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「未来の水ビジョン」懇話会9「途上国の水問題:南アジアの地下水ヒ素汚染」
画像提供:Getty Images

「未来の水ビジョン」懇話会9「途上国の水問題:南アジアの地下水ヒ素汚染」

March 20, 2023

R-2022-131

Keynote Speech(概要)
1.南アジアの地下水ヒ素汚染問題
2.解決に向けた南アジアの政策と技術
3.変動する汚染状況:長期変動と季節変動
4.個人の認知と行動
5.世界的トレンドに基づく政策とその課題
6.提言:モニタリングを徹底し、国際協力のアクターを多様化する
さらなる議論

「未来の水ビジョン」懇話会では、南アジアの地下水ヒ素汚染を事例に、途上国の水問題の諸相と解決に向けたアプローチについて議論を行う。(20221111日 東京財団政策研究所にて)

Keynote Speech(概要)

坂本 麻衣子/「未来の水ビジョン」プログラム懇話会メンバー/東京大学 大学院新領域創成科学研究科 国際協力学専攻准教授

1.南アジアの地下水ヒ素汚染問題

元来南アジアでは、表流水(池や川の水)を飲料水としていたが、コレラ等水系伝染病による健康被害も多かった。1970年以降、導入の手間やコストがそれほどかからない管井戸が代替水源として提案され、地下水の利用が進んだ。

しかし、1983年にインドの西ベンガル州でヒ素中毒症の患者が初めて報告され、その後の調査でバングラデシュ、ネパール、ベトナム、カンボジアでも患者が見つかった。患者の大半は水道未整備の農村部に住んでおり、地下水を使用していたことから、地下水の調査が行われた結果、高濃度のヒ素が検出され問題が顕在化したのが1980年代終わりから2000年代にかけての状況である。

南アジア、東南アジアの汚染濃度から、10年ほど飲み続けると内臓疾患や皮膚がんなどのリスクがあり、死に至る場合もある。神経系への影響から子どもの学習能力にも悪影響を及ぼすとの報告もある。 

 出典:Chakraborti et al. (2013). inJournal of the Indian Society of Agricultural Statistics, 67(2), 235–266.

2.解決に向けた南アジア諸国の政策と技術

ここでは、インド、バングラデシュ、ネパールの取り組みを紹介する。

飲料水のヒ素の最大許容濃度は、世界保健機関(WHO)のガイドラインでは、0.01mg/L、前述の3カ国では、最大で0.05mg/Lとされ、これを下回る飲料水を供給することが、各国政府の目標となっている。表1に各国のヒ素汚染の状況とそれに対する政策、想定する代替技術を整理した。


インドとネパールでは上水道、バングラデシュでは深井戸が優先代替技術となっている。これらの地域では一般に、地表に近い第1帯水層がヒ素に汚染され、その下に位置する帯水層は汚染がないことが知られている。第1帯水層を利用する浅井戸が家庭に広く普及しており、これが問題の原因となっている。

バングラデシュでは、公共用代替水源の設置目標が2018年に達成されたが、コミュニティ管理の代替水源は維持管理が行われず放棄されることも少なくない。家庭用の代替技術として、ヒ素除去フィルター、雨水タンクも設置されている。農村部での上水道建設の進捗は遅い。ネパールでは、世界銀行の支援を得て、Kanchan Arsenic Filter(KAF)と呼ばれる家庭用装置が3万基以上普及している。KAFは鉄くぎ、砂や砂利といった現地で容易に入手できる資材を用いたデザインとなっている。導入された際は緊急措置の意味合いが強く、また、4年程度でフィルターの資材を交換することが推奨されているものの、利用者にはその点が認知されておらず、十分なメンテナンスやモニタリングが行われないまま使用し続けられている。2018年に行われた調査によると、利用されているものは30%、そのヒ素除去率は平均で70%、ネパールのガイドライン(0.05mg/L)を満たしているものは86% ということであった。使用を中止した理由としてはボトル水や上水道などの代替水源の導入もあるが、装置が故障しても修理方法や修理の依頼先などが分からず、元の浅井戸に戻った人の方が多い(2) 。同じ地下水ヒ素汚染問題に対して、問題の規模や過去の外部機関の介入の在り方などによって、隣り合う国でも対応は様々で、現在に至って、問題はそれぞれで異なる様相を呈している。

出典:Ngai et al. (2007) in Journal of Environmental Science and Health - Part A, 42(12), 1879–1888.

