本当にマネタリーベースを重視していたとは考えられない。彼らが狙っていたのは、大胆な政策で金融市場にサプライズを与えることで、円安などを通じた物価上昇をもたらすことだったとみられる。この点について詳しくは、拙著『金融政策の「誤解」』、2016年、慶應義塾大学出版会を参照。

[6] これは、実質所得が減少している家計だけではなく、収益好調の企業も同じである。確かに、日銀短観などでみる設備投資計画はやや強めだが、これは20、21年度と2年連続で設備投資が減った反動の範囲内であり、通例であれば設備投資計画は今後下方修正されていくことになる。

[7] 注5で示した拙著では、上記試算を含めてかなりのページ数をこの「出口」問題に割いている。

[8] ただし、次の2点に注意が必要である。まず、日本国内でしばしば議論される「日銀が国債を購入すれば、その分の返済負担はなくなる」という俗説は完全に間違いである。この点に関しては、拙稿MMT派の信用創造理解:その貢献と限界 | 研究プログラム | 東京財団政策研究所 (tkfd.or.jp)を参照。また、通貨の信認は人々の受け止め方に依存するため、日銀の債務超過が円の信認の喪失と理解されれば、それが資本流出を通じて円安とインフレにスパイラルを招く可能性がないとは言い切れない。

[9] その代表としてOlivier Blanchard,“Public Debt and Low Interest Rates”, American Economic Review, 2019、および同氏の“The Mayekawa Lecture : Fiscal Policy under Low Rates : Taking Stock”, Monetary and Economic Studies, 2021、がある。

[10] この点は、今から半世紀以上前に出版されたパティンキンの古典的著書、ドン・パティンキン『貨幣・利子および価格』、1971年、勁草書房で詳しく論じられている。

[11] 7月に公表された「展望レポート」における日銀の物価見通し(消費者物価前年比、除く生鮮食品)は、22年度+2.3%、23年度+1.4%、24年度+1.3%だった。つまり、日銀はまだ2%目標の安定的な実現は難しいと考えているようだが、そこでは来年の春闘が極めて重要になる。今年の春闘賃上げ率は2%強だったが(1.8%程度の定期昇給分を除くと0%台前半)、昨年度の物価上昇率が+0.1%だったことを考えればやむを得ないと言える。一方、今年度の物価上昇率が2%台となり実質賃金が大幅に低下するなら、来年の賃上げはその分を取り返すために少なくとも3%後半を目指す必要がある。それが実現すれば、安定的な2%の可能性が出てくる。逆に、来年の賃上げが2%台前半に止まるならば、このまま金融緩和を続けても、安定的な2%には当分手が届かないだろう。

[12] 0122_seifu-nichigin.pdf (cao.go.jp)

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