3.変動する汚染状況:長期変動と季節変動

ヒ素の除去は技術的にそれほど難しくないと言われながらも、なぜ未だに多くの人がヒ素汚染された地下水を飲み続けなければならないのか。対策の実行を難しくする要素として、まず、地下水のヒ素含有量の変動に関する不確実性がある。1993年にバングラデシュで最初に地下水からヒ素が検出された村を25年後に調べたデータでは、ヒ素含有量がかなり低くなっていることが確認されている。これとは逆に濃度が上がる場合もあり得る。このような長期変動に加え、季節変動もある。日本のNGO、アジア砒素ネットワーク(3)が2002年から7年に渡って行った調査によると、乾季の灌漑で地下水位が低下すると、ヒ素濃度が一時的に低下し、その後急上昇すると報告されている。また、許容濃度以下にするのは難しくとも、現在の半分以下にするだけでも健康被害の軽減が期待できるのだが、外的条件の不確実性から、フィルターのパフォーマンスが安定せず、口に入る瞬間の安全性を保証する技術、製品の供給が難しいため、フィルター開発・普及のプロジェクトの実現を困難にしている。

 

出典:Sakamoto (2020) in International Journal of Environmental Research and Public Health.

4.個人の認知と行動 

住民に対する意識啓発活動が実施されても、ヒ素汚染のリスク認知は人や場所によって様々で、足並みを揃えた行動を促す難しさがある。バングラデシュで最初にヒ素汚染が報告された村(A村)でヒ素発見から25年後に行った調査では、ヒ素中毒症患者は存在しなかったが、A村と同様にヒ素汚染が知られる近隣の村(B村)では、10%の世帯にヒ素中毒症の患者がいることが確認された。ただし、これはリスク回避行動による結果ではなく、前節で述べたA村でのヒ素汚染濃度の低下が要因であると考えられる。実際、両村には水道が設置されているのだが、飲料水の水源としての水道利用は、A村は37%B村は61%であり、料理用の水の水道利用は、A村は69%、B村は63%であった。水道を利用しない場合は浅井戸を利用している。ヒ素を含んだ地下水には鉄が含まれていることが多く、料理の味や炊き上がった米の色に影響するため、料理には鉄分の含まれていない水が好まれるのだ。この地域では浅井戸はヒ素に汚染されている可能性があることを住民は概ね良く知っているのだが(ただし、長らく検査されていないため個々の井戸の正確なヒ素濃度は知られていない)、安全な水道水を使用できる状況にありながらもA村の多くの者は飲料水として選択していないことがわかる。最初にヒ素が報告された村であることから、意識啓発活動は十分なされてきたと考えられるため、予想を裏切る結果であった。

現在、A村の浅井戸の水は問題のないレベルではあるのだが、ヒ素汚染地域であるため科学的可能性として安全であると言い切ることはできない。このように、一定の啓発活動を行ったとしても、発症までに10年程度を要する健康リスクに対して、リスク回避行動の足並みを揃えることは容易ではない。

5.世界的トレンドに基づく政策とその課題

各国政府の政策は世界的動向に影響を受けやすいが、水供給・衛生セクターも、数値目標の達成を優先するあまり、導入しやすい対策で達成率を稼ぐなど、政治的な意図と無縁ではない。

表1で示したように、ネパールではヒ素対策の政府予算が乏しい状況にあるが、水供給・衛生セクターの予算のうち、水供給セクターへの配分割合が2008年あたりから顕著に減り、衛生セクターへの予算が増額していった。これは、2015年をゴールとしたMillennium Development Goals (MDGs)に対して、2010年時点で「改善された水源」へのアクセス目標73%は既に達成された一方、「改善された衛生施設」へのアクセス率は37%であり、目標52%にはほど遠かったため、MDGsの目標達成に向けた駆け込み政策であったという見解はあり得る (1) 。ネパールではヒ素汚染のある地域は限定的であること、また、開発の優先順位が高くはない地域の問題であることから、ヒ素汚染の問題は後手に回されたとも考えられる。

トイレ・ポリティクスとも言えるような状況はバングラデシュでも見受けられる。野外排泄の撲滅という目標に対して、下水道整備等に比べて、ピットラトリンという形式のトイレは単体で簡易に設置できるため、導入が進み、2018年には野外排泄ゼロを達成したと報告された。しかし、数を稼ぐことを目的に導入を急ぎ、意識啓発やし尿処理施設の整備は不十分だったためか、放棄されたり、穴が開いて壊れていたり、清掃時に排泄物が水路に投棄されるなどの状況は未だ横行している。このために村の池が汚染され、そこで子供達が泳いで遊ぶようなことがあれば、本末転倒である。


飲料水中のヒ素の許容濃度についても、ヒ素摂取と健康被害の関連は、いまだに詳細が明確になっていないこともあり、許容濃度の決定は医学的というよりも政策的な色合いが強い。したがって、健康リスクに対する政策実行の費用便益の観点も重要となる。WHOでは、1958年に0.2mg/L1963年には0.05mg/L、そして1993年に現在の0.01mg/Lと順次改訂されている。米国でも2001年の基準見直しで0.05mg/Lから0.01mg/Lに引き下げられた。南アジア・東南アジア諸国では、軒並み0.05mg/Lとしている。0.01mg/L とした場合、政府として飲用可能と言える水がなくなる地域がでてしまうことが危惧され、また、WHOでも1993年までは0.05mg/Lを基準としていたことから、大きな悪影響はないだろうという判断と考えられる。

開発途上国では、ヒ素に限らず様々な健康リスクが高い状態にあると考えられるため、政策の費用便益という観点からは、当初は許容濃度をもう少し高く設定し、国の発展に準じて下げていくということもあり得たのではないか。許容濃度を低くすれば問題の規模は大きくなるため、対策が難しくなり、後手に回される要因にもなり得る。

6.提言:モニタリングを徹底し、国際協力のアクターを多様化する

1つ目の提言として、国際協力の分野において、モニタリングを徹底し、データの透明性を高めることが、安全な飲み水確保の政策を持続的に行うキャパシティビルディングにつながると考えられる。

国際協力という形で外国から行われる援助は各国の水政策に大きな影響を与えるが、多くのプロジェクトには期限があり、終了後の持続可能性やモニタリングは組み込まれていない。その場合、最終的な責任の所在が不明なまま、被援助国は一時的な雇用などでお金が回ることでよしとしてしまうケースがある。また、汚職など援助資金の不正使用も後を経たない。

例えば、災害防災支援は資金不正使用が顕著な分野で、支援物資が行き渡らない、計画された堤防が建設されていない、建設されても十分な強度がないといったケースがある。情報の透明性を高めることは先進国と途上国の健全な関係のためにも必要である。近年の情報インフラの発展とコスト・ダウンにより、技術的には決して難しくなくなっているはずである。

もう1点、提言したいのは、国際協力のアクターを多様化することである。国際協力や開発援助の重要な使命の1つは、経済発展に伴う生活環境の改善が十分でない人々にアウトリーチすることにある。例えばネパールでは、300万円程度の費用で300人規模の集落にパイプ給水装置を設置できる(1)。昨今のESG投資やCSRの活動として11村でも村落パイプ給水の資金を提供できれば、予算不足の問題は日本の企業だけで大幅に改善できるのではないか。具体的な取り組みに困っている企業にとって選択肢の一つになり得るし、各社にオーナーシップが生まれ、モニタリングも行われやすい。若手社員にとっても海外案件に取り組む研修の機会になるのではないかと考えられる。このような顔の見える関係性が構築されることが重要である。

さらなる議論

双方向の関係と持続性

 

ヒ素濃度の変動と社会の水利用


技術と管理、社会的信頼


リスクの認識と行動変化


 

「未来の水ビジョン」懇話会について

我が国は、これまでの先人たちの不断の努力によって、豊かな水の恵みを享受し、日常生活では水の災いを気にせずにいられるようになった。しかし、近年、グローバルな気候変動による水害や干ばつの激化、高潮リスクの増大、食料需要の増加などが危惧されている。さらには、世界に先駆けて進む少子高齢化によって、森林の荒廃や耕作放棄地の増加、地方における地域コミュニティ衰退や長期的な税収減に伴う公的管理に必要な組織やリソースのひっ迫が顕在化しつつある。

水の恵みや災いに対する備えは、不断の努力によってしか維持できないことは専門家の間では自明であるが、その危機感が政府や地方自治体、政治家、企業、市民といった関係する主体間で共有されているとは言い難い。

そこで「未来の水ビジョン」懇話会を結成し、次世代に対する責務として、水と地方創成、水と持続可能な開発といった広い文脈から懸念される課題を明らかにしたうえで、それらの課題の解決への道筋を示した「水の未来ビジョン」を提示し、それを広く世の中で共有していく。

※「未来の水ビジョン」懇話会メンバー(五十音順)
沖大幹(東京財団政策研究所研究主幹/東京大学大学院工学系研究科)
小熊久美子(東京大学大学院工学系研究科)
黒川純一良(公益社団法人日本河川協会専務理事
坂本麻衣子(東京大学大学院新領域創成科学研究科)
笹川みちる(東京財団政策研究所主席研究員/雨水市民の会)
武山絵美(愛媛大学大学院農学研究科)
徳永朋祥(東京大学大学院新領域創成科学研究科)
中村晋一郎(東京財団政策研究所主席研究員/名古屋大学大学院工学研究科)
橋本淳司(東京財団政策研究所研究主幹/水ジャーナリスト)
村上道夫(大阪大学感染症総合教育研究拠点)


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未知みちる水のインタビュー第2回 坂本麻衣子(東京大学)「土木工学から始まり、国際協力の現場で目の前の現実を動かしていく」

https://www.tkfd.or.jp/research/detail.php?id=4037

<参考>
  • 緒方隆二 (2020) ネパールにおける地下水砒素汚染問題に関する政策および 対策実施の過程とその実効性の分析. 東京大学学位論文.
  • Ogata et al. (2020) inJ. Environ. Sci. Heal. Part A.

    Ogata, Ryuji, Bipin Dangol, and Maiko Sakamoto. 2020. “Sustainability Assessment of Long-Term, Widely Used Household Kanchan Arsenic Filters in Nepal.” Journal of Environmental Science and Health, Part A 55 (5): 517–27.

  • アジア砒素ネットワーク https://www.asia-arsenic.jp/
  • ウォーターエイドジャパン https://www.wateraid.org/jp/

    • 「未来の水ビジョン」 懇話会
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